第十二章
竜眼の剣によって、グラーツは床に倒れた。自分の体から血飛沫が上がるのを、信じられずに見詰めながら。
フランツは荒い呼吸の下、じっとその様を見ていた。顔にグラーツの血が飛んでいる。フランツもまた、信じられなかった。これが本当に自分がやったことだとは。竜眼の剣が自分の憎しみと共鳴し、まるで意志を持ったかのように、勝手に動いたとしか思えなかった。
床に倒れたグラーツの体からは血がどんどん染み出し、絨毯を真紅に染めていく。しばらくその金髪が引き攣ったようにビクリ、ビクリと動いたが、やがてその動きも収まり、沈黙が部屋を支配した。
フランツは屈みこむと、グラーツの体を反転させた。目は見開かれたまま動かない。首元に触れるが、脈はもう打ってはいなかった。
(死んでいる…)
フランツは大きく息を吐いた。自分は、人の命を奪ったのだ。信じられなかった。
「死んだ…」
フランツは声に出して言ってみた。途端に、妙にしんと冴えていた頭が沸騰し始め、指先が、膝が震え始める。
(殺したのだ!)
(私が、殺したのだ!)
一方で、頭のどこかで声がする。
(仕方がないんだ)
(だってこの竜眼の剣はジークのものだから。奪ったこの男が悪いんだ。ジークに返さなければ)
(そうだ。ジークに返さなければ)
もう、そのこと以外考えられなかった。罪悪感はどこかに消えた。
フランツはグラーツの遺体を引き摺ってベッドの下に隠した。背の高いグラーツはずっしりと重かったが、それも何とかなった。そしてシーツで自分の顔や髪についたグラーツの血を拭い、竜眼の剣についた血を丁寧に拭き取り、鞘に納めた。
フランツは再び、柄の緑の石に触れてみた。だが、今はただの冷たい石に戻っていた。あの時、確かに燃え上がるように熱くなり、(殺せ)と訴えてきた石。その後、自分の中から訳の分からない力が湧いてきたのだ…。
(あの声は、何だったのか…)
だが、考えに沈んでいる暇はフランツにはなかった。
(バウアーや召使いたちが来る前に、ここを抜け出さなければ、ジークに剣を渡せない。このままでは幽閉され、処罰される。いや、私はどうなってもいい。でも竜眼の剣がまた誰かの手に渡ってしまう。ジークに返さなければ!)
フランツは血にまみれた服を脱ぎ捨てた。だが、着替えが手元にない。衣裳部屋には召使いたちがいる。そこまで考えて、フランツはハッと気付いた。
(ゾフィーのドレスを、棚の奥に隠したままだ)
結局、捨てられなかった妖精のようなドレス。幸せと祝福をそのまま形にしたような薄紅色のドレス。
フランツはそのドレスを引っ張り出すと、何のためらいもなく身に纏った。一緒に置いてあった淡い紅を帯びた真珠の首飾りもつける。その上から長いコートを羽織り、頭をすっぽりとゾフィーが残していったスカーフで覆った。
フランツは竜眼の剣を抱えると、窓を開けた。途端に飛び込んでくる雪。すっかり夜になり、ごうごうと唸るように吹雪いていた。真っ白で、外は何も見えない。
だが、フランツは躊躇することなく剣を抱えたまま飛び降りた。二階の窓からではあったが、雪がクッションとなり、何の音もしなかった。衝撃はほとんどなく、頭の傷にも響かなかった。
フランツは雪をこいで厩へ向かうと、真っ白な馬のワルキューレ号を引き出し、鞍をつけた。
その時、物音を聞きつけ、厩の奥から人影が出てきた。
「何をしている!」
長年厩務を担ってきた老召使いだった。ランプを掲げて怒鳴る。「馬盗人か?」
だが、フランツは怯まなかった。
「控えなさい!無礼者!」
フランツはわざと胸を張り、ゾフィーの高い声色を真似た。
「ゾ、ゾフィーさま?」
普段でも似ている二人だ。暗闇の中とあっては召使いにはフランツの姿がゾフィーに見えても不思議はない。
「おどきなさい!馬を出すのよ!」
「ゾフィーさま、このような吹雪の中、まして夜も更けております。危のうございます…」
「私に意見する気?」
フランツは軽々と馬に飛び乗ると、ゾフィーその人のようにヒステリックに怒鳴った。「おどき!さもないと、踏み殺すわよ!」
「申し訳ありません!どうかお許しを!ゾフィーさま」
召使いはほうほうの体で厩の扉を開けた。
フランツを乗せた馬は勢いよく厩を飛び出し、吹雪の中を駆け出した。
深い雪をものともせずに、ワルキューレ号はあっと言う間に門まで駆け抜ける。
顔に叩きつける雪に目を細めながら、フランツは左右を見渡した。夜中ではあるが、雪がほのかに街道を照らしていた。
ノルデンシュタットへの、くわしい道は分からない。けれど、北だ。北へ行けばいい。
「ワルキューレ」
フランツは馬の首に顔を寄せた。「ジークは君のことを賢い馬だと言っていた。どうか君の愛するジークの元へ、私を連れていっておくれ」
ワルキューレは、ブルルと鼻を鳴らした。そして、まるでフランツの言葉が分かるかのように、ある方向に向かって歩を進め始めた。
フランツは信じた。ワルキューレが自分を導いてくれる、と。信じる以外、方法は無かった。
いかな俊足のワルキューレでも、深い雪とあっては一歩一歩、ずぼり、ずぼりと進むしかなかった。
馬上のフランツは何度も手を摺り合わせた。手袋をしているけれど、王族用のそれは見かけばかりのしゃれたもので実用性はなく、すぐに指先がじんじんと冷たくなった。しびれを通り越して、千切れそうになる。何度も息で暖めるが、すぐに寒さが痛みとなって押し寄せてくる。
頬も、耳も、冷たいを通り越して痛い。
あまりの痛さに、フランツはワルキューレの首に顔を寄せた。たてがみには溶けた雪が再び凍り付いているが、その肌は温かい。
(ジーク)
フランツは呟いた。
(ジーク、君に会いたい。君に会いたい。君に会いたい。一目でいいから、君に会いたい!)
ただ、それだけのために、フランツは今生きていた。
(ああ、愚かにも人を殺めた私を、きっと君は許してくれないだろう。それでも、それでも、君に会いたい。会いたいんだ)
そうやって、何時間かが過ぎた。
ワルキューレの歩みは遅かったが、それは追っ手も同じことだった。
フランツは後ろを振り返った。人っ子一人いない。家の明かりも見えない。誰もがこんな夜は、布団をかぶって眠っているのだろう。幸いにして、狼も野犬も吹雪のために現われる気配はない。
「ワルキューレ、すまないけれど頑張ってくれ。夜が明けるまでに進めるだけ進むんだ」
街道の町をいくつか通り過ぎたが、宿屋には寄らなかった。女性が一人、夜中に馬を走らせて来たなど、不審がられるのは目に見えているからだ。
それに、一刻も早く王宮から遠くへ行かなければと気が急いていた。
(もう、グラーツは見付かっただろうか)
ワルキューレの脚が、目に見えて遅くなったころ、夜が明け始めた。
風は収まったが、まだ雪は降り続いている。
紗がかかったような、ほのかな夜明けの光の中で、フランツは目を凝らした。街道から少し離れた畑の奥に、一軒の炭焼き小屋が見えた。
中を覗くと、誰もいなかった。炭焼きのときだけ使われているのだろう。ワルキューレも入れるくらいの広さがある。
(少しだけ体を休めなければ)
フランツはそっと小屋に入った。ワルキューレの鞍を外し、炭焼き小屋の主が寝床代わりに使っているであろう藁を与えた。そして、そのまま自分は藁の中に突っ伏した。凍えていた体が、藁の中で温かく解けて蘇っていくようだった。
フランツはそのまま、深い眠りに落ちた。
同じころ、宮殿では大騒ぎになっていた。
グラーツの死体を見つけたのは、王太子の様子を見に来た召使いだった。けれど、フランツにとって幸いだったのは、誰もそれがフランツの仕業だと思わなかったことだ。ひ弱なフランツに、屈強な軍人であるグラーツを一刀両断にできる力など無いと、誰もが信じていた。
「賊が入り込み、王太子殿下を誘拐した」
「犯人はオーストリアの間者らしい」
その見立てに異を唱える者はおらず、結果、捜索の範囲はフランツが逃げた方向とはまったく違っていた。




