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王のカノン  作者: 秋主雅歌
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第十一章

 フランツが目を覚ましたのは、自室の寝台の上だった。

 何もかもが夢だったような気がする。きっと枕元にはいつものようにジークがいて、もう朝だと、早く着替えるようにと、つっけんどんな口調で言うのだ…。

「やっとお目覚めになられましたか」

 だが、その声はしわがれた老人のもので、ジークの艶やかな低い声ではなかった。

 頭を動かすと、枕元にいたのは苦虫を噛み潰したような顔の侍医バウアーだった。

「私は一体…」

「大した怪我ではありません」とバウアーは眉間に深く皺を刻んだまま告げた。

 そっと頭に触れると、包帯が厳重に巻かれていた。だが、痛みはあまりない。バウアーは神経質そうにその包帯を直した。

「出血はございましたが、頭の怪我とはそうしたもの。骨にも異常はありません」

「…そうか…」

「この程度ですんだのも、ヴィルヘルム王の愛情、お情けでございましょう」 

「…何とも、ありがたいことだ」

 フランツは片頬だけ歪めて笑って答えた。そんなはずはない。あの時、父は確かに私を殺してもいいと思ったはずだ。

 だが一方で、フランツは何の根拠も無いけれど、ある確信を持っていた。

 …あの剣が私を殺すはずがない…

 フランツは夢で見た、竜眼の石そのままの緑の瞳の少年を思った。そうだ。あの緑の目の少年は私に何かを言おうとした。彼は…いや、あの石は私を殺しはしない。あの石が、殺すのは…。

 フランツは寝台から体を起こした。少し、頭がくらくらする。

「まだお休みになっていてください、殿下。貴方さまは丸二日、眠っていたのですよ」

 バウアーの言葉に、フランツはギョッとした。

「二日?今、二日と言ったのか?」

「そうですとも。殿下は丸二日、ただひたすら眠っておいででした。時折目を開けることもございましたが、朦朧としていて、すぐにまた眠ってしまわれて」

「二日…」

 フランツは毛布をはね除けると、寝台を飛び降りた。だが足元がふわふわとして定まらない。

「殿下!」

 バウアーが止めようとするが、フランツは手で制した。

「大したことはない、と言ったのはお前だろう?」

 鋭い口調で言うと、窓に近寄った。ガラスは曇っていて何も見えない。指で拭くと、雪がしんしんと降り続いているのが見えた。空はぼんやりとした灰色で、今は昼なのか夕方なのかも分からない。

「…ノルデンシュタットへ行く部隊は、もう出たのか?」

「はい、二日前に」

 フランツは目を閉じた。ああ、やはりジークはもう行ってしまったのだ。

 彼は今、どこにいるのだろう。ノルデンシュタットは、ここよりもさらに雪深く、寒さも厳しいはずだ。ジークの黒髪に雪が積もるさまが、見えるような気がした。白い息を吐きながら、黙々と彼は雪の道を歩んでいるはずだ。彼には何の罪もないのに、赴く者の半数が命を落とすという極寒の地へ…。

 フランツは唇を噛んだ。どうしたらいいのだろう。ジークを取り戻すには、どうしたら…。

 やはり、父王に話すしかない。取り合ってはくれないだろうが、何度も、何度でも諦めずに説明するのだ。それしかない。

「殿下、何かお召し上がりください。温かなスープを運ばせます」

「…ああ、そうだな…」

 確かに、少しでも食べて回復しなければ。あの父と対峙するのだから、強くあらねば。

 そう考えた時、フランツはハッと思い出した。

「…バウアー」

「はっ」

「スープより、あの、飲み物が良いな。数日前の夜に、お前がよこしたワインだ」

「私が…、でございますか?」

 バウアーは案の定、よく分からないという顔をした。

「そうだ。あの、何と言ったかな、金髪で背の高い青年将校に運ばせた、何か薬草が入った温かなワインだ。あれは、よく眠れたのだが」

 バウアーはしばらく考えた後、眉を寄せて言った。

「恐れながら、殿下はきっと何か夢を見ておられたのでは。私は何も殿下には運ばせておりません。もしかしたら、頭を打ったために何か混乱しておられるのかもしれません」

 その言葉に、フランツは神妙な顔で頷いた。

「そうか。やはりな」

「殿下?」

「いや、何でもない。私の考え違いだ。すぐにスープを持ってきてくれ」

 フランツはバウアーに背を向けると、何度か一人で頷いた。

 やはり、そうだ。グラーツは嘘をついている。あの夜、グラーツが持ってきたワインは、バウアーからのものではない。あの男が薬を盛ったワインを私に渡したのだ。竜眼の剣を盗むために…。間違いない。

 フランツは覚束ない足取りで扉へと向かった。

「どこへ行かれます?」

 バウアーが慌ててフランツの前に立ちはだかった。「まだお休みになっていなければ!」

「どいてくれ!父上に会いに行く。報告しなければならないことがあるのだ」

「ヴィルヘルム陛下ならば、タウゼンの温泉に行っておいでです。お戻りは明日になるかと」

「タウゼンだと?」

「はい。気分がすぐれぬとおっしゃっておりました。殿下のご用事がどんなものかは分かりませぬが、お戻りになられるまでお休みくださいませ」

「だが…」

「どのみち、この雪では馬車も出せませぬ」

「…そうか。そう、だな」

 フランツはガックリと肩を落とした。確かに、雪がこんもりと庭園の木々や王宮の門を覆っている。タウゼンへの道は狭く、この雪ではたどりつくのすら難しい。

「殿下のお怪我も、まだ馬に乗っても大丈夫と言えるほど回復してはおりませぬ。まだ一晩は、不肖、この私が寝ずの番をさせていただきます」

 バウアーは医師らしく断固とした口調で言った。

 フランツは深い溜め息をついた。バウアーの監視があっては、抜け出すことも難しい。

「…そうか…。すまないな」

 仕方がない。明日だ。明日こそ、父上と対峙して話そう。

 そう誓って、フランツは渋々寝台に体を埋めた。


 だが、翌日も雪はしんしんと降り続いた。

 ヴィルヘルム王の戻りは、さらに延びた。

 

 フランツが目を覚ましてから、三日が過ぎた。彼は自室から窓の外を見た。雪はまだ降り続いている。何もかもが白く覆われ、空との境も曖昧だ。

 王はまだ宮殿に戻って来ない。

 フランツは目を閉じ、そしてゆっくりと眦を上げた。心は既に決まっていた。あと必要なのは勇気のみだ。

 侍医のバウアーは、フランツの容態が安定したとみて、食事の時だけ顔を出す程度になった。召使いたちも、フランツの眠りを妨げぬよう部屋には出入りしない。

 フランツは衣服を整えると、コートを取り出した。

(父上が戻らぬのならば、私がタウゼンの温泉まで行く)

 部屋を出ようと扉を開けたフランツだが、ギクリとその場で凍りついた。扉の外には椅子に腰掛けたグラーツがいたのだ。グラーツの手には、あの竜眼の剣が握られている。

 グラーツはフランツの姿を認めると、勿体ぶった様子で立ち上がり、表面だけ恭しく礼をした。

「殿下、お元気になられたようですね」

「…グラーツ」

「お見知りおきいただけたとは、光栄に存じます。ですが殿下、どうぞお部屋にお戻りを。ヴィルヘルム陛下より殿下を一歩も外に出すなと厳命されておりますゆえ」

「あ、あの、私は散歩に…」

「お戻りを。殿下」

 言葉は丁寧だが、居丈高な口調でグラーツは言うと、無理矢理フランツを部屋に押し戻した。グラーツも中に入ると、後ろ手でドアを閉める。「この雪の中をお散歩ですか?酔狂なことを言わず、大人しくベッドにお戻りください」

 仕方なく、フランツはコートを脱ぐと、寝台に腰掛けた。グラーツはニヤニヤとして戸口に立っている。

 フランツはキッとグラーツを睨んだ。彼が自分を見下し、馬鹿にしているのは分かっている。だが、負けているわけにはいかない。フランツは勇気を振り絞った。

「グラーツ、君に頼みがある」

 尊大に、堂々として見えるように、フランツは言葉を強めた。腰が引けたら、負ける。

「何なりと、殿下」

「喉が渇いたので、飲み物を持ってきてくれないか。君が以前持ってきたワインを頼む。不思議な香りのするハーブが入った温かなワインだ」

「ああ、あのワインですね、侍医のバウアー殿に頼んでまいりますので、少々お待ちを…」

「バウアーは、そんなワインは知らぬと言っている」

 グラーツの笑顔がヒクッと、引き攣った。そして無言でしばらくフランツを睨む。

「…何が言いたいのですか?殿下」

「あの時のワインに入っていたのは、眠り薬だ。そして君は、私の意識が無くなったのをいいことに、竜眼の剣を盗んだ。違うか?」

 フランツは一気に言った。だが、グラーツは突然に笑い出した。

「何をおっしゃるかと思ったら。殿下は想像力が豊かであらせられる。ワインはバウアー卿の勘違いでしょう」

「バウアーに限って、勘違いなどはなかろう」

「さあ、それはどうだが。いかなバウアー卿と言えども年には勝てず、老いぼれ特有の病で訳が分からなくなったのかしれません。そもそも、私は竜眼の剣がコートにくるんであったことも、知りませんでしたよ」

 今度はフランツの眉がピクリと動いた。

「…なぜ、コートにくるんであったと知っている?グラーツ」

 グラーツは一瞬で真顔に戻った。

「…私は…」

「君が、盗んだのだな」

「私が盗んだという証拠は、どこにもございません」

「ああ、その通りだ」

 フランツはグラーツの方に向かって一歩踏み出した。「だが、あんな風にジークを陥れて君は苦しくはないのか?頼むから、君が父上に罪を懺悔してくれ。そうしたらジークはノルデンシュタット行きから解放され、再び竜眼の剣を持つことができる。もちろん君のことは悪いようにしない。私からも父上にとりなして、寛大な処分をお願いするし…」

「ふざけておいでですか?殿下」

 グラーツは顔を歪めて笑った。「そもそも貴方がヴィルヘルム陛下に私の罪を告げ口しようとも、陛下は何一つお信じになりませんよ。しょせん、貴方は『歪んだ真珠』、期待はずれの不肖の王太子。そんな貴方の言葉など、誰が信じますか」

「グラーツ…」

 フランツの顔が青ざめた。グラーツの人間性を心のどこかで信じていた自分が、いかに甘かったかと思い知らされる。

「グラーツ、君はそれほどまでして、その竜眼の剣がほしかったのか?」

「こんな古臭い剣なんぞ、どうでもいいのですよ。王の覚えめでたき騎士であることが重要なのです」

 フランツは大きく息を吐いた。予想通りの、何という俗物だ。

 ふと、フランツはひらめいた。

「グラーツ、君は今、その剣そのものはどうでもいいと言ったな?」

「ええ。この緑の石だって、目のようで気持ちが悪いですしね」

「もしかしたら君は、その剣に施された仕掛けを知らぬのか?」

「仕掛け?」

「気付かなかったか?その鞘だ。鞘に暗号が掘られている。その意味を解き明かしたならば、修道騎士の隠した黄金の宝の場所が分かるはずだ。だからこそ皆、命を懸けてその剣を持ちたがるのだ」

 そんな話はハッタリだった。

 だがグラーツは引っかかった。美しいがどこかだらしない瞳をきょろきょろさせると、鞘に掘られた文字を食い入るように見詰めた。

「単なる聖人を讃える文句のようだが…」

「よく見るがいい。右の下だ。ほら、ここだ」

 近付いたフランツが柄を指差す。

「どこだ?一体…」

 グラーツが竜眼の剣の鞘を持って、目を皿のようにして見詰めていたその時。フランツは竜眼の剣の柄を掴むと、サラリと剣を鞘から抜き放った。

 グラーツが気付くのと同時に、フランツは竜眼の剣をグラーツの喉元に当てた。 

「何のおつもりですか?殿下」

「両手を挙げろ」

 グラーツは仕方なく両手を挙げる。

「これはジークの剣だ。だから私がジークに返す」

「何を馬鹿なことを」

 グラーツは嘲笑した。「やれるものなら、やってご覧なさい。何の力も無い、『歪んだ真珠』の貴方に何ができますか?」

「私だって…」

「危ないものを振り回すと、お怪我をいたしますよ。殿下のような華奢なお方が、そのような大剣を振り回せるとでも?さあ、こちらに剣をおよこしなさい」

 グラーツが手を伸ばしてきた。

「動くな!」

 フランツは慌ててグラーツの喉元に当てた剣に力を込める。プツリ、とグラーツの皮膚が切れ、血が滲む。だが、その血に怯えたのはフランツの方だった。それだけで恐怖のために剣を手離しそうになる。

「手が震えておりますよ、殿下。その程度で私を説得できるとでも?」

 グラーツが笑いながら言う。「ご乱心あそばしましたな、殿下」

「私は正気だ、グラーツ。これから一緒に父上のところに行き、お前がした事実を話すのだ」 

「ですが、陛下はまだしばらくは温泉からお戻りにはならないでしょうよ。それに殿下、何度も言いますが、貴方が何を言おうとも、陛下は聞き耳持ちませんしね」

 確かに、そうだ。フランツは剣の柄を強く握り締めた。

「さあ、お遊びの時間は終わりです。剣を返してください」

 グラーツがフランツの腕へと手を伸ばす。

 その時、緑の石がフランツの掌の中で熱く鼓動を打ち始めた。そして確かに、フランツは何かの声を聞いた。


(殺せ)

(すべてを、焼き払え)

(お前を踏みつけてきた者すべてを、消せ)

(すべてを叩き潰せ!消せ!滅ぼせ!)

 地鳴りのように響く、何かの声。まるで太古からの呪いのような。

 そうだ、殺すんだ!滅ぼすんだ!私を蔑んだすべての者たちを!


 フランツは獣のような叫び声を上げると、そのまま剣を振り上げ、雷のように振り下ろした。

 自分の力とは思えなかった。地の底から湧き上がる力が、自分の腕を支配した。

 その瞬間、竜眼の剣が肉を切り裂き、骨を断ち、血しぶきを舞い上げた。

 その感触も、音も、フランツにとってはすべて遠い世界の出来事のように感じた。


 頭から剣の雷を浴びたグラーツは、青い目を大きく見開いた。そして次の瞬間、血飛沫を上げると、フランツの目の前で、どう、と倒れた。


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