第十章
「ヴァルデンナハト!おぬしに与えた竜眼の騎士の任務を今日限りで解く!よもや、異存はあるまいな」
ヴィルヘルム王の冷たい声が鏡の間に響いた。王は傍らの小姓に竜眼の剣を預けると、苛立った表情で玉座にドサリと座った。
ジークフリートは拳を握り締め、苦しげに眉を寄せるが、そのまま深く頭を垂れた。絞り出すように、「御意のままに」と答える。
「父上!」
たまらず、フランツが一歩踏み出して王の足元に跪き、叫んだ。「違うのです!あの剣を無くしたのは私なのです。彼は何も悪くないのです!」
「お前になぞ聞いてはおらぬ!」
ヴィルヘルム王は雷のような声で一喝した。「黙っておれ!」
これまでのフランツならば、その場で竦んでいただろう。だが、今は引かなかった。
「いいえ、黙りません!お聞きください!私の不注意なのです。私が無理矢理剣を借りたのです。その剣を何者かが盗んで…」
「でしゃばるなと言っておる!そのようなことは関係ない!どうであれ、この男の不始末でわが竜眼の剣を汚らわしき男娼どもに触らせたのだぞ!考えただけでも身の毛がよだつわ!」
「ですから、それはジークのせいではないのです!一切の罪咎は私に…」
「…『ジーク』だと?」
ヴィルヘルム王の顔が歪んだ。「…随分と、ヴァルデンナハトと親しくなったものだな。家臣にそのような馴れ馴れしい態度をとるなど、王太子の身分を忘れたのか?それとも、お前も、…ルドルフと同じ種類の人間だからか?」
「…父上」
「そこに直れ!」
王は立ち上がると、跪いたフランツの背に自身の杖を思い切り振り下ろした。
悲鳴とともにフランツは床に倒れ込んだ。骨が折れたかと思うほどの痛みに、彼は呻く。
「殿下!」
ジークが叫ぶが、王の血走った目にギロリと睨まれ、動けない。
王は倒れたフランツの髪を掴むと、荒々しく引き摺り、靴でその頭を、背中を何度も蹴り上げた。
「お前は、お前たちは、あの廃園で何をしていた?わしの目を誤魔化せるとでも思ったのか?お前たちもルドルフと同じく、神に背く腐った行為にふけっていたのだろう?」
「ち、違います!私は、私たちは何も…!」
「言い訳をするな!」
再び王の杖がフランツの背中を襲い、フランツは引き裂かれるような悲鳴を上げた。その叫びを封じるように王はフランツの頭を踏みつける。さらに杖が振り下ろされようとした、その時。
「おやめください!」
ジークの声が響いた。彼は矢庭に立ち上がると、疾風のようにフランツと王の杖の間に割って入った。
フランツを狙った王の杖は、飛び込んできたジークの額に打ちつけられた。そこから、赤い血がつう、と流れる。
ジークはフランツを背中でかばうと、王に対峙した。紫がかった黒い瞳が王を捕らえ、王は一瞬、気圧される。
「…どけ、ヴァルデンナハト。出すぎた真似をするな」
「いいえ、いかに陛下のご命令なれど、どくわけには参りませぬ。このままでは殿下が死んでしまいます」
「…ジーク…」
フランツは震えながら囁いた。ジークの広い背中にまるでひな鳥のように守られている。その事実に胸が熱くなり、涙が溢れそうになる。
「どけ、と申しておるのが聞こえぬのか!」
王もまた震えていた。雷のような声が、惑うように揺れる。
「どきませぬ!」
一方でジークの声は、剣のように真っ直ぐに鏡の間に響いた。
「うぬう…」
王が苛立たしげに杖を床に何度も打ち付ける。王の怒りが沸点に達したのだ。集まった軍人たちは身を竦ませ、目を伏せた。小声で彼らは呟く。
「王に逆らうとは、ヴァルデンナハトは何と愚かな…」
「優れた軍人だったのに、あの『歪んだ真珠』をかばったばかりに…」
その声は、フランツにも聞こえた。その通りだ、とフランツは思った。いたたまれなくなり、フランツはジークの耳元で囁いた。
「…ジーク、私はいいんだ。私の、私のせいなのだから…。だから、もういい。君はここをどいてくれ…」
「殿下」
ジークは振り返り、フランツに向かってきっぱりと言った。「殿下のご命令でも、私はここをどきませぬ。殿下が私を守ろうとしてくださったように、私も殿下をお守り申し上げます」
ジークは微かに笑った。その右頬に、小さな笑くぼができる。
「…ジーク…」
フランツは思った。ああ、私はこの人を愛している。愛さずにはいられない、と。
「この、恥知らずの痴れ者どもが!」
だが、王は烈火のような怒りの声を上げ、再び杖を振り上げた。
その瞬間、ジークは体を反転させてフランツをかばった。王の杖は、フランツを覆ったジークの背に振り下ろされた。
「この!この!愚か者どもが!」
王は何度も何度も、ジークの背に杖を振り下ろした。けれど、ジークは身じろぎもせず、フランツを抱き締め、覆いかぶさったまま動かない。
杖が襲うたびに、鈍い音と衝撃がジークを通してフランツの体にも伝わる。けれど、ジークはフランツを離さなかった。眉間に深く皺を刻み、じっと痛みと衝撃に耐えている。
「…ジーク、もういい…、もういいんだ」
フランツは涙声で言い、彼の軍服の袖をしっかりと握り締めた。けれど、ジークは穏やかな顔で軽く首を振るだけで、決して離そうとしない。
「…ジーク…」
ついに、王の杖がバキリと乾いた音を立てて折れた。
ヴィルヘルム王は肩が上下するほど荒い息をしていた。カッと見開いた血走った目で、呆然と杖を見、そしてジークとフランツを見た。
鏡の間にいる誰もが、凍りついたように王の次の行動を待った。
「…運の良い奴らめ」
王は呻くと、折れた杖を投げ捨てた。「ヴァルデンナハト、分かっておろうな!王に逆らった罪は重いぞ!」
ジークは跪いたまま一瞬顔を上げると、王に向かって再び深く頭を垂れた。額からは血と脂汗が流れ、軍服もあちこちが裂け、血が滲んでいる。
「…御意の、ままに」
「おぬしが長身部隊で得た名誉と財産はすべて剥奪する!かわりにノルデンシュタットの部隊への配属を命ずる!それも傭兵どもと同じ一兵卒としてな」
鏡の間の軍人たちから、どよめきが起きた。
「傭兵どもと同じ扱いとは…。気の毒だが、奴は生きて帰れぬだろうよ」
「ノルデンシュタットの最前線ならば、島流しと同じことだ」
そんな囁きを耳に入れながら、それでもジークは表情一つ変えずに頭を下げた。
「すべて王の御意のままに」
「ふん」
王はジークを冷酷に見下ろすと、おもむろに竜眼の剣を手に取った。今度はゾフィーの背後に立っていたグラーツの方を向いた。
「ハインリッヒ・フォン・グラーツ、そなたを新たな竜眼の騎士に命ずる!」
「はっ!」
グラーツは裏返った声で答えると、誇らしげに顔を紅潮させ、玉座の前に進み出た。「ありがたき幸せに存じます!このグラーツ、真の竜眼の騎士となれるよう誠心誠意務めさせていただきます!」
フランツはその姿を見て愕然とした。あいつだ。あの夜に突然部屋に現れた、金髪の…。
「父上!」
フランツは叫んだ。だが王は無視して、ジークに向かって言った。
「ヴァルデンナハト!今夜、ノルデンシュタットへの部隊が出発する。お前も加われ」
「父上!」
フランツは守ってくれていたジークの背中から飛び出し、王の足元に跪いて、その衣に顔を埋めた。「父上、後生でございますから、私の話を聞いてください!竜眼の剣を盗んだのは…」
「うるさい!」
王は雷のような声で怒鳴った。だがフランツは負けるわけにはいかない。
「どうかお聞きください!剣を盗んだのは、あの男…!」
「黙れ!ルドルフとそっくりな顔で口をきくな!」
王は手に持っていた竜眼の剣を鞘のまま、フランツの頭上に振り下ろした。
ゴッ、と鈍い音がした。
フランツは、そのままバッタリと床に倒れた。
「殿下!」
ジークが駆け寄り、フランツを抱え起こした。だが、鞘に納まっていたとは言え、鋼の剣で頭を打たれたフランツは気を失ったまま動かない。切れた額から血が流れ、フランツのプラチナブロンドの髪が徐々に朱に染まる。
ジークはキッと王を睨みつけた。
ヴィルヘルム王はたじろいだ。だが次の瞬間、それに気付かれまいと大声で叫んだ。
「お、大げさな!剣は鞘に納まっておるではないか!大したことではない!」
ジークが怒りとともに一歩を踏み出したその時。
「ヴィルヘルム王!」
堪忍袋の尾が切れた様子で前に進み出たのは、長身部隊のマイヤー隊長だった。「陛下のお怒り、ごもっともではございます。ですが、どうか寛大な御心で殿下をお許しくださるよう。グラーツ!殿下を早くお部屋にお運びし、侍医にお診せしろ!ヴァルデンナハト!おぬしも即刻この場を去り、ノルデンシュタット行きの準備をしろ!二度と、この場に現れるな!」
マイヤーは隊長らしく的確に命令を放つと、王に向き直った。「我が王よ、これでよろしいでしょうか?」
ヴィルヘルム王はしばらく口を歪めてマイヤーを睨んだが、「ふん」と鼻を鳴らして立ち上がった。
「マイヤーがそれほど言うのなら、仕方がない。ヴァルデンナハト、おぬしは二度と私の前に現れるな!グラーツ、お前はフランツを見張れ!絶対に部屋から出すな!」
「御意のままに」
「はっ!お任せを」
ジークとグラーツはほぼ一緒に声を上げた。
王は憮然として竜眼の剣をグラーツに渡すと、大股で鏡の間を去り、自室へと戻っていった。




