第九章
「竜眼の剣が無い?そう、おっしゃったのですか?」
隠し通せるわけがない。
いつも通りの時間に部屋を訪れたジークに、フランツは震える声で告げた。案の定、ジークの声は厳しい。
「すまない!」
フランツは椅子に倒れ込むように座り、頭を垂れて目を閉じた。何と言ってあやまっても、償えるわけもない。「本当に、…ごめんなさい。無理を言って借りておきながら、どうしたらいいのか…。まさか、こんなことになるなんて…。本当にごめんなさい!」
きっとジークは私を見損なっただろう。いや、許してくれるはずなどない。
ジークの深い溜め息が聞こえた。
「フランツ殿下、お顔をお上げください」
意外なほど穏やかな声。恐る恐る、フランツは目を開けた。ジークは眉間に深い皺を寄せ、フランツのコートと周囲を見ている。
「確かにこのコートに包み、寝台の下に置かれたのですね」
「あ、ああ。それは間違いない。なのに、朝になったら…。本当に申し訳ない…。もちろん、父上には私からあやまる。そして、死をもってでも償うから」
「殿下が命を捧げたところで、ヴィルヘルム王はお許しになりますまい」
ジークの言葉にフランツは俯いた。その通りだ。何と情けないことか。今すぐ消えてしまいたい。
「そんなことより、殿下、夜間にこの部屋に召使いは入りましたか?」
「…入っていないと思うけれど…。分からない」
「分からない?」
厳しくなったジークの声に、フランツはビクリと震える。
「ご、ごめんなさい。本当に、本当に分からないんだ。寝台に入ってからの記憶が…無いんだ。そんなことは今まで無かったのに…」
フランツの怯えた様子を察してか、ジークはフランツの目の前で跪くと、なだめるようにフランツの手に手を乗せた。
「言葉が過ぎました。申し訳ありません。殿下を責めているわけではありません」
「責めていいんだ、私なんか…」
その時、ジークの眉がピクリと動いた。
「殿下、夕べ何か普段と違うものを口にされましたか?」
「え?」
「殿下の息から、妙な匂いがします。昨日までは、そんなことはありませんでした」
ジークはさらにフランツに近付き、フランツの息の匂いを嗅いだ。こんな時にもかかわらず、フランツはドキリとして、顔が赤らむ。
「な、何?」
「…殿下、何の種類かは分かりませんが、殿下の息に微かに薬草の匂いが残っております。おそらく殿下は眠り薬を盛られたのではないかと。殿下が前後不覚に陥っている間、事情を知っている者が竜眼の剣を盗んだのでは…」
「まさか…!」
フランツの脳裏に、昨夜のグラーツの軽薄そうな笑い顔が思い浮かんだ。「あの男…」
「あの男?」
「あ、あの、金髪の…」
名前が出てこない。昨夜の記憶は、霧がかかったように曖昧になっている。
その時、扉が突然勢いよく開いた。
入って来たのは、ゾフィーだった。
「お邪魔をしてしまったかしら」
顎をくい、と上げ、酷薄な微笑を浮かべながら、ゾフィーは近付いてきた。フランツはつい後ずさってしまう。
「あら、随分とお部屋が散らかっているようですこと」
「す、すみません」
「ここのお部屋は随分と暖かいのね。もう宮殿の廊下まで冷え冷えとする季節ですのに。どうしたのかしら。フランツ、あなた、額に汗をかいていてよ。もしかしたら、冷や汗というものかしら」
そう嗤うと、ゾフィーは肩に掛けていた白い絹のショールをとると、椅子の背にかけた。
「あ、姉上、何かご用ですか?」
取り繕うようにフランツが問う。
「父上がお呼びよ。すぐに鏡の間へ来いと」
「鏡の間へ?」
フランツは眉を寄せた。ヴィルヘルム王が王太子を私室ではなく、公式の場である鏡の間へ呼ぶとは、どういうことなのだろうか。
「ええ、そうよ。そこの『竜眼の騎士』殿も一緒にね」
「私も、ですか?」
ジークも怪訝な顔でゾフィーを見、そしてフランツを見た。
「急いだ方がよろしくてよ。皆、もう集まっているわ」
「皆?」
「ええ。さ、ついて来てちょうだい。父上をお待たせするわけにはいかないわ」
ゾフィーは勝ち誇ったような微笑を唇に浮かべると、顎でともに来るように指示した。
フランツとジークは顔を見合わせた。どういうことなのだろうか?
背中に冷たい汗が流れるのをフランツは感じた。これから起きるのは、良いことではないことだけは確かだ。でなければ、ゾフィーが楽しげな顔で案内などはしないだろう。
だが、なすすべもないフランツは簡単に身支度を整えると、ジークとともに仕方なくゾフィーの後に従った。
果たして、鏡の間には、既に主だった軍人たちが集められていた。
そして、中央の一段高い椅子には、ヴィルヘルム王が腰掛けている。その青い目が苛立っているのは、火を見るよりも明らかだった。
「やっと来たか!」
ヴィルヘルムは吐き捨てるように言った。「そこに直れ!」
フランツとジークは、王の前で跪く。
「お連れしましたわ、父上」
ゾフィーは艶然と笑って父親に一礼した。「それでは、これで…」
「いや、ゾフィー、お前もここにいるように」
「女の身の私が、よろしいのですか?それでは、陛下の御心とあらば、喜んで」
ゾフィーは悠然と王の後ろに控えると、ともにフランツを見下ろした。
鏡の間に、ピリピリとした緊張が立ち込める。
「フランツ、お前はなぜここに我が国の誇る軍人たちが集まっているか分かるか?」
「え、…いえ…。すみません」
「今、ノルデンシュタットが蛮族の猛攻にさらされておる。あの砦を守るために、早急に強力な軍を派遣することが必要だからだ」
「ノルデンシュタットが…」
王都から出たことが無いフランツは、ノルデンシュタットの存在すら意識したことがなかった。「申し訳ございません、不明を恥じ入ります」
「そうだ。お前は、王太子のくせに何も学ぼうとせぬ!だから、こんな大事な時に…」
ヴィルヘルム王は立ち上がった。「ヴァルデンナハト!」
フランツは驚いて顔を上げた。怒りの矛先は自分だと思っていたのに。
ヴィルヘルムはフランツを無視して、ジークの端正な顔を睨みつけている。
「ヴァルデンナハト、竜眼の剣は、どうしたのだ?」
フランツとジークの肩が、同時ににビクリと揺れる。
「申し訳ありませぬ。このような場とは知らず、持参いたしませんでした」
「竜眼の騎士は四六時中、王の宝剣たる竜眼の剣を携えねばならぬはず。なのになぜ、持っておらぬ?お前に託したはずだぞ」
「大変申し訳ございません。今は、我が手元にございません」
ジークは苦々しい顔で答えた。その横顔に、フランツの心臓が苦しくなる。
「なぜ、無いのだ?」
ジークがゴクリと唾を飲み込むのが聞こえた。
「紛失してしまいました」
「紛失した、だと?」
ヴィルヘルムが思い切り杖で床を叩いた。「では、わしが教えてやろう。竜眼の剣がどこにあったかをな」
フランツとジークが息を呑む。ヴィルヘルムは一拍置いて続ける。
「娼館にあったそうだ。質草として、背の高い騎士が置いていったそうだ」
集まった軍人たちが一斉にざわめく。
「王の宝剣を質草だと?」
「何と恐れ多いことを」
「だから卑しい者に宝剣を持たせてはならぬとあれほど…」
誰もが、「竜眼の騎士」の名誉に憧れていただけに、ジークへ冷たい視線が注がれる。
だが、当のジークはそんな視線を気にしているような時ではなかった。フランツと顔を見合わせる。
「…娼館に?」
ジークとフランツは同時に呟いた。そのようなことがあるわけが無い。
「者ども、静まれ!」
そう言うと、ヴィルヘルムは傍らの侍従に、件の剣を持ってくるように命じた。侍従は柄に緑の石が埋め込まれた大きな剣を恭しく王に捧げる。
「わしはこれを竜眼の剣だと思う。ヴァルデンナハト、お前はどうだ?」
剣を受け取ったヴィルヘルムは、鞘を抜くと、朝の光の中にかざして見せた。そして柄に埋め込まれた緑の石を捧げ持つ。
太陽の日を浴びて光を放つように輝く緑の石は、あの、竜眼の石に相違なかった。
「確かに竜眼の剣にございます。ですが、私はそのようなことは…!」
ジークの抗議を、王の杖を打つ音が遮った。
「この剣は、娼館、それも男娼のいる館に預けられていたそうだ。神に背くような所業を、よくも王の剣を持つ騎士が行えたものだ」
「陛下、誓って私は…!」
「ヴァルデンナハト、そなたを長身部隊から追放する。そのほかの沙汰は追ってする。覚悟するがよい」
ヴィルヘルムはそう言い捨てた。




