序
第三門でなくしたり 海の真珠の首飾り
偉大なる音楽家へルマン・アッシェンバッハがその宮殿を訪れたのは、穏やかな冬のある日のこと。
「デア・グローセ(大王)」と呼ばれ、老いた今も周辺の国々に恐れられるフランツ王が住む宮殿は、瀟洒ではあったが、意外なほど小さな離宮だった。諸国の王たちは自らの権力を誇示するため、競って豪奢な宮殿を造っているというのに、デア・グローセの住まいは人を威圧するところが微塵もない。平屋建てのその宮殿は、春の日差しを思わせる暖かな黄色の壁、穏やかな水色の屋根に覆われていた。宮殿の柱の装飾も細やかで優しく、まるでレースのようだ。金箔も無い。
まるで少女が描く空想の城のようだ、とアッシェンバッハは思った。「めでたし、めでたし」で終わる昔話のお姫様のように、愛する人といつもいつまでも笑いながら暮らす。そんな甘い夢だけを詰めて造ったような、現実を忘れさせる小さな城。もちろん王都には巨大な宮殿はあるのだが、今はもっぱら老王はこの離宮で暮らしていた。
テラスで、王はアッシェンバッハを待っていた。
最初、アッシェンバッハはその人がデア・グローセとは気付かなかった。ぼんやりと椅子に座り、膝掛けを掛けて遠くを見ている姿は、小柄で痩せた、銀髪の老人でしかなかったから。当時、各地の王宮で流行っていた髪粉も化粧も施さず、華美な宝石も、きらびやかな刺繍も勲章も一切身に付けていない。
アッシェンバッハは、案内してくれたゴーダ伯爵の咳払いに促され、慌てて王の前で跪いた。
王はアッシェンバッハに気付くと、杖を使ってゆっくりと立ち上がり、親しげに手を取った。
「よくぞ我が宮殿にいらしてくださいました。偉大なるアッシェンバッハ先生」
アッシェンバッハは驚きを禁じえなかった。王は穏やかな水色の瞳を細め、まるで教えを請う生徒のように心からの誠意を込めて恭しく音楽家を迎えたのだ。その言葉遣いも、たたずまい同様、偉ぶったところは皆無だ。
ゴーダ伯爵がまた、咳払いをした。アッシェンバッハはハッと我に返った。
「光栄至極にございます」
アッシェンバッハは王の手の甲に恭しく接吻した。「デア・グローセ、フランツ陛下自ら、私のような卑しき者をお出迎えいただけるとは。私で出来ますことならば、何なりとお申し付けくださいませ」
「長旅、さぞやお疲れになられたでしょう。ゆっくりお休みください。そして天上から響くような貴方の音楽で、私の憂いを払ってください」
王は満足そうに微笑むと、親しげにアッシェンバッハの手を引いて、宮殿内へと導いた。年のためか少し足を引き摺っている。
アッシェンバッハにとって、あまりにも意表をつくことの連続だった。フランツ大王といえば、「泣く子も黙る」ヨーロッパ随一の君主。十八歳で即位して以来、あっと言う間に強大な軍隊をつくり上げ、冷徹な外交戦略と、従来の貴族ら保守強硬派を一掃しての大胆な内政改革で、その五十年の治世の間に、地方の小国に過ぎなかったこの国を、オーストリア帝国にも負けぬ強国に叩き上げた男だ。
だが、実際のフランツは小さくて細い、穏やかな老人に過ぎなかった。
案内された部屋もこの老人同様、小さくて慕わしかった。暖炉の炎が赤々と燃えていて、部屋の中央には彼のためのチェンバロが用意されてあった。
夜半、床に就こうとしていたアッシェンバッハはドアを叩く音を聞いた。長旅の疲れのため、少しつっけんどんに音楽家は答えた。
「誰だ?」
「私です、アッシェンバッハ先生」
昼間聞いた、穏やかな老人の声。慌ててアッシェンバッハは飛び起き、裸足のままドアを開けた。
「へ、陛下!」
「すみません、お休みのところを」
「と、とんでもございません、わざわざお運びいただくなんて…!」
「先生がいらっしゃると思うと、居ても立ってもおられず」
「陛下、もったいないお言葉にございます。ささっ、暖炉の側にどうぞ」
「先生のために、葡萄酒をお持ちいたしました。よろしければご一緒に」
老王は穏やかに微笑むと、後ろに控えていた従僕に赤葡萄酒の瓶を運ばせた。アッシェンバッハは暖炉の側に椅子を置いて勧めると、フランツは嬉しそうに水色の目を細め、腰を下ろした。従僕が老王と音楽家のために葡萄酒を注いでいるうちに、アッシェンバッハは慌ててガウンを羽織り、靴を履いて簡単に身支度を整え、老王の傍らに跪いた。
「何かお弾きいたしましょう。陛下のためのセレナーデなどを」
フランツは穏やかに頷くと、アッシェンバッハの奏でる音楽に耳を傾けた。
フランツは芸術の庇護者としても名高い。アッシェンバッハはと言えば、先日、所属する教会と対立して職を失ったばかり。いかに名声高き音楽家といえど、すでに五十歳を越えたアッシェンバッハを雇ってくれる教会探しは正直難しい。フランツの宮殿への誘いはまさに渡りに船であり、この偉大なるパトロンを逃すまいと必死なのだ。
そんな音楽家の思惑も気に止めず、老王は暖炉の炎を見詰めながら、アッシェンバッハのチェンバロの音にじっと耳を澄ませていた。
数曲弾いたころ、老王は従僕を下がらせると、思い切ったように口を開いた。
「実は頼みがあるのです。貴方にしか出来ないことです」
フランツはおもむろに立ち上がり、足を引き摺りながらチェンバロに向かうと、ある旋律を片手で弾いた。アッシェンバッハが初めて聴く旋律だった。もの悲しい、不安げな、何か問いたげな音の連なり。まるで迷宮の中で、一本の細い糸をたぐるような。
そして、掠れた、甘い声で老王は歌った。
…時は来たれり
女神イシュタル くだり給うや冥界へ…
「遠い昔の歌です。多分、誰も知らない歌です。冥界に下った女神が、自分の夫を身代わりにして地上に戻る。そういう内容の歌です」
「恐ろしい女神様ですな」
「歌はそれで終わり、身代わりにされた夫が、どうなったのかは分かりません。彼は女神を恨んだのでしょうか?そして女神はどうしたのでしょうか?それで喜んだのでしょうか?彼の後を…追わなかったのでしょうか?」
「さ、さあ…」
アッシェンバッハは曖昧に笑った。フランツが一体、何を言いたいのか分からない。だが、老王の深い皺が刻まれた横顔は、かつて見たことがないほど真剣だった。
「アッシェンバッハ先生、私は貴方にこの歌の結末を作って欲しいのです」
「は?」
「貴方は優れた音楽を作り出すだけでなく、卓越した詩人でもあられます。貴方の作った歌曲はあまりに美しく、心を揺さぶります。ぜひ貴方が、この歌の結末を作って、私に聴かせてください」
「歌を、ですか…?」
「無理でしょうか?」
「い、いえ。陛下の思し召しとあらば、喜んで」
アッシェンバッハは深く頭を垂れた。老王はホッとした様子で頷くと、暖炉の傍らの椅子に戻り、ドサリと座り込んだ。
「陛下、もしやご気分が?」
「いえ、大事ありません。いつものことです。もう私も天に召されてもおかしくない年ですから」
そう言うと、老王は目を閉じた。そうすると、彼の耳元にいつも蘇る歌声がある。それは五十年以上経った今も色褪せない、忘れられない、低い柔らかな声。
「…ジーク」
小さく、フランツは呟いた。誰にも聞こえないほど小さな声で。
「陛下、誰かお呼びいたしましょうか?」
おろおろとして傍らに立つアッシェンバッハの呼びかけに、フランツは再び目を開けた。
「先生、どうぞそのままで。…いえ、先生、お疲れでなければ、こちらにお座りください」
「恐れながら」
アッシェンバッハは招きに応じて、椅子を老王の側に置いて座った。
「陛下、あの歌は、何か由来のあるものなのですか?」
フランツの水色の瞳が穏やかに細められる。
「…聞いてくださいますか?私の愚かな、過ちの物語を」