飛紗ちゃんと山宮さんが瀬戸さんの話をする話
期待のためではなく、照明のために文字どおりきらきら光るタルトケーキを前にして、智枝子が同じくらい瞳を輝かせている。商品の大半が期間限定、なかには一週間限定もあり、さんざん迷ったあげく、合計三つを注文した。はやく食べたい気持ちを堪えて頼んだ紅茶を待つ。
この店はカフェとテイクアウト両方がたのしめるが、どちらも連日行列が絶えない。眞一と結婚して暮らし始めてから、家で眞一が夕飯をつくって待ってくれていると思えばあまり待ち時間の長い寄り道はしたくなかったし、はやく帰れる日は先に帰宅して夕飯をつくって待っていたいと思っていたから、やはり寄り道はできなかった。実家に暮らしていたときは今日は並んでいるからまたいつか、いつでも来られるのだしと優先順位を下げていた。つまり会社の行き帰りに目の前を通りすぎるばかりであったので、一度来てみたかったと言う智枝子の誘いは飛紗も願ったり叶ったりであった。
そのうえ夕飯の前に食べるだなんて、眞一といたらありえない。一緒に並んではくれるだろうし、文句は言わないだろうけれど、きっと苦い顔をするだろう。カフェは夕飯のあとのデザートを求めて並ぶ人たちも多いから、夕飯時のこの時間のほうが、じゃっかんではあるが並びが緩やかなのだ。
智枝子は智枝子で、綺香にわざわざ大阪に出てきてもらって、得意ではない甘いもののために並ばせるのは気が引けたに違いない。
運ばれてきた紅茶を温められているカップにそそいで、ほっと一息つく。眞一がもっぱら水ばかり飲むので(それこそたまにケーキなどをもらったときには飲み物を淹れてくれるが、基本は珈琲だ)飛紗も同じようにしていたから、茶葉から淹れた紅茶は久しぶりだ。
ケーキの見た目のよさもそうだが、フォークやお皿もアンティーク調でかわいい。一セットくらい近いものを買っても怒られないだろうか。いや、怒ったりなどはしないだろう。眞一に怒られたのは、取引先の男性に夕飯に誘われたのを断りきれず、言い寄られてキスされそうになったときくらいだ。思い返しながら、そりゃ怒られるわ、と反省する。
フォークを差し入れると、敷き詰められて乗っている桃がほとんど崩れることなく、層になっているクリームはふわふわとしてすっと通りすぎ、底のタルトもさくりと思いのほかあっさり一口分をきれいに分けることができた。味はおいしいのに、フォークを入れるには硬すぎてぼろぼろになってしまうタルトもあるなか、これだけで驚いてうれしくなる。
甘い。はっきりと甘いのに、しつこくなく、するりと咽喉を通っていく。おそらく果物自体が甘いのだろう。噛むと口内でじゅわりと広がった果汁がクリームと絡まり、タルトの触感と相まって飽きさせない。値段が高いのに、開店当時から途切れず皆が並ぶはずだ。どちらかといえば濃厚でこってりしているのに、夕飯を食べる前の空っぽの胃に重たくないのがすごい。
ぱっと智枝子に目をやれば、花を飛ばしてりすのごとく頬張っていた。にこにこしているわけではないのに、伝わってくる空気だけでおいしいのだなとわかる。
全種類分け合いながら完食し、ポットに残っていた二杯目を飲みながらおいしかったねえ、と二人で繰り返し言い合う。いまも新たな客が並んでいるので長居はよくないが、食べている間、会話らしい会話もなく、短時間で一気に食べきったので、このくらいは許されたい。話しかけようかと思っても、食べ物を前にした智枝子にはいつも夢中の二文字が顔に書かれていて、なんとなく気おくれしてしまうのだ。無視はされないだろうけれど、邪魔したら悪いなと思う。いったいその小柄な体のどこに吸収されているのか。胸か。胸なのか。
うっかり混じった嫉妬と邪念を振り払い、落ちつくべく紅茶の香りを鼻腔に含ませる。すっかり満腹だ。飛紗が一人なら夕飯を抜くところだが、智枝子はきっと食べるだろう。あまり食べられないと言いながら、二人前くらいは平気で平らげる。
しかし贅沢だ。一、二時間前まで仕事をしていたとは思えない。今日は眞一が出張で夜遅いので、智枝子の誘いはちょうどよかった。彼女は彼女で、母親が夜勤、もう一人の母親は芸能活動をしている弟とともに仕事で地方に出ていて、今日中に帰ってはくるらしいが夕飯が一人になるため、飛紗を誘ったようだ。
「明日も仕事なのに、付き合ってくれてありがとう」
智枝子が薄く笑って言う。表情の変化に乏しい子ではあるが、もう付き合いも四年目に入って、喜怒哀楽を読みとることはたやすい。
むしろ明日も平日なので綺香ではなく自分に声をかけたのだろうと思えば感謝だ。休み前の最後の一日がこれでがんばれる。
「今日は眞一おらんから、気にせんとって。京都なんやって」
朽木が一緒のフィールドワークと聞いたから、ぎりぎりまで引き留められるに違いない。式のあとで朽木の妻にも挨拶に行ったが、夫婦ともども眞一を息子のように思ってかわいがっているようだった。夕飯もきっとご馳走になるのだろう。一一時には帰ると連絡があったからそのときには家にいたいが、相手が智枝子ならわざわざ伝えずともきっと帰宅している時間だ。
「瀬戸さんが旦那さんって、なんか、すごいよね。よくわからんけど、飛紗ちゃんつよい」
「うん、よくわからん。ごめん」
答えつつも、人から聞く眞一の名前にケーキで気分が高揚しているのと相まって自然と口角が上がった。
「瀬戸さんってほんまにちゃんと普通の人みたいに生活しとるんやなって」
「それはわかる」
初めて部屋に上がったときはモデルルームか何かかと錯覚しかけたほどだ。本人に生活臭がなければ部屋にも人が暮らしているような気配がなく、そんな相手と結婚して寝食をともにしているのだから不思議である。暮らしてみれば帰ってすぐは靴を脱いで揃えなかったり(最近はしてくれるようになった)、鞄を廊下のど真ん中に置きっぱなしにしたり(最近はちゃんと場所を決めて置くようになった)、皿を食器棚に片づけるのが下手だったり(これはいまもだ)、当然だが、日々朝起きて昼に働いて夜に寝る人間だった。
飛紗にとってありがたかったのは、眞一は世間で聞くような「結局家事は妻の仕事と思っている」「自分がやるのではなく、手伝うという感覚しかない」夫ではまったくなかったことだ。結婚して数ヶ月で女の影が見えるようでは困るが、浮気の気配もまったくない。性格を考えても今後もありえないだろう。そしてごく当り前の行為として飛紗と家事を分担している。いや、もっと正直なところを言えば、飛紗にはできるかぎり何もさせたくないとさえ思っているかもしれない。とにかく甘やかすのがすきなのだ。眞一を知っている人に話せば、別の人のことではないかと首を傾げられてもおかしくなかった。
「大学での眞一って、どんな感じ?」
この機会に一度聞いてみたかったことを聞いてみる。飛紗が大学で眞一に教えてもらっていたとき眞一は非常勤講師だったので担当の学生がいるというわけではなかったし、週に一回の九〇分の授業をたった半年間受けたくらいでは、もはや思い出せることのほうが少ない。
「めっちゃ厳しいって聞く」
やはり。それはイメージどおりだ。というより、飛紗が教えてもらったときから変わっていない。いつぞやすれ違った眞一の学生たちも、「これ以上厳しくされたら単位を落とす」という旨のことを言っていた。
「でも人気は人気なん違うかな。バレンタインときもチョコレートいっぱいもらってたみたいやし。わたしもよく知らんけど……」
智枝子は眞一が勤める大学には一度も通ったことがなく、いまの大学院も別のところだ。あまりに自然と話を聞くので忘れていた。これ以上は聞いてもわからないだろうと、紅茶を口に運ぶ。
バレンタインのときは確かに、たくさんのチョコレートをもらっていた。まだ冷蔵庫に残っている。人にあげたものをさらに人にあげるのは、とあのときは言ったが、もう夏だ。智枝子にあげたほうがおいしいうちに食べきってくれるような気がする。
そろそろ行こうか、と伝票を持って立ちあがる。智枝子が慌てた様子で財布を取り出そうとしたが、学生に支払わせるわけにはいかない。付き合う前の眞一の所作から学んだ流れで会計を済まし、財布を広げるには躊躇する店先にさっさと出る。皆どこに行ってどこに帰るのか、人の行き来だけは激しい。
それでも固辞してお金を支払おうとする智枝子に、「ちえちゃんはちえちゃんの後輩に奢ったらいいから」と断り、胃を伸ばすべく背中を逸らす。それでやっと智枝子はありがとう、と頭を下げた。
「お夕飯、どうする?」
「焼き鳥が食べたい」
食べるか食べないかではなく、具体的な料理名を出されてしまった。しかし焼き鳥なら食べる量を調節しやすいし、智枝子の食べっぷりを見るのは気持ちがよい。何よりきちんと「食事」をしなければ、脳内の眞一が飛紗を無言で責めてくる。
今日はいい日だ。
どの店に行くか智枝子と相談しながら、人混みの波に乗った。