双子が廣谷さんに本をもらう話
手をつないで立ったままじっと廣谷を見つめ続ける双子と、合計四つの目からの視線を受けても我関せずとばかり黙々と仕事を続ける廣谷。瀬戸が見れば笑うだろう、と智枝子は両者を観察しながら思う。先ほどチャイムが鳴ったので、かれこれ一五分はお互い一歩も引かず対峙していることになる。
「ひろたにさん」
ついに沈黙を破る呼びかけが発せられた。まだ呂律が回りきっていないため「さ」が「しゃ」に近い。話したのはハーフアップにしている髪の飾りが星空なので、心だ。
「ひろたにさんはあやくんのおししょーさまって、ほんと?」
「ひろたにさんもおうたよむの?」
「おうたのおししょーさまなの?」
心に続いて初も問いを重ね、さらに心が重ねる。怒涛の質問攻めが始まるのかと思いきや、二人は以降ぴたりと口を閉じ、またじっと廣谷を見つめた。どうも返答を待っているようだ。何かを問うならば相手の答えをきちんと聞きなさいとは、いかにも瀬戸の言いそうなことである。
「違います」
手をとめないまま廣谷は簡潔に述べた。双子はまだじっと見つめている。くりくりとしたあの大きな瞳に見つめられると智枝子などはすぐ言うことを聞いてしまいそうになるが、さすがは廣谷だ。まったく動じている様子がない。
やがてきりのよいところに落ちついたのかペンを置くと、めずらしく体ごと二人のほうを向いた。
「私は短歌の研究はしていますが、短歌を詠みはしません。よって鷹村さんの歌の師匠ではありません」
廣谷も瀬戸も、子どものことを「子ども」と思って接したりはしないから、言葉に容赦がない。わかりやすいように「あやくん」と言ってあげたりはしないし、声音を柔らかくして敬語を崩すようなこともしない。今年四つになる二人がいまの言い方ではたして理解できただろうかと智枝子が引き続き観察していると、
「じゃあ、なんであやくん、ひろたにさんのこと、せんせーって、よぶん?」
と、心が首を傾げながら聞いた。綺香の普段の会話は手話なので声は出していないし、廣谷は手話を解さない(というより覚える気がない)ため綺香が廣谷と接するときは基本的に筆談であるのに心がそう聞くということは、少なからず手話がわかっている証拠だ。
「せんせーはししょーって、テレビでいってた」
補足するかのごとく初が言う。
「鷹村さんが私を先生と呼ぶのは、鷹村さんがかつてこの大学に通っていて、私が受け持っていた学生だったからです」
心なしか廣谷にしては主語を略さない、やさしい物言いだ。しかし心と初が理解するには難しい。顔を合わせて、どういうこと? わかんない、と首を横に振っている。
「よくわかんないから、わかるようにおしえてください。おねがいします」
息ぴったり、一言一句違わず二人で廣谷に向かって言うと、ぺこりと頭を下げた。かわいい。智枝子は思わず口を手で覆う。声をあげて邪魔してしまうところだ。かわいい反面、わからないことはわからないまま放置しない、理解ができない自分をきちんと認める、そのうえで相手に頭を下げる、この一連の流れに厳しい教育を感じた。何度も言い含める瀬戸が目に浮かぶようだ。
「二人は幼稚園に通っていますか」
「ほいくえん」
「ほいくえんにかよってます」
「ああ、保育園……」
しっかり訂正されて、廣谷が机に肘をつく。つい先ほどまで辛抱強く立っていたのにじっとしているのに飽きたのか二人は手を離すと、それぞれ廣谷の脚に片方ずつまとわりついた。まとわりつくというと言葉が悪いが、廣谷としてはそれが正しい表現だろう。眉根を寄せて明らかに不快そうにしている。しかし離そうとすればするほど、二人がきゃっきゃとよろこんで回した腕に力をこめるので、途中で諦めたようだ。盛大な溜息をついた。
「クラスで分けられていますか」
質問の続きに、心と初が頷く。
「クラスの先生がいるでしょう」
「いる。みんなこわいっていうん。よくね、おこってるからね」
「でもわるいことするからおこられるん。いちばんほめてくれるんもね、せんせい」
「学校にもクラスがあります。クラスの先生が私で、二人と同じ立場なのが鷹村さんです」
へえー! とことさら二人は大きな声で感心した。智枝子はこっそりスマートフォンを取り出し、双子と廣谷をカメラに収める。ちょうど集団が通ったのか廊下から話し声が響いてきて、うまいことシャッター音がかき消された。カメラ嫌いの廣谷にばれたら苦々しく一言二言もらっただろうから、夏休みだというのに学校に来ている学生たちに感謝する。
「むかし? むかしそうやったってこと?」
「むかし、あやくんはひろたにさんのクラスやったってこと?」
そうです、と廣谷が頷いて、二人は再度へえー! と大きな声を出した。あやくんもむかしはこどもやったんやねえ、などと笑って話している。智枝子はもはや失った発想だ。みんな例外なく昔は子どもだったのだと教えれば、驚いてくれるだろうか。
「おしえてくれて、ありがとーございます」
満足したのか脚から離れた二人が、お礼を言いながら改めて頭を下げた。四歳、厳密に言えばまだ三歳だが、かなりしっかりしている。これだけで飴でもあげたくなるのは、きっと二人が智枝子にとって姪だからだ。身内贔屓に自覚がある。
「ひろたにさん」
ぴっ、と初が腕をまっすぐに伸ばした。もう会話は終わったものだと思っていた廣谷がげんなりした様子で再び二人に視線を向ける。少しの間沈黙が降りた。廣谷が何ですか、と聞くと、やっと初が腕を下ろして口を開いた。一方的に話すなとでも瀬戸に言われているのだろうか。ありえそうだ。
「ほんがよみたいです」
「おすすめおしえてください」
「ぶあつくてもちゃんとよみます」
「あのね、ひらがなならよめる」
廣谷は双子を見下ろして、小さく嘆息した。本はこの部屋をぐるりと囲むだけではなくそこかしこに積まれているけれど、ほとんどが研究資料で、あとは廣谷の趣味であり、保育園に通う年齢の子たちが読める本はおそらく存在しない。
気を逸らすため何か話しかけるべきかと智枝子が考えていると、廣谷が抽斗を開けて心と初、それぞれに一冊ずつ本を渡した。
「差し上げます」
双子は両目をきらきらと輝かせ、頬を紅潮させた。ほおお、と感嘆の息が漏れている。まったく同じ表情でよろこんでいるのを反射的に納めなければと思い、智枝子はまた写真を撮る。今度はぱしゃっと音が部屋に響いたが、本に感動している双子には聞こえていないようだった。廣谷だけが音に反応してちらりと智枝子に目線を向けた。
ぶれたりしていないか、一応確認する。心と初は本当にそっくりで、よく見れば区別はつくのだが、瞬時にどちらがどちらと判断するのは難しい。こうして画像になってしまうとなおさらわからなかった。
「ちえちゃん」
大きな声で二人に同時に呼ばれ、顔を上げる。悪いことはしていないのに、スマートフォンを隠すように慌ててテーブルに置いた。
「見て、もらった」
「もととはじめ、べつべつなの」
「おとなのほん」
「すごい。おとなのほん」
爛々とした瞳のまま、ずずいと本を示される。廣谷のことだからどれだけ配慮のない書籍を渡したのかと見てみれば、『きまぐれロボット』と『エルマーのぼうけん』だ。「おとなのほん」というのは絵本ではないという意味だろう。どちらにせよ四歳児にはまだはやいような気もするが、漢字にはすべてフリガナが振ってあるはずである。そのうえ新品だ。しかも抽斗から取り出していたから、二人のために廣谷が用意していたということになる。
あまりにも意外すぎて廣谷に目をやれば、自分の役目は終わったとばかり、こちらに背を向けて仕事を再開している。
「よかったやん。ちゃんとお礼言った?」
「あっ言ってない」
「まだ言ってない」
心と初は気忙しく廣谷のところに戻り、「ひろたにさんありがとう」「ありがとう」と騒ぐ。声をそろえる余裕はいまはないようだ。
「よむ」
誰に言っているのか宣言して、智枝子を挟む形でソファによじ登るようにして座った。さっそくページをめくって二人はそれぞれ読み始める。
心と初が黙ったので、途端に静かになった。智枝子は廣谷の背中を見つめる。会ったときから変わらない皺の入った白衣を今日も着ていて、この研究室もいつまで経っても本が散乱していて変わり映えしない。このまま数年前に戻っても気づけないかもしれない、と思うほどだ。
それでも廣谷は変わった。誰かのためにプレゼントを用意して置いておくだなんて考えられなかったし、幼い子に対してだろうとわかりやすく言葉を噛み砕いてやるなんて、これまでなら絶対にしなかった。
右手を眼前に持ってきて眺める。薬指には廣谷と揃いの指輪があった。社会人になってもこうしてこの部屋に通っているだなんて、智枝子自身もかつては考えもしなかったことだ。ということは、わたしも変わったのかもしれない、と智枝子は口を手で覆う。これは綺香に移された癖だ。
「ちえちゃん、これ、わかんない。じしょもってる?」
初が智枝子の服を引っ張って聞いた。意味を教えてもらおうとするのではなく辞書を引こうとするだなんて、本当にまだ三歳なのだろうか。実は未来にタイムスリップしているのに相変わらずの景色なので気づいていないだけなのではないか、と妄想しながら、ちょっと待ってね、と制する。手頃な辞書が広辞苑しかない部屋だ。
小口を見て「ひらがながかいてない」と言うので智枝子が引いてやる。書いてある言葉を読みあげたあと意味を易しく伝えると、こういうことかと初は復唱し、合っていると頷けばわかった、ありがとうとまた本の世界に戻っていった。下手な大学生より賢いのではないか。叔母の贔屓目ではなく真剣に考え始めてしまう。
こんこんこん、とノックの音が三回響いたかと思えば、即座にドアの開く音がして瀬戸が顔を覗かせた。廣谷から返事などくるはずがないので、入ってくるときはいつもこうである。
「すみません、お待たせしました」
ばっと双子が勢いよく顔をあげ、本を抱えて瀬戸のもとに走っていく。
「おとうさん、みて! もらったん! ひろたにさんくれたの」
「おとなのほん! はじめともと、ちがうやつ」
「よかったですね。お礼は言いましたか?」
頭をなでられながら、うん、とそろって返事をする。
「おとうさんのいうとおりやった」
「おすすめのほんおしえてくださいっていったら、ひろたにさんくれた」
ぴくりと廣谷が体を震わせて、忌々しげな表情で瀬戸に振り返る。何か言いたそうに口を開いているが、結局一言も発せられないまま机に向きなおった。言っても無駄だからである。反対に瀬戸はそうですか、と言いながらにやにやとして廣谷に視線を向けた。
「智枝子さんもありがとうございます。急に失礼しました」
「いえ、面倒見とったんほとんど廣谷さんなので」
面倒を見ていたというか、双子に見つめられていたというか。
今回は末の子である歩が朝から熱を出して、小春たちは旅行で不在、瀬戸は外せない来客、保育園は休みという不運が重なり、智枝子に白羽の矢が立った。智枝子としても、綺香に仕事が入っていて暇だったのでちょうどよかった。かわいい姪の世話くらいいくらでもする。
「おとうさん、よんでからでもいい?」
「こうかんこっこは、かえってからにするから」
いいですよ、と瀬戸がにこやかに答えると、やったあ、とまたソファに座って二人は続きを読み始めた。まだ居座ると思っていなかった廣谷は振り返って再び瀬戸を睨みつけたが、当然瀬戸はどこ吹く風である。
「おにいさん、写真撮ったの送ります。すんごくかわいいので見てください」
先ほどの二枚をラインで送ると、瀬戸は画面を食い入るように見つめ、ゆっくりと顔を覆った。二枚目でこの反応なら親ばかだが、おそらく廣谷と双子が絡んでいるほうの写真でこの反応だろうなあ、と智枝子は推測する。保存しました、とメッセージが飛んできたので、猫が親指を立てたスタンプを返す。
「飛紗ちゃんにも送っておこう……いま歩の看病で大変だと思うのできっとよろこびます」
はあ、と恍惚そうな息を漏らして瀬戸が言う。絶対に一枚目だ、と智枝子は確信を持った。たまに廣谷の写真を送ると、おいしい食べ物を恵んでくれるので正直なところ味をしめている。
「廣谷さんもありがとうございます。今度お酒持ってくるね。百年の孤独とか」
かつて幻の焼酎と呼ばれた酒の名前を出されて、廣谷の手がとまる。立ちあがったかと思うとお湯を沸かし始めたので、珈琲を淹れてくれるようだ。
右に左に目線を動かしながら、智枝子の口に笑みがこぼれた。あまり変わらない景色のなかでも確実に時が過ぎていて、これからもこんな日々が続くのだろうと思うということは、いまがたのしいということだ。こんな日々が続きますように、と智枝子は言葉を願いに変えて、心のなかで呟いた。