山宮さんと廣谷さんのある日の話
せとひさは出ません。すまんな。
「風邪ですね」
体温計を見ながら山宮さんは言った。
「熱がありますね」
で済むことを、わざわざ医者でもないのに「風邪」と称したのは、おそらく彼女のやさしさだろう。
人類は皆廣谷に厳しく、また廣谷をきらっているが、山宮さんだけは違う。嘘をついてもその場しのぎではない、自分のためを思っているのだとわかる。
「また夜に来ますね」
「どこに行くんですか」
「仕事です」
薬や飲食関係の指示をし、それでは、と山宮さんは出ていった。叱られるのはいやだが、何かを食べられる気はしない。だいたい山宮さんは食に対して貪欲がすぎるのだ。彼女なら熱を出しても食事だけは抜かないだろう。
それにしても、夜にも来てくれるのか。
やはり山宮さんはやさしい。
体に不調が出ると、どうしても過去のことが甦るのでなお不快になる。
ずっとずっと昔、廣谷が倒れると隣家に住む幼馴染が必ず看病に来てくれた。もっとも看病というのは建前で、彼女が世間から決められたこと――通学や家事、それに附随するものもの――から逃れる大義名分として、廣谷を利用しているにすぎなかった。
かわいそうに、と彼女はよく言った。眉尻を下げ、唇を緩やかに湾曲させ、慈愛を錯覚させながら、薄くほほえんだ。
かわいそうに、憐憫の視線に気づけないの?
わたししかいないわね、どうもしようがないわ、かわいそうに。
「それは呪いではないのですか」
かつて山宮さんは言った。
「呪いでしょうか」
「違うんですか」
「もうわかりません」
考えたこともなかった。彼女には何もしないことが最善だった。それは記憶であっても同じことだ。
山宮さんは、彼女を責めなかった。おかしいとは言わなかった。繰り返された彼女の言葉が心身の一部になっている廣谷をしっかりしろと叱咤しなかったし、忘れるよう促したりしなかったし、おかしいと否定しなかったし、これからはなんて激励もしなかった。
変わることは億劫だ。廣谷は別に苦痛を取り除く意思はなく、切り離すほうがしんどかった。それはごっそりとそれまでの自分を殺す行為だった。
楽を選ぶ廣谷を、山宮さんは受け入れた。
「そうですか」
そのたった一言だった。
「廣谷さん」
いつの間にかねむっていたようだ。目の前に山宮さんがいた。ベッドの横にしゃがみこみ、覗きこむように廣谷を見ている。
知らぬ間にねむり、瞼を開ければ山宮さんがいるなんて、このうえない幸福である。
「起こしてしまいましたか」
「いえ」
呼びかけて問うにはおかしな内容だ。
「山宮さん」
「はい」
山宮さんは冷蔵庫を覗いていたが、残っている食事について何も言わなかった。
「呼んだだけです」
「そうですか」
ふふ、と廣谷は笑った。
山宮さんは気にとめず、水も飲んでない、とひとりごとのように言った。




