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SS置き場  作者: 葉生
『なんでもない日々』SS
20/24

山宮さんと鷹村さんのある夜の話

せとひさは出てこないよ。ごめんな

 虫の知らせをどこかで感じ取ったように、夜中にふと目覚めるときがある。そういうとき隣で寝ていたはずの鷹村は大概体を起していて、どこか遠くを見つめるようにしている。もちろん目線の先はただ暗闇が広がるばかりで、変わったものは何もない。むしろそうして体を起してくれていればよいほうで、一見普通に寝ているように見えて、その実ひとりで何かに耐えていることがある。

 あやくん、と話しかける。しかし彼は気づかない。それは智枝子が家人を起さないように声をひそめたからではなく、彼の耳が聞こえないからだ。それで、彼の体にやわらかく触れる。びくりと体を震わせて、鷹村はそこでやっと智枝子に気づく。気づくと、驚いたことを隠すように細く長い息を吐いて、どうしたの、と口にはしないがほほ笑んで、智枝子の手に自身の手を重ねる。おそらくはほほ笑んでいる。目を覚ましたばかりの智枝子に、暗闇に溶ける鷹村の表情までは見えない。

 耳が聞こえなくなってからの彼の努力、彼の癖。常に笑顔であること、身だしなみに気を遣うこと、ノートか携帯電話を持ち歩いて、意思疎通のできるものを持っておくこと。話すことはできるが自分で自分の声の大きさを調整できない、きちんと発音できているかが確認できないことをひどくきらう鷹村は、智枝子の前以外では絶対に声を発さない。どれだけ笑おうが、驚こうが、それは家族の前でも同じだ。

 重ねられた手の指先を掴むようにして、あやくん、と智枝子はもう一度繰り返した。

 つよくなければと弱みを見せないことをまず求めた鷹村は、鷹村自身の癖によって、たまにこうして潰れそうになってしまう。聴力を失ったときにぽっかりと空いた穴がふいに現れて、暗闇に彼を飲みこもうとしているようだ。

 だから智枝子はそれに気づかなければいけない。智枝子にも素直に甘えてはきてくれない鷹村を、暗闇のなかから見つけ出さなければならない。

 体を起して、鷹村の手から腕へ、肩へと触れる箇所を上っていき、頬に落ちつく。それを頼りにして顔を近づけると、やっと鷹村の顔がぼんやりと映った。明るければ言葉も智枝子の口の動きを元にして鷹村に届くが、暗闇ではわからない。頬に置いている指先を少し動かし、唇の位置を確認すると、そこに自身の唇を重ねる。言葉を口移しするように。

 鷹村は頬にある智枝子の手を取り、言葉を返そうとするみたいにその手の平に唇を乗せた。指先を軽く噛むようにしたあと、今度は鷹村が智枝子の頬に手をやる。また唇を重ねて、どちらからともなく舌を絡めた。

 乾いた唇を越えて、湿り気のある口内を感じると安心する。暗闇でいくら声をかけても鷹村が智枝子の言葉に気づかないように、智枝子も暗闇のなかでは鷹村の伝えたいことを知ることができない。だからおそらく、お互いに何を約束したわけではなくとも、存在を教えるように、確かめるように、こうして触れる。鷹村のさびしさだとか不安だとかだけがただそこに漂うばかりで、そのまま手をすり抜けていってしまうような恐怖をまぎらわす。

 探るようにしていた輪郭も、目が慣れてぼんやりと捉えられるようになってきた。唇を離して、額や鼻をすり合わせるようにしながら、普段はきちんと整えられている鷹村の髪を、こういうときばかりは遠慮なくわしゃわしゃとなでる。きっと彼は今、表情までは詳しくわからないこの暗さに感謝をしている。智枝子の胸に顔をうずめて、手を腰に回した。

 あやくん。鷹村の耳に口元を近づけるようにして、呼びかける。すると鷹村はまるで聞こえているかのように、智枝子の腰に回している手に力を込めた。

 本当は押しつぶされそうになる前に、言ってほしい。虚無に飲みこまれる前に、普段飼っているさびしさが彼に逆らう前に、智枝子がいれば大丈夫だと言われるだけの存在になりたい。

「智枝子」

 つよくあろうと思いすぎて、本当につよくなってしまったひと。つよくなりすぎてしまったひと。智枝子にしか声を聞かせないその特別さをよろこびながら、今まで彼が積み上げてきたつよさを安易に崩してしまったような気がして、たまに自分の価値を考えてしまう。釣り合いが取れるだけのものを返せているだろうか。

 音や揺れが響いて、誰かが気づいたりしないとよいな、と頭の端でぼんやり思った。



 部屋が明るいことに気づいて目を覚ますと、鷹村と目が合った。起きてはいないが目線をこちらに向けている。智枝子が目覚めたことを認めると、鷹村はゆっくり何度か瞬きをして、少しだけ目を細めた。彼は智枝子が彼の目によわいことを、とてもよく知っていた。

「おはよう」

 毛布をかぶったままそう言って、鷹村は枕元に置いた補聴器を左耳につけた。

「起きたなら準備してくれてよかったのに」

 口をゆっくり、大きく動かしながら、寝転がっていたので小ぶりになるものの手も一緒に動かす。補聴器をつけていても、鷹村の耳元に大声を出すようにしなければ彼は何も聞きとれない。何時なのかはっきり認識していないが、叫ぶにはまだ迷惑になる時間だろう。

 鷹村はいつもの笑顔を顔に浮かべて、大丈夫かなと思って、と言った。愛想笑いだが、これは鷹村の癖なので智枝子の前でも抜けることはない。今はただ仮面のようになって、申し訳なさを隠そうとしている。

「昨晩無理をさせたから」

「大丈夫だよ」

 はっきりとそう言って、智枝子は体を起した。大きく伸びをする。二人で寝ても充分な広さのベッドだ。智枝子の家では皆が布団を並べて寝るので、ベッドというだけで珍しい。

 まだ体を起さない鷹村の頬をつまんで、軽く引っ張った。思ったより伸びない。鷹村は抵抗を見せず、ただ『何するの』と手で聞いた。

 虫のおかげでも第六感でも偶然でも何でもよい、今回もきちんと気づけてよかった、と安堵した。もう明るいところにいて、暗闇にきちんと虚無を帰した鷹村に、また会えてよかった。

「ばか」

 頬から指を離して、小さく呟く。動きが浅くて口型で読みとれなかったらしい鷹村は、頭に疑問符を浮かべてじっと智枝子を見つめた。智枝子は無防備に寝転がったままの鷹村に抱きついて、もう一度「ばか」と繰り返した。

 抱きついてきた智枝子の背中に手を回して、鷹村はぽんぽんと、智枝子をなだめるようにした。これではどちらが慰められたのかわからない。

 ああでも、と鷹村の胸に耳をつけながら、智枝子は目を閉じる。

 少しだけはやい鼓動が伝わってきて、とても心地よい。

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