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SS置き場  作者: 葉生
『なんでもない日々』SS
19/24

中華料理食べに行く話

付き合う前の瀬戸さんと飛紗ちゃん。

DL雑誌『カラタチ』 https://48dou.booth.pm/items/204944 (無料)から再掲。

 携帯電話が普及し、日本全国どころか世界各国どこにいても気軽に連絡が取れる(ただしその分、金はかかる)現代において、連絡先を知らないというのは、互いの関係を示す一つの指標なのかもしれない。少なくとも、個人的な付き合いにおいて。

 社会での付き合いは別だ。会社から会社用の連絡先として携帯電話が支給され、日々その番号を記載した名刺をそこかしこにばらまいている。

 いまやもはや珍しい、と言える、携帯電話を持っていない人に対してはともかく、友人同士でお互いの電話番号・メールアドレス・最近ならラインIDを知らないということが、はたしてどれくらいあるのだろうか。恋人同士で電話番号を知らないということがあるだろうか。

 そう思っていたのだが、そんな話を弟にしたときには、「ネットでしか付き合いがなくて、本名すら知らない友人がたくさんいる、という人もいるみたいやけど」と言われた。飛紗にはわからない世界だ。そして想定していたのとは異なる返答だったので、それ以上は何も言えなかった。ほんとうはそこから本題に入るつもりだったのだけれど。

 つまり言いたかったのは、

「ご飯食べに行きませんか?」

 と、偶然会ったときに言ってくる連絡先を知らないし聞いてもこないこの男は、いったい何を考えているのかということだ。

「……今日?」

「飛紗ちゃん、私が話しかけるととりあえず訝しむよね」

 ベッドタウンの夜八時は、帰路についた人たちであふれる。そのなかの一人だった飛紗だが、電車から降りた瞬間に見つかってしまった。二週間に一度は会っている気がする。最寄駅が一緒とはいえ、連絡先を知らないのですべて偶然の出会いであり、そう考えるとかなり高い頻度だ。

 もちろん知っていることもある。苗字、瀬戸(下の名前は忘れた)。年齢、三十代。備考、服装もそうだが、童顔と茶色く染められた髪でとてもそうは見えない。職業、弟の卒業大学の専任講師。元、飛紗の卒業大学の非常勤講師。備考、教えてもらったのは「歴史学のあゆみ」という一単位の選択授業のみ。そのため専門が歴史学中世らしいことは知っていても、詳しくはよくわからない。もっとも文学部ですらなかった飛紗にとっては興味の範囲外だ。

 いま思い出しても、瀬戸の授業を選択したのは失敗だった。おそらく当時同じ教室にいたほとんどがそう考えていたはずだ。女子校に若くて顔立ちのよい男性講師というのは、それだけでうけがいいのにも関わらず、である。瀬戸は容赦がなかった。少なくとも、百名近い人数がわずか五名に脱落する程度には、授業内容は厳しかった。まず最初の授業で「出席は取りません、最後のテストで点数を取れば単位をあげます」と断言したので来なくなった学生が半数くらい。次に「しゃべったり寝たりするのならば出ていってください」と追い出した学生がさらにその半分。授業内容についていけなくなり、残ったのは結果五人。そのうちの一人が飛紗だ。大多数の学生が落ちたと聞いている。

「努力する姿勢がすきなんですよね」

 再会後に文句を言えば平然と吐き出されてぞっとしたのは、まだ記憶に新しい。この男の眉をへの形にした困っているような笑い方に、飛紗は慣れることができない。

「今日は中華の気分。飛紗ちゃん、からいの平気?」

 いわば元教え子である飛紗に対して「飛紗ちゃん」、と瀬戸が呼ぶようになったのは、大学を卒業して四年が経った今年、ばったり再会したあとからである。大学は関東であったから地元で知人に会うとは思いもしていなかったし、卒業して数年、もはや大学のことなど思い出す機会が減っていたので、最初誰なのか気づくのに時間がかかった。話しかけられなければ、見かけたとしても「どこかで見たことあるような」程度に留まっていただろう。

 授業を受けていた当時は無論、「鷹村さん」と呼ばれていたのだが、瀬戸にとっては卒業後も週に何回か大学に通っている飛紗の弟のほうが「鷹村さん」として認識が高いらしく(弟の専攻は文学であって歴史ではないのに、日常的に会っている様子だった)、ややこしいので下の名前で呼ばせてください、と言われた。

 それで、飛紗のほうも最初は「先生」と呼んでいたはずが、いつの間にか「瀬戸さん」になり、気づけば「瀬戸」になり、敬語も抜けた。そういう風に操作されたと言ってもいいかもしれない。そう思えるほど、飛紗はだいぶ瀬戸に翻弄されていた。もとが教師と教え子という関係だったからだろうか、どうあがいても相手が一枚上手という関係は、腹の立つこともあるが、基本的には楽だ。

「まだ行くって言ってへんけど」

「今日金曜日だから、明日休みでしょう? 奢るよ」

 会話が噛み合っていない。だいたい奢ることを条件として出されても、飛紗は瀬戸と食べに行って一銭も出したことはないので、単に「いつもどおり」と念を押されたのと一緒だ。毎回では申し訳ないと、断る瀬戸をおして奮闘するのだが、気づけば押しきられているか、会計自体がすでに終わっている。

 しかし明日が休みなのは確かなので何も言えずにいると(嘘をつくのはきらいだ)、さっさと瀬戸に手を引かれてしまう。この手も、いったいなんなのか。別に迫られているわけではないし、瀬戸にそんな気もなさそうなのに、ごく自然につながれる。もっともすぐに離されてしまうのだけれど。ただ瀬戸が慣れているだけだろうか。見るからにそんな感じだし、と勝手に不名誉な想像をする。

 改札を抜けると観念した気持ちになり、おとなしく着いていくことにする。母親に遅くなる旨のラインだけ飛ばし、着いてきていると確信しているのか振り返りもしない瀬戸のあとを追う。今日は高めのヒールを履いているので、少しだけ飛紗のほうが背が高い。

「無性にからいものが食べたくなることってない? 寒いからかな」

 歩道橋を渡りながら、瀬戸がふいに言った。

「無性に甘いものが食べたくなることならあるけど」

「チョコレートとか?」

「ううん、あんことか」

 あんこ! と瀬戸は意外そうに声をあげたあと、おかしそうに笑った。こういうときの笑い顔はすきだ。顔立ちだけはほんとうに整った男なので、不覚にも小指分だけときめいてしまう。ただしイケメンに限る、とはよく言ったものだとしみじみ理解した。

「いいねえ、私もたい焼きとかすきですよ。よくお客さんに阿闍梨餅とか、ひよこ饅頭とか、あんこ玉とかお土産でもらうから、今度タイミングが合えばあげるよ」

 だから、なぜそこで連絡先を聞かないのだろうか。いちいち「今日会うかも」と思いながら鞄に忍ばせるつもりなのか。ご飯に誘う程度には近しく、また食べに行って互いに無理はしていない、はずだ。いや、これではまるで、連絡先を交換したいような言い分ではないか。

 そう思って、結局はありがとう、と頷くだけに留まる。

 距離の取り方が、これまで付き合ってきた人たちとは異なっていて、いまいち掴みきれない。私も現代っ子ということやろかと、小さく嘆息した。少なくとも中学生あたりまで、携帯電話はないほうが当たり前だったはずなのに。

「ん? 待って、あんこ玉ってなに? 流すところやった」

 阿闍梨餅は京都銘菓、ひよこ饅頭は福岡銘菓(断じて東京ではない)であるのは知っているが、あんこ玉は聞いたことがない。

「え、知らない? 東京の定番土産なんですが……寒天で色のついたあんこをくるんだお菓子です」

「知らない」

 上京していたときも、見かけた記憶がない。帰省する際の家族への土産といえばベルンのミルフィーユかガトーフェスタ・ハラダと相場が決まっていて、和菓子には目もくれなかった。一度シュガーバターの木を買って帰ったら当然のように大阪にも支店があり、それ以来、別のものを買うなら東京バナナ程度に留まっていた。

「舟和の芋ようかんは?」

「…………? それも定番?」

「定番です。あんこ玉と同じ会社なんですけど、そうか、こっちじゃ知られてないんだな」

 東京生まれ東京育ちの瀬戸は、不思議そうにひとりで頷く。いまの大学に伝手があって勤めるようになるまではずっと関東だったと言うから、カルチャーショックもあるのだろう。学生時代から頻繁にこちらに足を運んでいたとはいっても、滞在と移住では心持が変わってくる。

「ということは食べたことがないのか。今度出張でもあったとき買ってきます」

 出張。大学講師も出張があるのか。まったく別世界なのでどのように働いているのか想像がつかない。

 店に着くと瀬戸は名前を伝え、定員は「お待ちしておりました」とにこやかに奥へと招いた。金曜日のこの時間、二回転目でうまくどこかに入るのかと思いきや、予約をしていたのか。

(確信犯やないの)

 薄く眉根を寄せるが、飛紗がこの時間に帰路につく・駅で出会う・誘いに了承する、の三つが揃わなければ来られなかったはずだ。連絡先は知らないのだから、すべて偶然に任せるしかない。

 ということは、他の誰かと来る予定だった?

 それがだめになって、たまたま知り合いに会ったので誘った?

 そう考えはしたが、どちらにせよ時間を考えるとできすぎている気がする。いくら瀬戸が飛紗より一枚も二枚も上手だとしても、まさか運命までは操れまい。あるいはストーカーのように、盗聴器を仕掛けたりしているわけでもないだろう。顔を合わせば普通に話すくらいには知り合いなのだから、そんな労力を使うのは無駄というものだ。

 カウンターに並ぶと、すぐに温かいおしぼりをもらった。冷えた指先がじんわりとぬくもっていくのを感じて、小さく息を吐く。中華なのでとりあえず二人して生ビールを頼んだ。

「ここ、来たことあるん?」

「初めて。だから何がおいしいとか聞いても答えられないよ」

 ふうん、と間に置かれたメニューを覗きこむ。なんとなく文字をなぞると少しだけへこんでいた。薄く黄色がかった紙は少しだけざらついていて、センスがいい、と感心する。

 前に行った店はイタリア料理だった。そのときも飛紗は同じ質問をして、何回か、という返答をもらった。瀬戸の馴染み方はその店と変わらない。初めてだろうが何回めだろうが、佇まいに差が見られない。それは美点なのか――少なくとも汚点ではないにせよ――飛紗にはなんとなく足下を波にとられるような不安があった。瀬戸はどこにいても景色のなかに溶けこんでしまう。いまはこうして一緒にいるが、ふとどこかに行ってしまうような。もしそうなったとして気づけるかどうか、自信がない。「行ってきます」と報告をもらえるような間柄ではない、ような気もする。

 あ、と飛紗は気づく。そうか、連絡先など、瀬戸にとってはとるにたらないことなのか。

「ねえ、瀬戸」

「ん?」

 瀬戸はおそろしくないのだろうか。自分の輪郭を曖昧にすることが。それともただ飛紗がそう思うだけで、話せば瀬戸は笑い飛ばしてくれるだろうか。

 思わず袖口を掴んだが、店員が「生ビール中と小、お待たせしました」とカウンター越しに話しかけてきたので、話が途切れてしまった。一度途切れるとそもそも何をどのように聞こうとしていたのかわからなくなり、飛紗は口を噤む。瀬戸はそんな飛紗を一瞥したあと、「おすすめは何ですか?」と店員に質問した。

 前菜二種、麻婆豆腐、酢豚のあんかけ、酸辣湯、小籠包を頼み、何にかはわからないものの、とりあえず乾杯をする。

「なにを言いかけてたんですか?」

 杯を半分くらい飲みほし、瀬戸は飛紗に目線をやって言った。一つひとつ言葉を拾ってくれるのは、間違いなくこの男の長所だ、と飛紗はゆっくり瞬く。

「瀬戸はさびしくなったりせえへんの、これまでずっと関東やったんやろ」

 関東と言いはしたが、つまり東京だ。対するここは関西。大阪ではないが、よく一緒くたにされる地域ではある。そしていわゆる「大阪のおばちゃん」のように強烈なキャラクターはほとんど難波を中心とした通称ミナミに集中しているものの、余所者からしたら似たようなものだろう。

 予定とは異なる質問を投げかけてしまった。ちびちびとビールをすするようにしながら一人勝手に気まずさを覚えていると、今度は「遅くなりましたが、つきだしです」と店員がなめこを持ってきた。陶磁の青がきれいで、メニューだけではなく全体的に見目うつくしい仕事をしている店だな、と感じた。覗き見するように店内に目をやれば、落ちついた雰囲気が漂っている。その影響か、客も料理人にも、騒がしさがない。

「さびしくなることはありますよ。そうでなければこうして食事になんて誘わない」

 そういえば、瀬戸と会ってもただ一言二言会話をして終るときと、こうして食事に誘われるときとある。そうか、これは合図だったのか。

「まあ飛紗ちゃんのことは心配しているんです。変な虫に引っかかりそうで」

「なんやの、それ」

「押しによわくて警戒心が薄い、っていうのは、妙齢の女性からしたら致命的です」

 突然責められて、なにを知ったような、と口を開いた瞬間、また店員に邪魔をされた。空気さえも瀬戸の味方をするのか。つい恨めし気に睨みかけたが、出された前菜二種の彩りに目を奪われる。

「こちらはえびに湯葉を包み、にんにく醤油をかけたものです。もう一方が大根もち。脇に置いているのは豆板醤ですので、からさを調節しながらおたのしみください」

 にんにく醤油とは言うが、橙色をしている。見た目だけだとからそうな印象だ。箸の先端だけをつけてちろりと舐めると、ほのかなにんにくの香りが鼻腔をつつき、油分が旨味として伝わってくる。初見ではえびちりのような味を想像したが、まったく違う。醤油をもっともっとと欲張るようにしながらえびですくい、舌にのせればなめらかな口当たりで驚いた。

「やっぱりこういう店内や、料理の色合いも気になったりするんですか?」

 えびに感動していると、すでに皿もビールもカラにしかけている瀬戸が聞いてきた。飛紗の職業がVMDであることを知っての質問だろう。VMD、ビジュアル・マーチャンダイニング。念願の仕事につけた、と親に報告したときには頭の上に疑問符をいくつも並べられたが、つまりはアパレルメーカーで「いかに商品が売れるか」を考える立場である。手に取ってもらうためには商品をどう陳列したらよいか、それ以前に店に入ってもらうためには店内をどのように飾りつければよいか。

「うん。このお店は器もきれい。店員さんの説明も丁寧だし」

 何より料理がおいしい。大根もちは中華料理店で見かけても頼んだことはなかったメニューだが、不思議な食感が癖になる。

「それはよかった」

 ふ、と薄くほほえまれて、少しだけ動揺した。たぶんこの男(の顔)に騙された女性はたくさんいるんだろう、と考えて、なんでそんなことを気にしなければならないの、と自分の想像に苦虫を噛む。

 酢豚のあんかけを持ってきてくれたタイミングで瀬戸が紹興酒を頼むと、「運がいいですね」といたずらっこのような笑みを浮かべた店員が、カウンターを挟んで目の前で注いでくれた。

「ちょうどいま、開けて一ヶ月のものがあるので、こちらにしました。酢豚によく合います。紹興酒は普通こんなに保たないんですが、これはもの自体がよかったんでしょうね。おいしいですよ」

 一口含んだ瀬戸が、なめらか、と評した。普段お酒を飲まない飛紗は紹興酒のことを匂いのきついお酒、程度にしか思っていなかったので、開けてからの日数で味が変わるとは知らなかった。

 じっと見つめていると「飲みますか?」とグラスを傾けられて、おずおずと手にする。やはり匂いのためか少し目がつんとしたが、想像より味は刺激がつよくない。確かに瀬戸いわくのなめらか、である。

「飛紗ちゃんは杏露酒のほうがすきかな」

 かすかに唇を震わせたのを、瀬戸は笑った。細かいところまでよく見ている。弟が瀬戸のことを「相手によっては不気味に感じるひと」と評したのを思い出した。そのときはよくわからなかったが、いまになって小さく頷いてしまう。

 気づいてほしい、聞いてほしい、言わないでほしい、そういった微かなこちらの願いを、両手でやさしくすくうように拾いとられてしまうのは、場合によっては救いだが、場合によっては恐怖である。実際にそのつもりがなくても、瀬戸がそう言うのならそうなのかもしれない、自分はそう感じているのかもしれない、と錯覚してしまいそうな。天性の人たらしとしか思えない。

 まったく不毛極まりないことを考えている気がして、飛紗は再び箸を取る。深く考えず酢豚を箸で一口サイズにして食むと、油断していただけに衝撃が走った。これは本当に酢豚なのか。先ほどの店員は、一度角煮にした豚バラ肉を、さっと揚げてあんをかけていると説明してくれていた。これまでで味わったことのない感動だ。外はかりっとしているのに、中は柔らかく、噛む端からあんがとろりとからんで、咀嚼がとまらない。いつまでも味わっていたくて、いつも以上に何度も何度も噛んでしまう。しかし溶けるようになくなってしまい、思わずため息がこぼれた。

「ふっふ」

 肩を揺らしながら笑いをかみ殺している瀬戸にはっとして、なに、と悪態づく。瀬戸はそんな飛紗の態度など意に返していないように笑い続け、紹興酒を口に運んだ。

「飛紗ちゃんて、ほんとにおいしそうに食べるよね。なに話してても、途中でおいしいもの挟んじゃうと、もう思考がそっちにいっちゃってる」

 そうなのだろうか。そうかもしれない。

 自覚のなかった点を指摘されて、飛紗は考えながら引き続き酢豚を口に運ぶ。言われてみれば、すでに今日もころころ話題を変えてしまっているような。

「ねえ、さびしいと」

「あ、話そこまで戻すんですね」

 思い出して話題を引き返す。強引かとも思ったが、どうぞ、と言わんばかりに瀬戸が体を開いてくれているので、遠慮なく続けた。

「さびしいと、私をご飯に誘ってくるん?」

「うん、まあ、そうですね」

「都合がいいから?」

 飛紗の言葉が意外だったのか、面食らったように瀬戸が口を一文字に結んだので、なんだかほんのり溜飲が下がる。瀬戸にも思い通りにならないことがあるのだ。生きているかぎり当り前のことだが、その「生きているかぎり当り前のこと」が瀬戸にはたくさん欠落しているように思えてしまうから、いまの顔を引きだせたのは気分がよい。

「うん、まあ、そうですね……」

 繰り返すように返答した瀬戸に、なるほど、と納得する。体は半分飛紗に向いたままだったが、これまでまっすぐ射ぬいてきていた双眸はテーブルを眺めるように落とされていた。

「はっきり答えるんやね」

「はっきり聞かれたので。怒りますか?」

 酸辣湯と麻婆豆腐を持ってきた店員に杏露酒の水割りをお願いし、飛紗は小皿に取り分けていく。瀬戸に手渡すと、ありがとう、とことさらはっきりと言われた。

「職場のことは知らんけど環境だけは理解してて、瀬戸自身のことも詳しくない、でもなんとなく気心知れてるから一緒にいて楽、ってことやろ」

 要は息抜きだ。職場と家の往復、知り合いはほとんど職場の人間のみとなれば、たまには疲れるだろう。もっとも、飛紗からすれば瀬戸はそういうストレスと無縁のように思えるのだが、そう見せているだけということか。

 悪い気はしない。

 単なる偶然の重なりあいからでも、瀬戸のようなひとに必要とされているという事実は。

「この酸辣湯、ちょっとからくておいしい」

 薦めるようにれんげを押しつけると、瀬戸は困ったように笑った。飛紗が苦手なはずの瀬戸の笑い方だったが、不思議といまは受け入れられる。瀬戸の人間らしい部分を垣間見た優越感が、飛紗を満たした。誰に対する何の優越感なのか説明はできないけれど、きっと瀬戸自身に対するものだろう、とあたりをつける。

「私はね、飛紗ちゃんにだけは敵わない気がしてるんだよね……」

 ぼそりと落とすように呟かれた、意外なその言葉を、飛紗は小さく受けとった。答えるより、大事に持っていたほうがきっとよい。連絡先は知らない、友人と言うには遠い、恋人と称するなんてもっての他であるこの距離感を、これからはもう少し楽しめる気がした。

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