生活は流れている話
ノックの音がしてどうぞと応えれば、失礼します、と女性の声がした。眞一が手をとめて振り返ると、かつての学生、赤根美乃梨が入口に立っていた。ウェーブのかかった長い髪に、そつのない化粧、ジャケットスーツ。当然重ねた年数分だけ彼女も大人びた。ただ、
「瀬戸先生、お久しぶりです」
と屈託なく笑うところは、当時と何も変わらない。パイプ椅子そこにあるから、と指させば、相変わらずなんですね、と美乃梨はにこにことしてパイプ椅子を組み立てる。
久しぶりは久しぶりであるが、卒業以来というわけではない。卒業後、院に進んだ彼女は高校の教職を経て非常勤講師となり、来年度からこの大学にも来ることになった。院に進んでからもよく相談に来ていたし、非常勤講師になったばかりのころにも相談に来ていた。美乃梨のなかで頼るばかりではいけないとここ数年はご無沙汰であったが、それでも眞一が教えたなかではもっとも顔を合わせている。
「学会があって、近くまで来たので。急ですみません、来ちゃいました。いらっしゃってよかった」
「あなたはいつも急でしょう」
着たら体が二重か三重にでもなりそうなくらい、コートとさらに分厚いコート、そしてマフラーを背もたれにかけながら、美乃梨は言った。鼻が赤い。外はよほど寒いのだろう。窓の外に目をやれば、もうすっかり日が落ちていた。
「四月からは改めてよろしくお願いします。先生が口添えしてくださったって伺いました。ありがとうございます」
はきはきと明るく言われて、眞一は薄く笑う。さすがに押すことしか知らないような恋愛感情は美乃梨のなかでとっくに溶けているが、いまも好意は全身からもれ出ている。適当にあしらって他人と一定の距離を保っていた若いころとは違い、素直に享受したほうがこのごろは楽だ。丸くなったというよりは、面倒に感じる部分が変わったのだろう。
「優秀であればね。まあ、どれほど審査に左右したかは知りませんけど」
「いいんです。瀬戸先生が推薦してくださったっていう事実だけがあたしにとって重要なので」
美乃梨は至極まじめな顔をして、皆まで言うなとばかり左手で制した。薬指には指輪が光る。
非常勤講師は収入が不安定だ。複数の大学で掛け持っていても生活費が賄えず、副職をする人も少なくない。美乃梨は非常勤講師の打診があった際に金銭面で悩んでいたが、結局、高校の教職時代の同僚が結婚を申し出てくれて、支えあいながら暮らしている。式は身内だけだったので、眞一はご祝儀こそ出したが相手の男性の顔は知らない。美乃梨いわく、「顔は瀬戸先生にちょっと似ている」とのことだ。
「やっぱり教授の空きはなかなか出ないですね。落ちついたら子どももほしいと思ってたけど、無理かなあ」
半分はひとりごとだろう。美乃梨は初めて表情をくもらせ、溜息をつく。残念ながら女性の妊娠、育児は研究者である以上ブランクにしかならない。しっかり育休をとった眞一も上からいろいろ言われたくらいだ。
「結婚して何年でしたっけ?」
「えーと、今年で五年目です」
指折り数える美乃梨に、眞一はノックもせず研究室に飛びこんできたころの美乃梨の姿を重ねる。
「セックスレスにはなってないみたいですね」
え、と美乃梨は怪訝そうに眉根を寄せて何か言おうと口を開いたが、みるみるうちに唇を歪ませて顔を真赤にさせた。
「なんで憶えてるんですかあ。いや、瀬戸先生なら憶えてますよね、そりゃそうですよね。忘れてください。あたしがばかだったんです、全面的に失礼でした」
頭を抱える美乃梨に声をあげて笑う。まさか一四年も経って報復されるとは思っていなかったに違いない。眞一もまさかやり返してやろうとして憶えていたわけではないが、これは痛快だ。
美乃梨の在学中、おそらく色仕掛けでもしたかったのだろう、結婚五年目だった眞一に美乃梨は「そろそろセックスレスですね」と言い放ったのである。もっとも、末の龍一が生まれたのはそのあとだ。
「けど子どもは授かりものですからね。どちらにせよ悔いのないようにしてください」
まだ頭を抱えている赤根美乃梨――もとい、武内美乃梨は、小さくうめき声をあげつつはい、と返事をした。耳まで赤い。
「先生のところは、お子さんおいくつになりました?」
気をとりなおして、と聞こえてきそうなくらいあからさまに、美乃梨は勢いよく顔を上げた。ほんのり頬が朱に染まっているが、気づいていないふりをしてやる。
「上の二人が一六、真ん中が一四、末が一一です」
「えーあんなに小さかった双子ちゃんがもう高校生……ていうか、高校生の子どもがいるんですか、先生。見えない。えっ、ちょっと気味が悪いくらい若く見えます」
一言余計だ。もともと童顔で、三〇代のころでも学生に間違われたことがある。そのため眞一としてはまたか、という感覚ではあるものの、正面きって暴言を吐かれたのはさすがに初めてだ。美乃梨は素直な感想を述べただけで他意はないにしても。
「あの美人の奥さんとも仲良くしているわけですね」
唇を尖らせて言う美乃梨に、眞一は困ったように笑う。
「もちろんです。このあとデートですから」
「デート。はあー、いいなあ」
何ヶ月かに一回、小春たちに子どもを預けて飛紗と出かける。朝から二人で出ることがあれば、夕飯だけ食べに出ることもある。今日は後者だ。昨年度は上の双子が受験だったこともありほとんどそんな機会はなかったが、その分、子どもたちも気を遣ってくれているのかやたらと促し、今年度は回数が増えている。
机に置いた時計で時間を確認する。そろそろ出なければ。
「帰ります。待ち合わせの時間があるので」
「はあい。瀬戸先生って、待ち合わせにははやめに行くタイプですか?」
鞄に荷物を詰める。美乃梨も立ちあがってコートとマフラーを着こみ、パイプ椅子をたたんだ。本の山を倒さないように元の位置に戻す。
「奥さんとのときはね」
部屋と荷物を確認し、飛紗からもらったキーケースを掴む。
待ち合わせ場所でこちらを見つけたときのあの表情がたまらない。あとから遅れて行ったのでは見られない顔だ。
「やっぱり瀬戸先生はいいなあ。うちのひとはもうほんとルーズで、全部遅れてくるんですよ。まあその代わり普段なんでもない日に花を買ってきてくれたり、ケーキ買ってきてくれたりするんですけど」
言いたかったのはのろけの部分だろう。眞一は研究室に鍵をかけて、門に向かう。なんだかんだと仲良く夫婦生活を送っているらしい。迎えに来てもらうことになっているので、と言う美乃梨と門で別れ、バスの行列を避けて歩いて駅を目指す。
息が白い。どちらにしろこんな寒い日に飛紗を待たせるわけにはいかないな、と彼女のひんやりとした指先を思いながら眞一は足をはやめた。