コップに水を入れて飲む話
最近はクイズ番組が多い。生活の知恵から学力を問うもの、ひらめきをもって解くものまで、幅広く。子どもたちが好んで観るのもクイズ番組だ。ちょうど団欒の時間に放送されていることが多いからかもしれない。特に心と初は我先にと競って答える。歩は年齢に加えて引っ込み思案な性格が災いしてほとんど答えられず、末の龍一はまだ五歳でせいぜい選択問題程度が関の山なので、なおさら二人の独壇場と化す。先に言わんといてよと飛紗と眞一は毎回念を押されるが、眞一はともかく、飛紗はすべてがすべてわかるわけではない。こういうときに親の威厳を守れるのはいつまでだろうかと考えてしまう。
とはいえ互いが互いのライバルであり、かつ、相手に置いていかれたくない心と初は勉強もまじめにするし、それを見て歩も倣うし、仲間はずれにされたくない龍一も机に向かうので、効果としてはクイズ番組もなかなかだ。しかし机に向かいすぎると心配してしまうのが、親として勝手なところではあるのだけれど。
「ほら、正解」
先ほどから何問か連続して正解している心が得意げに言う。心の膝に座っている龍一がおねえちゃんすごい、と無邪気に拍手をして、初が唇を尖らせた。
「わたしも心と同じ本、読んでるのになあ」
「初はあせっちゃうからだよ。一息ついたらわかるって」
最初に口にした答えは間違っていることに気づいても変えてはいけない、というルールが彼女たちのなかにあるらしく、確かに初は叫んだあと、「ちがーう」と自分自身に叫ぶことが少なくない。その点、心は冷静で、初の答えを参考に正解を導き出したりしている。
皿洗いを終えて、飛紗は眞一の向かいに腰かけた。ソファに並んで座っている子どもたちが忙しなく動くのが見える。
「お皿、ありがとうございます」
眞一がテレビから飛紗に視線を変えて言った。こちらこそ今日もありがとう、と飛紗は頭を下げる。先に帰ったほうがご飯をつくり、つくってもらったほうが皿を洗う習慣は、子どもの乳児期を除いていまも続いている。
「今日は心が一歩出とるみたいやね」
「うん。歴史が絡む問題は心が得意ですね」
選択問題が画面に表示されて、龍一を除く三人が同時に叫ぶ。回答がばらばらだったので声があちらこちらに散らばる。一歩遅れて龍一がAと叫んだので、心はとりあえずAを選んだようだ。
結果はAだった。また心が鼻高々にのけぞり、龍一が真似をする。悔しい、と初が歩に抱きついた。とにかく仲はよいきょうだいたちなのである。
「あのね」
にょきっ、とソファから心と初が顔を出して、飛紗の体がびくりと小さくはねた。おとなしくしていたと思えば飛び跳ねたり、飛び跳ねていたと思えば膝を抱えていたり、心と初は感情の波が激しくてよく驚かされる。
見ればテレビはCMに入っていた。心の膝に座っていた龍一は歩と笑いあっている。
「クラスの子たちはね、ほとんどわからんのやって」
「心とわたしは簡単って思う問題もわからんって言われるん」
「だからちょっとね、恥ずかしいなーって思うことがあるん」
「わたしたちはわかっとるのに、みんながわからんから、先生とかわからんことを……ええと、なんて言うんやったっけ……」
交互に話していた双子はひそひそと内緒話でもするように小声で会議をして、また何事もなかったかのように飛紗たちに向きなおる。
「ぜんていで」
「そう、わからんことぜんていで言ってきたりするん」
「じょーしきって、あるやん」
「知らんのん、恥ずかしい」
飛紗は知らず眉をハの字にして二人を見つめる。こういう上から目線には、飛紗にも覚えがあった。何の根拠もなく自分のほうが偉い、すごいと信じている。相手が大人であれば一笑に付しててきとうに相槌を打ち、自分の子どもでなければ受け流せば済む話だが、心と初では当然そうもいかない。
抑えつけるようなことはしたくない。けれど甘やかしすぎて我儘を野放しにするのもいただけない。親としての教育はなんて難しいのだろう。特に小学生では、まだ人格を形成している途中だ。親である飛紗の言葉が子どもの人生を左右することだって大いにありうる。
「心、初」
静かに眞一が名前を呼ぶ。二人は何か間違えたらしい、ということに気づいて、さっと表情を失った。心なし背筋が伸びている。
普段はとにかく眞一の後ろについて気を引こうとしている心と初が何よりおそれているのが、眞一からの説教だ。わけもわからずとりあえず謝ればさらに怒られることはもう学習済みなので、はい、と二人同時に細い声で返事をした。歩と龍一も空気を察知してソファにおとなしく座った。
眞一は決して怒鳴ったりはしない。淡々と、いつもと変わらぬ様子で――と言ってもよいくらい、穏やかに叱る。それでも迫力があって、子どもたちの気持ちはよくわかる。叱られるときはもっぱら怒鳴られて育ったせいか、飛紗も叱るときの眞一はこわい。もちろん顔に出したりはしないけれど。
「知らなくて恥ずかしい、というのは、自分のためだけに使いなさい。知識がないことを無知と言いますが、人の無知には決して笑ったりしてはいけません。自分の品位を落とします」
「ひんい」
「ひんい」
口のなかでもごもごと繰り返す。
歩が本棚に置いてある辞書を取り出して、龍一と引き始めた。何かわからない言葉があると子どもたちはすぐに辞書を引く。眞一の教育の賜物というか、小学校にあがるとそれぞれ自分だけの辞書をお祝いに買ってもらえるので事あるごとに使いたがる。
「知識というのは、コップに水を入れて飲むことです。心も初も、クラスの子も、それぞれ自分だけのコップを持っていて、形も大きさもみんな違います。コップに水を入れるのがはやい人がいれば、入れるだけ入れて、飲むのは遅い人もいる」
ちらりと心と初が互いを盗み見る。
「すべてをわかった気になるのはやめなさい。他人がわからないことや知らないことを責める権利は誰にもない。知識がたくさんあるのはいいことです。その知識を使って、人のコップに何も入っていないことをばかにするより、水の入れ方や飲み方を教えられるようになってください」
内心感心しながら、飛紗は眞一の言葉に頷く。ある程度自分で自分を律することができるようになるまで、いまは飛紗や眞一が水をそそいであげているところなのかもしれない。だとしたら、その水をきちんと飲めているか、飲みやすく適量を入れられているかどうか、考えていかなければ。
「ごめんなさい」
しおしおと、心と初は同時に呟いた。
「みくだしとった」
「自分たちのほうがすごいって思ってた」
「何回教えてもらっても、いいもんね」
「わたしたちは初めて飲む水やなかったってだけやもんね」
二人の反省に眞一が頷く。心と初がほっと安堵の顔を見せた。空気が緩んだのを見計らって歩が飛紗の腕に腕を絡めてくる。小学二年生ともなるとけっこう重いのだが、膝にのせてやるときゅっと袖を掴んできた。自分が怒られているわけではなくとも、不安に駆られたのだろう。
龍一は落ちこむ姉たちとは違い、平気な顔をして眞一に話しかける。
「おとうさんはお水、飲みほしてもうたん?」
クイズ番組は結果発表に移っていた。子どもたちは問題でわからないことがあると最後の手段として眞一に尋ね、いまのところすべてに正解しているから眞一は何でも知っていると思っているようだった。
「いいえ。飲みほせればいいですけどね。世の中にはわからないことばかりですよ」
「えっ」
があん、と音が聞こえてきそうなほど龍一がショックを受けているので、小さくふきだしてしまう。
「でも飲みほしてしまったら、いずれ咽喉が渇くでしょう? だからいいんです」
それは、確かにそうだ。何もかもがわかってしまったら生きるたのしみがなくなる。
次の番組のタイトルコールが響く。さあそろそろ寝なさい、と眞一は立ちあがって心と初の頭をなで、龍一を抱きあげた。
今日の「おねえちゃん」である歩を寝る前に褒めて、話を聞いて、一日は概ね終わった。これも眞一が言いだした習慣だが、始めてよかったと飛紗は思う。子どもが四人もいるとなかなか平等に扱いつつ日々を過ごすのが困難だ。それがこの習慣を始めてから子どもたちの話を一人ずつ聞ける、子どもたちにとっては親を独占して話を聞いてもらえる日が必ず回ってくる。特に共働きで一緒にいられる時間は他に比べると少ないので、飛紗にとってもほっとする時間だ。
子どもたちが寝たあと、眞一と飛紗はこまごまとした所用を終えて、読書をしたり仕事をしたり、二人しかいなかったころと同じように過ごす。やがて眞一が寝ましょうかと飛紗に呼びかけて、ともにベッドに潜りこむ。急ぎや相談がないかぎりは、ベッドに入ってからが夫婦の会話になる。
「知識のさ、あのたとえ、どう叱ったもんかと思っとったから助かった。ありがとう」
枕元からのほのかな橙の光のもと、眞一がゆっくり瞬いて笑った。
「龍一、すごい顔してましたね」
「ね。ふきだしてもうたもん」
自分はどんな風に叱られていたか、どんなことで怒られていたか、このごろよく思い出す。無意識のうちに参考にしようとしているのは明らかだ。小春も和紀も怒鳴るタイプだった。はたかれたこともある。
「歩はやっぱり、しゃべるんがちょっと下手やな」
「話し始めるとたのしそうなんですけどね」
四人とも、それぞれ眞一に似ていると感じるところがあれば、飛紗自身に似ていると感じるところもある。それどころか学や小春に似ていると感じることもあり、子どもとは不思議な存在だ。考えている以上に見られているのだなと思う。どうかいいところだけを吸収していってほしい。そして自分も気をつけなければ、としみじみ思うのだ。
側頭を繰り返しなでられて、心地よさに目を細める。少なくとも、こんな姿は見せられない。
「あったかい」
手を重ねれば、唇を重ねられる。電気を消して、おやすみ、とささやきあった。