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SS置き場  作者: 葉生
『なんでもない日々』SS
16/24

夫婦の話

「やあ」

 軽やかに挨拶をした学に、飛紗の動きがとまる。飛紗ちゃん? と問われて、やっと意識が戻ってくる。同時に、自分の恰好のだらしなさに気がついた。化粧はまだしていないし、簡単な部屋着であるし、髪はぼさぼさだ。うつむいて顔を隠すようにしながら髪を指ですくと、所在なさげに微笑んでいる学の後ろからひょいと小春が顔を出した。

「飛紗。とりあえずあがってもええかしら。もう寒くて」

「お母さん?」

 ますますぎょっとする。小春は飛紗が何かを言う前から押しのけるように玄関に上がって、学にも同じように入ってくるよう促した。戸惑っている学に慌てて身を開けば、学も靴を脱いだ。

 連絡をもらっていただろうか。最近育児や家事に手を取られてスマホを落ち着いて見る時間がないから、気がついていない、もしくは読んだつもりで読めていない可能性はある。家のなかにいる眞一に伝えるべくリビングに急げば、涼しい顔をして頷かれた。驚いた様子はない。どうやら知っていたようだ。それなら昨日、何か言ってくれればいいのに。

「あっ、ば、おばーちゃ」

「ばーちゃ」

 心と初が小春に反応して笑いながら駆け寄る。二人ともまだあまり話せない。定期健診でも言葉の発達が遅れていると指摘されたが、眞一には「ママとかパパとか、簡単な言葉で呼ばせてないからでしょう」と言われ、小春にも「あんたも遅かったわよ」と言われたことがあって、あまり気にしてはいない。

 噂のイヤイヤ期に入った二人が無条件に、無邪気に笑うのを久々に見た。学にもうれしそうに抱きついている。

「どうしたん、こんな朝早くから。学くんまで」

 部屋も片づけられていないし、歩にはまだ眞一が離乳食を食べさせているところだ。家族とはいえ見せられるような状態ではない。ほんとうに、来るとわかっていたなら昨夜のうちにきれいにしておきたかった。二歳を過ぎているのに夜泣きの治まらない上二人と、その泣き声につられて目を覚まし泣き始める歩とで、まったくその暇はなかったにせよ。

「昨日からうちに泊まっとるんよ。それよりほら、自分の身支度しておいで。眞一くんも」

「うん。いまのうちに」

 二人の登場や物言いに混乱する飛紗とは裏腹に、眞一は愛想よく礼を言って、飛紗の腕を引っ張って寝室に引きずりこむ。ドアが閉められると、突然しんとした。

「どういうこと?」

 ベッドに腰かけた眞一に、つい責めるような口調になる。眞一は何も言わず飛紗をじっと見つめ、隣に座るよう指だけで示した。話にならない。ドアの向こう側を心配して踵を返そうとしたが、飛紗ちゃん、と呼びとめられて、しぶしぶ従った。間にできた距離がそのまま、いまの飛紗から眞一に対する距離だった。もう一人半、座れるくらいの。

「知ってたんやろ?」

 じろりと睨めば、うん、と眞一は頷いた。

「騙し討ちみたいな真似して、ごめんね」

 あっさりと謝罪を伝えられて、言葉に詰まる。これ以上の文句はただなじるだけになってしまう。いらだちを残しながら、ぐっと奥歯を噛み締めた。離れて座ったのは飛紗自身であるのに、近づいてもくれない、と身勝手な思いが胸の内に広がる。

 ベッドが動いたのを感じて、顔を上げる。姿勢を変えた眞一が飛紗を見ていた。その双眸が心配の色をたたえているのに気がつけないほど我を忘れてはいなかった。

「今回のことは、飛紗ちゃんに休んでほしい、という私の我儘です。それで、お義母さんと学くんに協力をお願いしました。片づいていない部屋を見せたくないとか、身だしなみとか、飛紗ちゃんにもいろいろ思うところはあるとはわかってるんですが、二人が来るとわかればいつも以上にこなそうとしてしまうだろうから、それを避けたくて」

 こういう形になった、と。

 だからといって、と、飛紗は眉間に皺を寄せる。だからといって、奇襲のような真似をされると気分はよくない。せめて相談がほしかった。しかし眞一の言うとおり、二人が来るとわかればきっと睡眠時間を削って部屋を片しただろうし、髪に櫛を入れて化粧をして、格好に気をつけて、と、あれこれ支度した。そしてそんなことをさせる眞一になぜいま、と怨みがましく思っただろう。いまの比ではなく。

「飛紗ちゃん」

 いつの間にかぎゅっと目を閉じて、手で顔を覆っていることに気づいた。

「飛紗ちゃんのことを思って、というのは免罪符にならないとわかっています。でも、他にいい案が思い浮かばなかった。ごめん」

 もう一度謝られて、かぶりを振った。もういいよ、と口をついて出る。いまは休職してくれているが、眞一も飛紗と同じく夜泣きに対応したり、家事をしたり、子どもの相手をしたり、その隙間に家でできる仕事をこなして、そのうえで考えてくれているのだ。飛紗には眞一を気遣う余裕はなかった。思い返してみれば、最近眞一が寝ている姿を見た覚えがない。

 気持ちがままならない。怒りたくなんかなく、むしろ感謝をすべき思いやりだと頭ではわかっているのに、思うようにいかない苦しさが心身を蝕んでいる。

「なにしたい?」

 眞一が戸惑う飛紗に距離を詰めて、やさしく微笑んだ。

「夜まで自由ですよ。なにしたい? このままここで寝てもいい」

 頬を手の甲でゆったりなぜられる。あたたかい。触れられている、とはっきり意識したのはいつぶりだろうか。これまでと変わらない大きな手だ。視線を落として、自身の指を眺める。子どもたちを産む前とは違って、爪は短いし、色もついていない。

「爪……」

 たのしいことはたくさんある。眞一は決して飛紗に物事を丸投げしたりはしないし、子どもたちのことは二人で育てている実感がある。それなのに時たま襲いかかってくる、底の見えない不安はいったい何なのか。贅沢だ。心と初が何をしてもいやだと叫び、歩が原因のわからぬ泣き声をあげると、頭を抱えたくなる瞬間がある。

「爪、きれいにしたい」

 周りが静かだ。もちろんドアの向こうはいつものどたばたした騒ぎが存在していて、かすかに聞こえてくるのだが、渦中にいるときと比べると静寂と言って過言ではない。

「髪は? 短いほうが楽って前に言ってましたよね」

「え、やって髪は」

 眞一を見やる。確かにしばらく切っていない。もっと正確に言えば、美容院に行っても眞一一人に子ども三人を任せるのが申し訳なくて、毛先を整える程度にしか切っていない。最短で済ませるにはそれがいちばんだった。傷んでますよ、と言われたときにはきちんと笑って流した。そんなことを言われても、最低限のケアをするだけでもいまの飛紗には精一杯だ。

 それでも、眞一が長い髪がすきだと知っていたから、これまで伸ばしたままにしてきたのだ。子どもの面倒を見ながら洗うのは大変で、ある程度くらいにしか乾かす余裕もなくて、日中は結んでいれば楽だからと自分に言い聞かせながら。

「私がすきだと言ったから伸ばしたままにしてくれていたんですよね。でももし飛紗ちゃんが短くしたいなら、そのほうが楽なら、そうしてください」

 長いままがいいなんて、当然言われたわけではない。飛紗がしたくてしていたのだ。眞一に少しでもすかれていたくて。子どもに髪を引っ張られて痛い思いをしても、それくらいはなんでもなかった。

「長くても短くても、飛紗ちゃんはかわいいです。したい長さにしてください。いまのままでも、もちろん」

「……じゃあ、美容院も、行きたい」

 うん、と眞一は頷いた。



 ほんとうに久しぶりに、しっかり化粧をした。手順がすぐには思い出せず驚いたくらいだ。顔が違う。普段の外出するにあたって見苦しくない程度の簡単な化粧と比べて、という意味でもあり、出産以前に比べて、という意味でもある。

 クローゼットを開けて、奥にねむっている服をあさる。いつものような服装をして部屋を出ると、小春に「飛紗、デートにその服ほんまに着ていく? めいっぱいおしゃれしといで」とやり直しを命じられたので、着替え直すことになったのだ。

 前方は育児に楽な服ばかりだ。もっぱらズボンばかりだし、胸には飾りのついていないもの、色は白くないもの。服飾関係に勤めている身としてひどい服装はしていないと信じたいが、服をたのしんで着る機会はぐっと減った。あんなに履いていたヒールもご無沙汰だ。

 そうか、デートなのか。

 ぼんやり思いながら、改めて服を選ぶ。普段は面倒くささや不便さからもってのほかになっているワンピースと、子どもたちに破られるのがこわくて穿けていないタイツ。眞一にもらって、だけどやはり子どもたちに引っ張られたりするのがこわくて外していたネックレスとブレスレット。

 最後に髪をまとめ、コクーンコートと鞄を掴んで出ると、きゃあ、と心と初が歓声をあげた。

「おかあさ、きれい」

「きれい」

 飛紗を中心にしてぐるぐると周り始め、照れつつも自然と笑みがこぼれる。学が二人を呼ぶと、素直に駆けていった。最近は何を言ってもいやがるのに。思わぬ来客でテンションが上がっているからだろうか。

「そうです。あなたたちのお母さんはいつもきれいなんですよ」

 しゃがんで二人に目線を合わせた眞一が大真面目に言うので、なお恥ずかしくなってうつむく。ほとんどの時間を「母親」として過ごしているせいか、まるで初心な反応になる。

「ほら、二人ともいまのうちにはよ行って。子どもの機嫌なんてすぐ変わるんやから」

 歩を抱きかかえている小春に追い払うがごとく言われる。何がどこにあるか説明しなくてよいのかと主張すれば、もう眞一に聞いたと返されて、抜かりなさに閉口した。そうだ、そういう男だった。

 とにかく急かされるので鞄に最低限の必需品を移し、少し迷って、ヒールの靴を履いた。

「お母さんたちにいってらっしゃいは? しなくていいの?」

 学に言われた心と初が、いってらっしゃい、と同時に言ってにこにこと手を振る。歩は何もわかっていないだろうが小春が手を振っているかのように動かしたので、飛紗も手を振り返す。いってきます、お願いしますと眞一と二人、口々に言い合ってドアを閉める。

 慌ただしい。室内とはまったく違う冷たい空気にコートを羽織ると、眞一に手を差し出された。

「行きましょうか、飛紗ちゃん」

 まだむっとした気持ちはありつつ、拒否するほど腹立たしくはない。手と目を交互に見て、ふうと溜息をついた。ずるい男なのだ。

 かすかな抵抗の証に無言のまま手をとると、眞一があまりにもうれしそうに笑ったので、びくりとして一瞬、見とれてしまった。引っ張られる形で歩いていく。手をつなぐというと、右に心、左に初といった具合で、眞一とはいつぶりなのか思い出せない。

「ふたりきりですね」

 白い息を吐きながら眞一が言う。

「最初は飛紗ちゃんを休ませたいってそれだけだったのに、いまはもう、私がただ飛紗ちゃんをひとりじめしたかっただけのような気がしてきました」

 ぎゅ、と手に力をこめられる。こういうことを、簡単に口にしてしまえるのだ。眞一は。

 飛紗は何も言えずに、ただ足を動かす。応えるには自分の気持ちがどこにあるか、はっきりとはしていなかった。

「心配ですか」

 何が、とは言わなかった。それでも飛紗はううん、と首を横に振る。信号が赤になって、眞一と並んで立ちどまる。

「お母さんおるし、学くんもおるし。一人やったら三人も見るんは大変やろうけど、二人やったら大丈夫やと思う」

 きっとそのためにわざわざ学を呼んだのだろう。親類中で平日の昼間手が空くといえば、専業主夫の学が筆頭だ。そして水曜日が休みである小春の予定と合わせて今日になったと想像するのはかたくない。

「でも?」

 言うつもりのなかった続きを見透かされて、眞一を一瞥する。出会ったときから変わらない笑みが浮かべられていた。隠しても無駄かと、そのおかげですんなり続きが口から出てくる。

「でも、お母さんとか、お父さんって、泣いたりせんかなって、ずっと帰ってこないような錯覚をしたりせんかなって、心配っていうか、不安、かも。しれん」

 歯切れ悪く言えば信号が青に変わり、また歩き出す。子どもたちを預けて出かけるのは初めてではない。それこそ小春や智枝子に預けて買い物をしたり、仕事の電話やメールをしたことはある。ただ、こんなに長い時間空けるのは初めてだ。実のところ子どもたちではなく、自分が子どもと離れるのが不安なだけなのかもしれなかった。

「絶対に帰ってくるって言ってあるので、大丈夫ですよ」

 あっけらかんと言われて、その自信にいらりとする。と同時に、眞一が言うのならきっとそうなのだろう、と確信めいた気持ちもわいてきて、嘆息するしかなかった。あべこべだ。

 黙っていると寒さに耐えかねて、眞一に半歩寄る。足元がすーすーとしていた。スカートとはこんなに風を通すものだっただろうか。

「一人でも大変な育児が、最初から子どもが二人で、私たちは親としては初心者で、やっと慣れてきたかなと思ったら歩が生まれて」

「…………」

「生まれたということは、妊娠したということです。慣れる前から飛紗ちゃんはまた身重になって、それはやっぱり、私にはきっと根本的なところはわからない。このあとの一生を捧げる程度では報いきれない偉業だと思う」

 がんばったね、ありがとう、無事でよかった。

 出産したとき、遠のく意識のなか眞一に言われたのを憶えている。それより子どもを見てと思ったことも。

「どこにいても、飛紗ちゃんはあの子たちの母親ですよ。だから、母親である自分に圧迫されてほしくないんです」

 母親である自分に、圧迫。

 頭のなかで反芻して、目線を落とす。動かしている足が、身長は大差ないのに眞一のほうが大きい。手だってそうだ。体だけではなく懐だって深いことを、飛紗はよく知っている。知っていて、忘れていた。

 真夜中に声をあげて泣いたことがある。歩がまだお腹にいたときだ。どうしてと聞かれても疲れていたとしか言いようがない。心と初の夜泣きが始まって数ヶ月、毎日いつまでも泣き続け、寝不足に加えて何かやり方が悪いのではないかと不安だった。つわりによる精神の不安定さも原因だろう。前振りはなく、突然何かがぷつんと切れて、慟哭した。不思議なことに心と初はそのときには目覚めて泣くようなことはなかった。眞一がどんな表情をしていたのかは思い出せない。おそらく目にしていない。ただ力強く抱きしめられて、気がつけば朝だった。

 同じことを繰り返さないように、眞一は言ってくれている。こうして外に連れ出してくれている、と察するのは、容易だった。

 考えてみれば、限界になるまで眞一が気がつかないということは、ありえなかったはずだ。飛紗が知っている眞一は誰よりも傲慢で、そして誰よりも他人の感情に敏感だ。泣きじゃくったあのころ、もしかしたら眞一も余裕がなかったのかもしれない。家事はほとんどして、仕事にも行って、夜泣きには必ず一緒に起きていたし、「なるべく授乳以外のことはしなくて済むようにするから」という言葉のとおり、多くをこなしてくれていた。

 一度家を離れて歩いてみると、最初に憤ったのが申し訳ないくらいに、気持ちが調ってきた。

「美容院の電話番号、わかります? 予約しておきます」

 ネイルの店が近づいてくると言われて、店舗カードを渡す。一時間後くらいに、とお願いして、飛紗は店の自動ドアをくぐった。

 お久しぶりです、という店員の言葉に曖昧に微笑んで、爪のケアを頼んだ。色は塗らないが、補強に透明なマニキュアを塗ってもらうことにする。この店は仕切りがあり、隣の人の顔が見えないのが気楽でよい。他愛のない会話を交わしていると、こんなに長い間、他人と話すのも久しぶりなのかもしれない、と思った。

 施術が終わってレジに向かえば、眞一が店内で待っていた。手をとられて「すごい。きれいになりましたね」と言われ、担当してくれた店員が「奥様の爪の形はきれいなので、やりやすかったです」などと答え、そんなことをしていると飛紗が何かを言う前にそのまま握られてしまった。

「眞一、まだ会計」

「もうしました」

 ありがとうございました、と軽く振り返って眞一が頭を下げ、飛紗も反射的に同じようにする。店員も頭を下げていたので表情まではわからなかったが、きっと今日は話題にされるに違いない。あとで払うから、と言えば、

「いりません。今日は飛紗ちゃんの了承を得ずに連れ出していますから」

 こういうときの眞一は絶対に譲らない。早々に観念して礼を言う。

 いま、子どもたちは何をしているだろうか。我儘を言って学や小春を困らせてはいないだろうか。歩は泣いてはいないだろうか。連絡してみようと鞄を開いて、スマートフォンを忘れてきたことを知る。準備の時間がなかったせいだ。鞄だって内ポケットが一つしかない小さなもので、最近使っていなかったから、ともやもやしてきた気持ちを、今日何度目かの溜息で流す。これはあると思ったものがなかったときのいらだちで、心配とは別の感情だ。一度連絡すればそのあともずっと気になったに違いないから、なくてよかったのかもしれない。小春は親としての先輩なのだし、学だって長く主夫をしているから手際がよい。何かあればきっと眞一に連絡が入るだろう。そして問題があったのなら、教えてくれるだろう。

「すきな長さや髪型にしてきてくださいね。時間は気にしなくていいから」

 美容院が近づくとそんなことを言われて、飛紗は控えめに頷いた。今日の眞一はよくしゃべる。機嫌が悪いわけではないと同じように話したいのに、うまく口が動かなかった。口だけではなく、顔全体が固まっている。

 終ったら教えて、と言われて、離れそうになった手に力をこめる。

「あ、あの、スマホ、忘れてきたみたいで」

「ああ、そうですよね。急がせてしまったから。ごめん、気がつけたらよかったですね」

 眞一のせいではない。持ってきたところで最近充電した記憶がないから電池がもたなかった可能性だってある。今日は眞一に謝らせてばかりだ。謝る必要なんてない、と言いたかったのに、

「あ、謝らんでよ」

 つよい口調が飛び出して、はっと口元を押える。

 気持ちと言動が一致しない。このままではどんどん眞一を困らせてしまう。いやな自分になっていく。指先が震えた。

 やっぱりもう帰ろうと踵を返しかけたが、眞一の力がつよくて手が離れない。振り払うこともできず、結果として身じろぎができなくなった。

「うん。じゃあ、終ったら駅で落ち合いましょう。改札前で待っています」

 そして飛紗が何かを言う前にぽんと背中を押され、店に足を踏み入れた。振り返ると眞一は笑顔でひらひらと手を振っている。飛紗の来店に店員が寄ってきてやりとりを交わし、コートと鞄を預けながらもう一度振り向いたときには、姿がなかった。

「今日はどうされますか? いつもと同じで、毛先を整えるだけにしておきますか?」

 毎回担当してくれている美容師に尋ねられる。目の前の鏡に映る自分は、疲れた顔をしていた。しかし顔色が明るくもあった。化粧の違いだ。そういえばかつてはたのしんで化粧をしていた。雰囲気が変わったり、技術が上がれば自由度が上がるのもおもしろかった。服に合わせてアイシャドーの色を変えてみたり、いろいろ試していた。

 全部自分のためにしていたことだが、やがて眞一に出会って、褒められるのがうれしかった。もっとかわいいと思われたい。自分がたのしむためにがんばることが、眞一に認められることとつながっていた。

 まとめていた髪を下ろして、そうですね、と曖昧に返す。小学生のころは髪が短かった。中学に入って伸ばし始めて、高校からは長い髪が当り前になった。大学生のころから肩甲骨が隠れるくらいで保って、いまはもう少し長い。

「あの」

「はい?」

 にこにことしている店員に、鏡越しに目線を合わせる。

「結べると、楽なんです。子どもがいて、自分の髪にまで手が回らなくて。でもずっと長かったから、あんまり短いと、不安な気持ちになりそうで」

 それにやっぱり、眞一が長い髪がすきなのなら、そのほうがいい。

 短いと洗うのも乾かすのも時間短縮で楽なのだが、あまり自分の「楽」ばかりに天秤を傾けて、眞一の妻である、という意識を疎かにするのはこわい。信頼も信用もしている。眞一はどこにも行かないとわかっている。わかっていることと、甘えることは別だ、と思う。自分のためにも。

「ああー、じゃあ、ミディアムはどうですか? 鎖骨くらいの長さなので結べるし、お手入れもいまより楽になると思いますよ。瀬戸さんの髪ほんままっすぐやから、はねたりもしないだろうし。首が隠れると、ロングに慣れてる人は違和感少ないと思います」

 プロが言っているので任せることにした。洗髪からしますねと促されて、目元にタオルを置かれる。子どもを起こしたり、ご飯を食べさせたり、相手をしたり、お風呂に入れたり、またご飯を食べさせたり、寝かしつけたり、その繰り返しの毎日であったから、人に髪を洗ってもらって、心地よさを感じた。

「瀬戸さんってお子さんいらっしゃいましたよね? いくつになったか伺っても大丈夫ですか?」

 ドライヤーで髪を乾かしながら、店員が言った。前はよく眞一に乾かしてもらっていたな、と思い出す。それどころではないと断るようになったのはいつからだっただろうか。

「上が二歳で、下が九ヶ月です」

「歳近いですね。お母さん大変や。お子さん、確か双子でしたよね。三人の子持ちには見えへんなあ。うちも今年で五歳になる姪がいるんですけど、見てるだけでも大変そうですもん。ほんま瀬戸さんすごいと思います」

 よく憶えているな。補完される情報に感心する。

「毎日いっぱいいっぱいですけど」

「いっぱいいっぱいにもなりますよ。毎日をこなすって、誰にでもできることやないですよ」

 飛紗はぱちぱちと瞬いて、鏡に映る店員を見つめる。飛紗を見てこそいなかったが、真剣な表情をしていた。ふと目が合うと、乾いたら次はブローしていきますね、と愛想よく言われて、小さく頷く。

 温風と暖房の効いた室内にだんだんと眠気を覚え、いつの間にかねむってしまったらしい。目覚めたときにはすべて終っていた。気恥ずかしさにうつむくと、「ねむれるときに寝ちゃってください」と言われ、ますます申し訳なさが増長した。

 改めて髪型を確認して、礼を言う。切り落とされた黒い髪がまるで生き物のように足元に広がっていた。非常に頭が軽い。髪に艶も出ているし、プロの仕事を実感する。

「悪いものは髪に溜まって、毛先のほうに落ちていくんだそうです。瀬戸さんの悪いもの、全部切っておきましたから」



 駅に向かうと、眞一の姿がすでにあった。相変わらず暑がりで、道行く人のほとんどがマフラーや手袋、保温性の高いダウンジャケットを羽織っているなか、Pコート一枚だ。それでも一応、眞一の上着のなかでは厚手のほうである。四〇が近いのに体型は会ったころとほとんど変わらない。

 飛紗の姿を認めた眞一が近づいてくる。片手を挙げてぎこちなく応える飛紗とは違い、眞一は柔らかく双眸を細めた。

「かわいい。似合ってます」

 開口一番そう言って、飛紗の手をとった。どれくらい外で待ってくれていたのか、飛紗のほうが温かった。反対の手では髪をなでてきて、無条件に安心する。

「もっと短くするのかと思ってました」

「あの、ありがとう。お金……」

 爪と同じく、会計しようとするとすでにいただいていますと制されてしまった。どういたしましてと眞一は何でもないことのように言い、お昼を食べに行こうと飛紗に切符を渡す。もはや黙って受け取って、眞一に続く。

 ホームに着くとちょうど到着のアナウンスが響き、他の乗客とともに乗りこんだ。二駅なので立っていればよいかと思ったのだが、眞一が引っ張るので座ることになり、うとうとしているとまたねむってしまった。

 電車も久しぶりだ。久しぶりのことがありすぎて、まるで世界に取り残されたようだった。すべてを心からたのしむには、飛紗はまじめがすぎた。不満はないのに、さびしさはあった。きちんとできているのか不安だった。原因は全部自分自身だ。

「飛紗ちゃん、着きましたよ」

 はっとして、慌てて立ちあがる。今度は自分から眞一の手を握った。

 ショッピングモールに向かう道中、会話はほとんどなかった。話したいことはたくさんあったが、喧騒に声が負けてしまう気がした。空いていた韓国料理屋に入り、それぞれランチの定食を注文する。刺激物も外食も、いつぶりかわからない。

「ネックレスとブレスレット、つけてくれてありがとう。うれしいです。やっぱりよく似合ってる」

 言われてみれば、スマートフォンは忘れてもアクセサリーは自然と身につけていた。仕舞うときに次の出番はいつになるやらと溜息をついたものだが、案外はやかったようだ。

「ねえ」

 呼びかけると、眞一はいつものゆったりとした微笑みで「ん?」と小首を傾げた。結婚したときから、何一つ変わっていないように見える。変わったとしたら年齢と、染めるのをやめて黒くなった髪くらいだ。

「なんで、うまくできるん。その……折り合いとか。父親としてとか、自分自身とか」

 そして、夫としての自分と。

 判然としない聞き方になったが、眞一には意図が伝わったようだ。母親として、わからないなりに一所懸命過ごしている。心と初が悪いことをすれば叱り、歩が泣けばあやし、出産してから三人のことばかり考えている。だけれど、眞一に対して何かできているかといえば否だ。妻としての自分は落第だと思うし、誰のためでもない自分自身としてもとてもではないがうまくやっているとは言えない。

「折り合いをつけようと思ってないから、ですかね」

 考えながら、腕を組んで眞一は言った。

「飛紗ちゃんはしづるさんと、どれくらい会ってないですか?」

 そういえば、会おう会おうと言いながら、ばたばたしていて実際にはラインで連絡を取り合うくらいだ。最近ではそれもない。最初のうち、歩がまだ生まれていなくて、心と初が歩いたりもできなかったころ、母親として先輩である友人にいろいろと聞いていたのに、忙しさを理由に疎かになっていた。

「一年経ったかな、くらい」

「でも仲がいいですよね。そう思ってるでしょう」

 もちろんだ。少し会わなかったくらいで疎遠になったとは思わない。飛紗は頷いて、コップについた結露を指でつなげる。指先が冷たい。

「同じことですよ。極端なことを言えば、何もしなくても飛紗ちゃんはあの子たちの母親だし、私の奥さんです。まあ、飛紗ちゃんより優先順位ははっきりしてるかな。たぶんそれくらいの差です」

「優先順位って?」

「言ったら怒るだろうから、言いません」

 きっぱりと言い渡されて、それ以上はつっこめなかった。踏み入る元気はなかった。誰かが秘密にしようとしたことを暴くのには体力がいるのだ。それに、飛紗だってまったく察していないわけではない。さらに言うならば、なんとなく勘づいていても、はっきり言葉にされた途端、怒りに変わることがあると知っている。

「でも私と飛紗ちゃんの差は、当り前だと思ってもいるんです」

「なに……。ああ、わたしのほうが年下やもんね。眞一のほうが精神的に達観しとるし」

 どうして今日はこんな言い方しかできないのか。嫌気が差して頭をがりがりとかく。せっかく美容院でセットしてもらったのだからきれいなままにしていたいのに、どうしても言動が感情についてこない。

 ちらと眞一を見れば、予想とは反してどこかうれしそうな顔をしていた。表情自体は先ほどから大きく変わっていないが、飛紗にはわかる。

「変化が大きいから」

 しかし眞一は何事もなかったかのように、飛紗に返答した。

「名字が変わったり、体にもう一つの命を宿したり、出産したり、目まぐるしいから。私は一度職場に復帰したけど、飛紗ちゃんは休職しっぱなしですし。語弊をおそれずに言えば女性は損なんです。反対に言えば、男は楽すぎる。文句も八つ当たりもいくらしても余りあるほどなのに、飛紗ちゃんは一度もしないで、それが何より大変だと思います。これから、これまでの分も含めて、いくらでもしてください」

 今朝からずっとしている飛紗の反省を見抜いている。今日だけではなくこれまでだって、文句も八つ当たりも、一度もしていないなんてありえない。嘘だ。飛紗のいらだちがわからないほど眞一は鈍くない。

 反論しようとした飛紗にそれよりはやく、朝も言ったけど、と眞一が笑う。

「子どもを三人も身籠って産んでくれて、飛紗ちゃんも子どもたちも健康で、偉業ですよ。ほんとうにすごいことです。ありがとう。飛紗ちゃんの特別が私でよかった。そのおかげで心にも初にも歩にも会えたし、飛紗ちゃんはいつでも私にとっての特別です」

 屈託のない笑みに対して何も言えず、何も反応できず、飛紗はただまじまじと眞一を見つめた。二人の雰囲気など当然気に留めていない店員がスンドゥブ定食を二つはきはきとした声とともに置いていった。眞一にテーブルに常備されているスプーンを渡されて受けとる。

 食べましょう。いただきます。眞一に言われて、飛紗もたどたどしく手を合わせた。食べ始めると眞一が黙ったので、飛紗も黙ってスプーンを口元に運ぶ。熱い。からい。あたたかい。

 赤いスープがかすかに波打つ。ぽたぽたと滴が落ちた。飛紗は自分をごまかすためにからい、と言って笑ってみたが、かすれてうまくいかなかった。向かいに座っていた眞一が隣に移動する気配がして、黙ったまま咀嚼する音だけが耳に届く。感じるぬくもりがありがたかった。



 眞一の隣に、ゆっくりと腰かける。買い物途中に休めるよう至るところに設置されているソファは、数が多いからか平日昼間のためか、案外利用している人は少なかった。

「このままちょっと休みましょうか」

「うん。……顔、おかしくない?」

 化粧室でさんざん確認してきたが問うと、眞一は頷きながら「かわいい」と言った。想像どおりの回答に頬が緩んだ。結婚する前みたいだな、と思う。変わったのはいちいち眞一に尋ねなくなった飛紗だけで、眞一は事あるごとに褒めてくれる。変わらない双眸に、嘘は一切混じっていない。

「泣いたらちょっと、すっきりした。ごめん今日、ひどい言い方ばっかりして」

「そうでしたか?」

「うん。ごめんね」

 肯定も否定もしない物言いがやさしさからくるものだときちんとわかる。感情がやっと言動に追いついた。眞一は薄く微笑んで、一度だけ飛紗の後頭部をなでた。

 おそるおそる眞一の肩に頭を載せる。体から力が抜けていくのが感じられた。吹き抜けの向こう側では、小さな男の子がベビーカーの赤ん坊におもちゃを振ってあやしているのが見えた。三歳差くらいだろうか。

「今日、ありがとう。連れ出してくれて。心たちから離れて落ちつくなんて、母親としていろいろたらんのかもしれん」

「別問題ですよ。それは」

 自己嫌悪に陥る前にあっさりと否定される。

「今日ずっと、子どもたちの心配ばかりしていたでしょう。母親として自覚がたりないひとはそんな風に考えもしませんよ。どんなにすきなことでも、いやになる瞬間は絶対にあります。息抜きのために離れて、その間誰かに頼ることは、必要なことでしょう。育児だけだめって道理はないはずです。子どもを放置したり育児放棄したわけじゃないんですから」

 そうだろうか。そうかもしれない。実際どうかは別にして、眞一に言われると心強かった。いまこうして子どもたちから離れているのは悪いことではないのだ。

「わたしももっと、大人にならななあ」

 ひとりごとのつもりで呟けば、眞一が首を傾げるのが伝わってきた。

「大人って?」

「眞一みたいに、変わらないで、変わりたい」

「そんな風に見えますか」

 はは、と明朗に笑われる。暑いのかコートは脱いで脇に置かれていた。

「そんな立派なものでもないですけどね。飛紗ちゃんには恰好つけちゃうからなあ」

 今度は飛紗が笑って、眞一の手をとる。今日、何度つないでは離し、またつないでいるだろう。いい歳して恥ずかしいかとも思ったが、誰も見てくるような人はいない。いまは甘えていたかった。久しぶりに深く呼吸している気がする。

「帰ったら、見直しましょうね。どこで無理しているのか。何がしんどいのか。何が削れるか。つい頭のなかの理想に沿って完璧にこなそうとしてしまうけれど、子どもってほんとうに無秩序ですよ」

 これは飛紗の話だ。眞一は完璧などを目指していない。あくまで二人の問題であると明言されて、飛紗はかすかに手に力をこめる。できすぎた夫なのだ。こういうときにはただ感謝のみだともう何度も眞一から教わっている。

「このあとどうしますか? ひとりになりたいなら、またあとで落ち合いましょう」

 ひとりに。甘美な響きではある。だが、

「ううん。眞一と一緒にいたい。目的なく歩いて、いっぱい話したい」

 昼間までの態度が嘘のように、するすると素直な言葉が口から流れた。さっそく立ちあがると、眞一は困ったように笑って腰をあげる。実際には困っていないこの表情が、いつも見ているはずなのになぜか懐かしい心地がした。

 来月は結婚記念日だ。去年はお腹も大きかったので簡単に済ませたが、今年は何か、眞一に贈りたい。

「お母さんと学くんにお土産買わなあかんね。心たちにも」

 買い物といえば生活必需品か食料品、あとは子どもたちに関係するものばかりだったので、店を見て回るだけでもわくわくする。浮足立っている自分に現金だなと呆れつつも、心は軽い。家を出てすぐに眞一が言ったように、ふたりきりなのだ。こんな贅沢な時間を午前中、ずっとくすぶらせていたのかと思うと、なんてもったいないことをしていたのか。

「そういえばさっき、お店でうれしそうな顔したん、なんやったん?」

「飛紗ちゃんが特別って話ですか?」

「それはもうわかったから」

 恥ずかしさに言葉尻がきつくなる。

「そこじゃなくて、なんやったっけ、それより前の、なんか」

 思い出そうと躍起になっていると、ああ、と小さな声が聞こえて、顔を向ける。

「単純なことで、おもしろくはないですよ」

 かまわない。いま聞きそびれるとあとからもやもやしてきそうだ。引く気のない飛紗に、眞一はつないでいる手とは反対の手で首をかいた。

「久しぶりに飛紗ちゃんに名前を呼ばれたなって、ただそれだけです」

 含羞を帯びた笑みを浮かべられて、胸のうちに電撃が走る。わざわざ名前を呼ぶ必要がなかったり、子どもたちに伝えるのに「お父さん」と言うばかりで、確かに呼ぶ機会はぐっと減っていた。

 そんな簡単なことで、あんな顔をしてくれるのか。かわいい。そうだ、眞一にはかわいいところもたくさんあったのだと、まるで忘れていた。どうして忘れていたのか。

「眞一、あの、お願いがあるんやけど」

「なんでも聞きましょう」

 鷹揚に頷かれて、思わず笑う。母親である前に妻であり、妻である前に眞一に懸想している。もうとっくに当り前のことになっていた。当り前になりすぎたせいで、気持ちのうえに胡坐をかいていたのかもしれない。

「帰ったら、抱きしめてほしい」

 照れる飛紗に、もちろん、と眞一は笑った。

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