初めて泊まった日の夜の話
規則正しい、静かな呼吸が耳元で聞こえる。毛布とは別のぬくもりが体を包んでいた。そうだ、泊まったのだった。と、状況を改めて頭のなかで理解して、ほっと安堵する。踏切に引っかかることなくさくさく歩けば片道二〇分程度、決して泊まる必要のない距離であるから、これまでは飛紗の両親に気遣ってか瀬戸は必ず飛紗を家まで送り届けていたのだが、瀬戸のなかで心変りがあったらしい。あるいは、異性と付き合うことに不慣れでどこか常にふわふわそわそわしていた飛紗の気持ちが落ち着いたと判断したのか。
来客用の布団がないから、一緒にベッドでいい?
夕方ごろにあっさりと言われて、うん、と頷くほかなかった。というより、飛紗はてっきり同衾するものだと思っていたので、確認されて実のところ戸惑った。あ、もしかして一緒に寝るというのは特別なことなのか。普通ではないのか。手の甲で口元を覆って羞恥をごまかしているとすぐさまばれて、瀬戸は困ったように笑った。いや、実際は微塵も困っていないだろうから、とにかくいつものように笑った。そして諭すように言った。
「私の言うことがすべての基準なわけではないですよ、飛紗ちゃん」
しかし一般常識というか、なんとなく世間で浸透していて、なんとなく大勢が認識している何かがあるのではないかと疑ってしまうのだ。その「何か」が具体的に何なのかはさっぱりわからないのだけれど。
それでも以前に比べれば、飛紗も「恋人」の距離がわかってきた、と思っている。わかることと慣れることはまた別の話で、七つ上のおそらくは経験豊富なこの男に翻弄されているのは変わりないにしても、瀬戸の隣にいる心地よさは体に染みこむように浸透している。
瀬戸の寝息につられてまた眠気が襲ってきたものの、腹の下が冷えるのを感じた。そろそろとベッドから降りて、慎重に足を進める。しかしその甲斐むなしく、がっという音がして、同時にうずくまる。テーブルにぶつけたらしい。痛みに耐えながら気を取り直し、リビングとダイニングの間にある仕切りを手で探る。暗闇なので問題ないが、明るければ空を切る腕はさぞかし不気味で滑稽なことだろうと思う。
指先がやっと仕切りに触れて、なるべく音を立てないようにスライドさせていく。通り抜けて、今度はダイニングと廊下の境にあるドアを探る。たったこれだけの距離なのに、目的地がひどく遠く感じた。
お手洗いから出て、今度は戻らなければならない。突然の明るい光に目がちかちかしていたが、廊下のドアを超えると、先ほどとは違ってぼんやりと輪郭が浮きあがっている。これで難なく、と思ったが、距離感は掴めないままだった。何度も来ているのに、暗闇だというだけでまるで初めて来た場所のようにそっけない。
一時は凶器と化したテーブルを大げさなくらい気をつけて避ける。ベッドにたどり着くと精神的にどっと疲れた。足もずきずきと痛む。青痣ができていそうだ。
毛布をめくると、瀬戸の手が心なしか何かを探すように布団の上をすべっていた。一瞬悩んだが、手をどかせないとなかに入れない。加えてはっきりとしない視界が、平素の苦労などまるで存在しないようにあっけなく飛紗の気持ちを開かせた。
手に手を重ねると、ふっと力が抜けるのが伝わってきた。クーラーの風に体が冷えきる前に、そのまま潜りこむ。少し出ていただけなのに、瀬戸が随分温かく感じた。
「飛紗ちゃん?」
普段よりも力のない声に、どきりとしながらもはい、と返事をする。
瀬戸の双眸がうっすら開かれているのがわかる。顔がどれだけ近くても、表情が判然としない。反面、恥ずかしさがなかった。瀬戸はゆったりと瞬くと、飛紗の頬をなぜた。骨がごつごつとしていて、今さら改めて男の人なんだな、と思う。
「いるなら、いいんです。いてくれたなら」
それだけ言うと、すっと瞼が閉じていった。抱き寄せられて、自然と抱きしめ返す。きっと明日には覚えていないのだろうとわかりながら、はい、ともう一度返事をした。
「ずっと、瀬戸の傍にいたい」
あんなに焦がれていた手がいま、自分のためにある。
安心とともに眠気が襲ってきて、抗えず飛紗も目を閉じた。