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SS置き場  作者: 葉生
『なんでもない日々』SS
14/24

学くんの話

 ひとりっこだった。父は絵に描いたような亭主関白で、母は従順な妻だった。二人が歳過ぎたころ授かった一粒種であるところの俺は、おそらくは厳しく育てられた。父の言うことは絶対であったし、母は庇護の対象でありつつも家庭で下位に位置づけられていた。よいとか悪いとかの話ではない。実際、父は母が文句を言いたくなるほどの――言い換えれば、家計等で苦労するような——稼ぎではなかった。寡黙で亭主関白な父は、寡黙で亭主関白たるほどの稼ぎ、その役割を果たしていたし、その代わり母は家庭のことを一切任されていた。父は絶対に台所に足を踏み入れず、出された料理に文句を言わず、深酒はせず、用意された服はおとなしく着ていた。母は必ず主菜と副菜二品をテーブルに並べ、父のシャツには毎日のようにアイロンをかけて、仕事のことはあれこれ尋ねたりしなかった。そういう家庭で育ったのだから、そういう環境が俺にとっての普通だった。

 とにかく間違ったことはするなと育てられた。暴力、不勉強、規則違反、そして同性にしか心奪われないのは、父にとって「間違ったこと」だった。あれほど俺にしないよう言い含めていた暴力を働いて、俺は腹を立てたけれど殴り返すことはできなくて、そのあとはお互い言いたいことがありすぎたせいか口論にすらならなかった。

 母は泣いていた。子どもを授かるのはもう年齢的に無理だろうと思い始めたころに俺を妊娠して、どれほどうれしかったかという話をいやになるくらい何度も聞かされていたから、後悔したとすればその瞬間だけだ。どうして俺はまっとうになれなかったんだろう、と。同性をすきになるというのは罪ではないが絶対に遺伝子を残せないということだ。母親になれることを一時は諦めかけた母に対して、孫の顔を見せてやりたかった。無論異性がすきでも結婚できるとは限らないし、子どもが生まれるかどうかは神のみぞ知る範疇だけれど、はなから可能性がないのとでは話も気持ちも違う。

 それなのに、次の日起きればきちんと俺の分の朝食が用意されていた。ごめん、と思わず言いそうになった。

 とにかく大学にだけは行けと厳命されて、高校卒業と同時に家を出て、それが父母と会った最後の日だった。連絡もしなかった。おとなしく従ったのは大卒の肩書がほしかったことと、いま振り返ってみると引け目のせいだ。結局すぐに一人で生きていけるほど自立はできなかったのだ。

 あのころ行くところがなく転がりこんだ従姉にはかなりの迷惑をかけたし、頭が上がらない。実家を出た理由をごまかしきれなくなって同性愛者であることや、それがばれて親と一触即発であることを告げると、納得したとばかり頷いて笑った。

 困惑してしまって、「気持ち悪くとか、ないわけ」とつい聞けば、

「そういう葛藤はもう学自身がさんざんしたんでしょ?」

 とあっさり返されたことは、長く心の支えになっている。それなのに、大学の卒業と就職を機にもうこれ以上甘えられないと勝手に部屋を出て、それと同時に連絡を絶った。

 いろいろな仕事をやった。どうも会社員というのは向いていないらしい、と気づいて、まあそんなことを感じる人は星の数ほどいるのだろうけれど、俺は感じるだけではなく耐えきることもできなかった。完全なるその日暮らし。いわゆる器用貧乏で最初はなんでもうまくできるのに、そこから伸びない。長続きしたのはバーテンダーくらいで、酒が苦手なのにどうしてそんな職につこうと思ったのかさっぱり思い出せないが、とにかくそのときの客にスポーツジムのタダ券をもらったのが人生の分岐点だった。運動は苦手でいつもなら誰か別の人にあげていただろうに、たまたま気が向いて、行ってみることにしたのだ。

 晟一さんは端的に言って好みだった。勝手がわからずもたついていた俺に話しかけてきて、あれよあれよという間に懐に入られてしまった。いや、逆だ。俺が懐に招き入れられた。

 一緒に暮らそうと言われたときには度肝を抜かれた。離婚していること、子どもが二人いること、そのうちの一人を引き取っていることはすでに聞いていたから、うれしさよりも困惑が勝って断った。高校生なんて多感な時期だ。父親が男と恋人関係にあるだなんて、処理しきれるはずがない。成人していても受け入れにくいだろうに。ごく当り前のように同居の誘いをかけてくる晟一さんが理解できなかった。

 しかし普通に考えたら充分すぎるその理由は、晟一さんを納得させるにはよわかったらしい。半ば騙される形で眞一と顔を合わせることになった。

 眞一は当時から子どもらしからぬ子どもだった。晟一さんが待ち合わせた喫茶店に眞一を連れてやってきたことに気づき、俺は慌てて逃げようとした。なんて情けない。騒ぐ俺となだめる晟一さんを無視して眞一は珈琲を二つ、と店員ににこやかに言い放った。ぎゃあぎゃあと文句を言っていた俺より確実に音量は小さかったのに、その声はよく通った。過不足なく。一瞬にして空気が変わり、叱られたわけではないのに恥ずかしくなって、俺はおとなしく席についた。

「眞一、こいつがいつも話している菊地学だ。学、息子の眞一」

 いつも話している? 冷や汗がとまらなかった。たったいま運ばれてきた水をぶっかけられても俺には反論の権利がない気がした。

「はじめまして、瀬戸眞一です。父がいつもお世話になっています」

 あまりに普通、あまりに当り前に眞一が言うので、もしかして恋人ということは伝えてないのではないか。そんな考えが脳裏に浮かんで、少しだけ安堵した。それなら問題ない。菊地学です、と頭を下げて、一呼吸おいた。

 改めて見た眞一は隙がなく、さぞかしもてるだろうと察した。姿勢がよく、愛想がよくてかついやらしくなく、整った目鼻立ち、センスのよい服装。晟一さんにはあまり似ていないものの、面影はある。

 珈琲が運ばれてくると晟一さんは砂糖とミルクを入れて、眞一は何も入れずにそのまま飲んだ。所作の一つひとつに気品のようなものがあって目を引かれていると、視線がかち合った。ごまかそうとした俺に対して、眞一は双眸を細めてゆったりと笑った。とても高校生になったばかりとは思えない。とんでもなかった。

「いつから来る予定なんですか?」

「は?」

 俺の反応を見てすべてを把握したらしい眞一が、晟一に「お父さん」と一言鋭く言った。

「すみません。結婚のつもりで一緒に暮らすと聞いていたので、てっきりもう了承したものだと思って、失礼なことを言いました」

 途端、背筋がぞっとした。

 確かに言われた。法のうえでの結婚はできないけれど、そのつもりでいたい。一緒に暮らそう、と、ほんとうは飛びあがるほどうれしかった。

 だけどできるはずもない。眞一が言ったように晟一さんは人の親であり、離婚したとはいえ妻がいた身で、晟一さん自身の親だって生きている。「普通」ではない人間が生きていくにはここは息苦しい。本来正しく向こう側にいるひとを巻きこみたくない。

「いや」

 自衛だけは得意だ。それと同じくらい、自虐も得意だ。

「いやいや、いや、ない。ないよ。まさか本気だと思ってなかったっていうか、だって君もいやでしょ? 父親の相手がまさかこんな、……こんなさ、男、なんて」

 二人がこのときどんな表情をしていたのか、まったく思い出せない。ただ、言いながら吐き気がしていたのはよく憶えている。いつも捨て鉢になって苦しくなったら逃げだして、その繰り返しだったのに、どうしてだか「だから別れよう」とは口から出てこなかった。

 立ち去ることもできずにいると、眞一が困ったように笑った。実際に困っているわけではなく、単なる癖だと知ったのはもっとあとのことだ。

「いやとか、特にそういう感情はないです」

「いいよ気とか遣ってくれなくて。それともゲイを見るのは初めてでおもしろい?」

 晟一さんは終始黙っていた。俺の面倒くさいところを熟知しているから、口を挟むともっと頑なになると察していたのだろう。

「父親の相手という意味では興味深いです」

 俺ならどうだろうか。もし父母が離婚したとして、父親が「伴侶として今度から一緒に暮らそうと思う」と男を連れてきたら。それはやはり困惑する。歓迎に至るまでには時間がかかるだろう。まして高校生になったばかり、ついこの間まで中学生という年齢であれば、感情の整理がつかずに家出くらいするかもしれない。母はなんだったのだ、と。

 次の悪態をつこうと口を開いた俺に、眞一はこちらが怯むほど艶美に微笑んだ。あの笑みを、おそらく一生忘れることができない。

「伴侶として母を愛するより、あなたを愛するほうが理解できるということです」



 暮らし始めてみると、戸惑うくらい快適だった。つまり最初から、晟一さんも眞一も、俺が御せる相手ではなかったのだ。晟一さんはともかくとして、高校生に喰われるだなんて実に情けない話ではあるが、事実眞一にはかなり助けられた。こちらが求めるだけの距離を保ちつつ、歩み寄りたいと思えたときにはその分だけ近づいてくれる。晟一さんと同じように、傍にいると息がしやすかった。

 それでも警戒心がすぐに解けるわけではない。というより、むしろ俺が無理をしないように調節してくれていた気がする。警戒をするのは自衛だ。これまでに得てきた処世術だ。「諸手を挙げて他人を懐に歓迎する」もしくは「諸手を挙げて他人の懐に飛びこむ」行為そのものが、俺にとっては苦痛であり負担であり恐怖だ。一度やり方そのものを肯定して、相手のペースに合わせるなんて、合わせてもらっているこちらはありがたいが合わせるほうは相当のエネルギーを消費するだろう。もっとも、振り返って考えてみればという話で、当時は気がつかなかった。

 その点、晟一さんは本来苦痛であり負担であり恐怖であるはずの「諸手を挙げて懐に飛びこむ」行為を気がつけばさせられていた、そうしたほうが自然だったので、眞一とはタイプの違う人たらしだ。そんな話を眞一にすると、

「お父さんは確かに人たらしの気があるけど、それは、単に学くんがお父さんに一目惚れしたというだけの話でしょう」

 と言われて、穴があれば入りたかった。

 やがてバーテンダーの仕事も辞めた俺は、いよいよ不安だった。晟一さんが奥さんに乞われて建てた一軒家に暮らし、家事一切を担うようになり、晟一さんの金銭も扱うようになり、眞一がいない日には家でセックスだってした。いる日には、どうしてもできなかった。今さら意味のないことだとわかっていても、眞一に対する唯一の義理立てだった。休日には晟一さんとデートをしたり、近所には仲のよい親戚の一人だと思われ笑顔で挨拶を交わし、着実に俺の持ち物が瀬戸の表札を掲げた家のなかに増えていった。眞一だけではなく、聰一もこちらが拍子抜けするくらいあっさりと俺の存在を受け入れてくれた。あまりにも順調、あまりにも平凡、あまりにも幸福だった。味わったことがなかった。何のストレスもない、涙が出るほどの普通の生活が、俺には耐えられなかった。

 だからあの人に気持ち悪い、と言われたとき、正直なところほっとしていた。ああそう、そうだ、俺は気持ちが悪いのだった。それが当り前で、いまが奇跡で、奇跡が長く続くものではないことなど自明の理だ。

 前振りなどなかった。天気がよかったから洗濯物を干していて、眞一は確か二階の自室にいた。晟一さんはリビングで新聞を読んでいた。宅配を午前中指定で頼んでいたからそれが届いたのだと思って、インターホンすらとらず返事をしながらドアを開けた。

 立っていたのは女性だった。途端、ぶわっと全身から汗がふきだした。硬直して動けなくなった。ああこの人が梢さんだ、と確信した。勘もあったが、それ以上に眞一によく似ていた。当り前だが聰一にも面影がある。さらりと音がしそうなくらいまっすぐな、艶のある黒髪。大ぶりのピアス。真赤な口紅。

「あなた、誰?」

 返事すらできずに突っ立っていると、

「誰よあなた?」

 と梢は糾弾してきた。どんと俺を押しのけて、靴を放り投げるとつかつかと突き進んでいった。

「どういうつもりなの? 眞一がいまどういう時期かわかってるの? 親の言動が子どもにどれくらい影響を与えるか考えたことないの? 眞一が同じ病気になったらあなたのせいよ。すべてあなたの責任よ。ああ可哀想、眞一が可哀想、可哀想だわ。あなたと一時でも一緒だっただなんて、ぞっとする」

 茫然としていた俺は叫び声に慌てて梢のもとへと急いだ。眞一も晟一さんも悪くない。二人ともよくできたひとで、俺とはまったく違っていて、そう、すべて俺が悪いのだから。

「あの」

 梢の肩をぐっと押え、華奢さに驚いてすぐに手を放した。まごうことなく女だった。小さくて、細くて、柔らかくて、ぞっとした。俺とは違ういきもの。自分が見捨てた母の姿を思い出し、この人と肌を重ねる晟一さんを想像し、吐き気がした。けれどそれはたった一瞬のことだった。

「触らないで気持ち悪い」

 テーブルに置いていた冷水筒を投げられた。勢いよくぶつかった衝撃で冷水筒から蓋が外れ、水をかぶって鳥肌が立った。そしてそれ以上に肩を掴んだ手が嫌悪感で震えた。感触が離れない。ぬくもりがこびりついたようで気味が悪い。引きはがそうと必死に手の平をかきむしった。

「異常よ」

 ああ、と思った。

 ああ、俺は異常なのだった。

 生き物が増えるのは雌雄が揃って生殖行為を行うからで、俺だって同じように男である父と女である母の間に生まれていて、この人より先に晟一さんと知り合っていたとしたら眞一や聰一は存在しえない。男と女、父親と母親、晟一さんと梢さんが揃って初めて成立する話なのだ。

 それを、触れた手が気持ちが悪い、だなんて。

 俺こそが気持ち悪いのに。異常なのは俺のほうなのに。

「学」

 はっと現実に戻ると、晟一さんの顔が目の前にあった。いつの間にかしゃがみこんでいた。俺が混乱していると体を引きずるようにして洗面所に連れていかれ、気づけばシャツを脱がされて、タオルでわしわしと顔を拭かれた。

「阻止できなくて悪かった。ぶつかったところ大丈夫か? 水だったのが幸い……」

「あ、あの人は」

「眞一が外に連れ出した。もう俺とまともな会話ができる奴じゃない。というより、する気がないからな」

 すまん、と晟一さんはへにゃりと笑った。こんな顔をさせているのは俺なのだと思うと、

「お、俺、もう出てくよ。晟一さんと眞一にはすごい、もう一生見られないくらいの夢見させてもらったし、もう充分だよ」

 と、前から考えていたみたいに口からすらすら言葉がすべり落ちた。こんな風にやさしくされる価値のある存在じゃない。居座りすぎたくらいだ。根なし草で野垂れ死ねばちょうどおつりがくる。いや、むしろそれでも手に余るくらい幸福の貯金がありすぎる。

 晟一さんはやさしいから、俺が別れると言えば別れてくれる。いつか終わるなら、自分で引導を渡したほうが幾分傷も浅く済む。

「だめ。夢になんかされたら困る」

 ぐっと引き寄せられて、抵抗したが体格の差からしても逃げようがなかった。冷えた体が晟一さんの熱に触れてぬくもっていく。

「学。お前は異常なんかじゃない。俺も異常じゃないし、勘違いなんかじゃない。逃げるのはいいが、逃げ先は俺にしてくれ」

 さらに腕に力がこめられて、息が苦しくなる。

「気持ち悪くなんかない。お願いだから、傍にいてくれ」

 もう抵抗の余地はなかった。視界がにじんで、小さな子どもみたいに嗚咽を漏らした。

 認められたかった。期待に応えたかった。両親に孫の顔を見せたかったし、無理なら無理で騙し続けたかったし、でもほんとうは、それでもいいって言われたかった。そのままでいいと言われたかった。

 世界中が祝福してくれるような錯覚を一度でいいからしたかった。



 梢が乗りこんできたのは、俺と晟一さんがホテル街に行くのを目撃したから、という身から出た錆で、何よりその報告を眞一と聰一から聞くのがいちばん恥ずかしかった。平然としている二人はさすが兄弟と言うべきか、平素と変わらなさすぎてじゃっかん引くくらいだったが、胸の内は本人にしかわからない。揶揄さえしてくる二人に感謝した。

「初めて会ったときに言ったこと、理解してくれました?」

 そう眞一に言われたとき、さすがに俺は頷くことができなかったのだけれど、納得はしていた。俺がどうということではなく、眞一はとにかく梢とそりが合わないようだったから。

「幸福で死ぬ人間はいませんよ」

 人生初の煙草をふかしながら、眞一は言った。吸い方を教えてくれと言われたので説明してやれば、あっさり何年も吸っていたかのごとくコツを掴んだ。いや、未成年なのにすでに何年も吸っていたらどうかと思うのだが。咳きこむ眞一が見られると思っていたのに非常に残念だった。

「なにそれ」

「学くんは自虐が趣味なのかと思って」

 ふ、と煙を吐いて笑うので、忸怩たる思いで俯いた。どこで見透かされたのだろう。もしかすると最初からかもしれない。

 家からも近い、というふざけた理由で誰もが羨む大学にあっさり合格した眞一とは、日中仕事に出ている晟一さんより話す機会が多かった。いくら内縁状態とは言われても、年齢の関係もあって息子とはとても思えなかったが、少なからずこのころにはもう家族と言っても違和感はなかった。

「……わかった。彼女と別れたんだろ」

「うるさい」

 羞恥をごまかすために言えば図星だったようで、一本とったと俺は笑った。高校を卒業して大学が始まるのを待つだけの暇な日々を過ごしているのに、一向にデートに出かけないからある程度予想のできたことではあった。

「煙草を教えてくれなんておかしいと思った」

 めずらしくむっとした様子で眞一は灰を落とした。以前あっさりした様子で別れた理由を話していたことがあったが、あのときとは違って一悶着あったのかもしれない。そこそこ長いこと付き合っていたはずだ。

 これからどんな相手を見つけていくのだろう。眞一は誰が相手でも大事にできるだろうけれど、その代わり特別扱いというものをしないから、相手が大事にされていると実感を得るのは難しいかもしれない。人生設計のなかに結婚を組みこんでいるとも思えない。もちろん俺が知っているかぎりの話であって、眞一はまったく違うことを考えている可能性は高いのだけれど。

「眞一はさあ」

 目線を落とすと、日が土に反射して眩しかった。

「最初に俺の存在を知ったとき、どう思ったわけ」

 晟一さんがどういう伝え方をしたのか、どのタイミングで伝えたのかは知らないが、知ってから会うまでの期間はおそらく長くはなかっただろう。

 聞いておきながら手がかすかに震えた。気づかれないように煙草を口に含む。

「なんとも思わなかった」

 あっさり言われて、はあ? と思わず顔を上げる。

「再婚はお父さんの自由だし、家もお父さんのものだから誰を一緒に住まわそうとお父さんの自由だし、私が口を出すことではないから。しいて言うなら、お父さんにこれから一緒にいたいと思える相手ができてよかった、くらい」

「いや、そうじゃなくて」

「学くん、私が大学で何を学ぶか知ってます?」

 それくらいはわかっている。歴史学でしょ、と答えると、眞一はうんと頷いた。

「歴史上、同性愛については紀元前から記録があります。それをいちいち捕まえて感情を反映していたらキリがないですよ。だいたい他人の性的嗜好とかどうでもよくないですか? 別に私に同性愛者になることを強要してくるわけではあるまいし」

 取り繕っているのではなく、心底そう思っている様子だった。いまは平気でも耳にした当初は気持ちの整理が必要だったのではないかと覚悟をして聞いたのに、予想とは正反対だ。いや、ほんとうは眞一ならそう言ってくれるのではないかと期待していたのだろうか。そうかもしれない。そんな気がしていた。

 傷つくつもりで発した自分の言葉を否定してもらいたいなんて、迷惑がすぎる我儘だ。

「私には、学くんがほしがる言葉はあげられませんよ」

 いつか見た艶美な微笑みをたたえて、眞一は言った。

 どうやら俺は瀬戸家にいつまで経っても敵わないらしい。



    *



「学くん、なんか食べたい」

 心が背中にへばりついて主張してくる。生返事をしながら老眼鏡を外して、読んでいた本を閉じた。老眼鏡。あのころはまさかそんな歳になるまでここで晟一さんと暮らしているなんて思ってもみなかった。もちろん眞一が結婚するとも、子だくさんになるとも。

「いま食べて、ちゃんと夕飯食べられるわけ」

「大丈夫。まだ二時やもん、ぜんぜんへいき」

 何かあっただろうかと台所に向かう。いまどきの小学生が何を好むのかさっぱりわからない。三年生といえば晟一さんが離婚したときの眞一の歳だ。テレビくらいでしか聞かない関西弁がこんなに身近になることも考えなかったので、関西で暮らしていると小さいころから関西弁なんだなあ、などと当り前のことにびっくりする。

「一人で退屈なんでしょ。心もついていけばよかったのに」

 夏休みを利用して帰省してきている眞一一家は晟一さんとともに複合デパートに買い物に行っている。合計で六人なので、半分が子どもとはいえ大移動だ。ほんとうは飛紗ちゃんを留守番させて休ませる予定が、いちばん下の龍一がぐずったので結局一緒に行くことになった。連れて行くつもりだった心は残ると言い出し、まったく幼さとは手に負えない。一年のうち数日しか経験しない俺がぐったりするのだから、眞一と飛紗ちゃんは毎日が戦争だろう。感服する。

「ええの。今日は初がおねえちゃんの日やから」

「そんなのあるの? じゃ、明日は心がおねえちゃん?」

「ちがーう。明日は歩」

 どういう意味かわからない。心と初は双子だ。一応戸籍上は心が姉にはなっているが同い年だから、二人のなかで取り決めでもしているのかと思えば、歩は二人より二つ下の妹である。龍一の姉ではあるが心と初の姉にはなりえない。

「三人で、順番におねえちゃんを交代しとんの。おねえちゃんの日はみんなのことまとめたり、おやつ選ぶのゆずったり、大変なん」

「へえ。三人で決めたの?」

「ううん。お父さんがそうしましょうって」

 つまりまとめ役というわけか。責任感を芽生えさせたり、自分以外のことを考える思考をつくったり、なるほど眞一のやりそうなことではある。俺はひとりっこだったから上も下もなかったけれど、二人姉妹の姉である従姉はよく「おねえちゃんだからね」と言っていた。

 役割を与えると子どもは張りきる、とどこかで聞いたことがある。心と初がそれこそ言葉での意思疎通がほとんどできなかったころ、とにかく二人で一人かのような言動をするので飛紗ちゃんが不安がっていたし、その対策の一つだろう。平等に順番が回ってくるのなら、我慢も覚えやすそうだ。

「でもそれだと、おねえちゃんの日がいやにならない?」

 子育てって大変だな、と完全に他人事で冷蔵庫を開ける。子育てどころか一足飛びに「おじいちゃん」になってしまった俺には忖度しづらいけれど、聰一のところもそういえば下の太一が生まれたとき心寧が赤ちゃん返りに近い状態になって大変だとか言っていた。その心寧はもう高校生だ。聰一側からも心寧側からも主張を聞く身としてはいまもまだ別の大変さがあるのだと想像するくらいはできる。比べてみればやはりどう思い返してみても、眞一は手がかからなさすぎる子どもだったのだと、このごろになってやっと理解した。

「おねえちゃんの日はね、お父さんとお母さんをひとりじめできる時間があるん。あと、めっちゃがんばると、ちょーほめてくれる。ちょーよ」

「ちょーか」

 反芻しているのか、むふんと鼻息荒くどこか誇らしげに心は胸を張った。

「こっそり、寝る前にホットミルクつくってもらえたりするん。ないしょやで」

 内緒も何も、おそらく全員に似たようなことをしているのだと思うが、秘密を共有するときの作法として俺は内緒ね、とうやうやしく頷く。

「じゃ、その日は家のお手伝いとかもするんだ」

「え? 学くん何言うとるん? お手伝いは毎日するんが当り前やん。お父さんもお母さんもわたしたちのためにたくさん働いてくれとるんやもん」

「あ、はい。すみません」

 至極まっとうな説教だったので思わず敬語になる。しっかりしすぎていて、むしろ学校で浮いていないか心配だ。眞一の子だからありえないだろうけれど、眞一自身ではないのだし。

「あーごめん、おやつになりそうなの何もないや」

「えー?」

 心が今日いちばんの大声を出して、不満をあらわにする。

「なんでよ、わたしたちが来るってわかってたんやから前から準備しといてよお」

 それをお前たちがここ一週間で全部喰らいつくしたんだよ。

 とはさすがに言えず、心の背に合わせてしゃがみこむ。目線を合わせると心はまだ言いたりなさそうに口を開いたが、結局何も言わずぎゅっと自分の服の裾を握りしめた。泣かれるとどう対処したらよいかわからない。涙を流さないように気をつけている心に何を言ったものかと逡巡していると、

「……ごめんなさい。いまの、わがまま」

 謝られて、知らず頭をなでた。立派に育てすぎではないか。初はもっと鈍いというか、のらくらとしている感じだが、心は溜めこむタイプなのかもしれない。おねえちゃんの日なんかなくても、心はやはり長女であり、「お姉ちゃん」なのだ。

「えらいじゃん。自分が悪いと思ったときに謝れるのはすごいことだよ」

 時計に目をやる。まだしばらくは帰ってこないだろう。

「心、学くんとの秘密、守れる?」

 首を傾げる心に、立ちあがってわざとらしく腕を組む。

「守れないならなんでもなーい」

「あっあっ、まも、守れる。学くんとのひみつ、守れる!」

 言いながら、ばっと勢いよく挙手をした。ちらりと盗み見ると、真剣な瞳でこちらを見つめていた。もう涙はひっこんでいることを確認して、内心ほっとする。

「じゃあちょっと手伝ってもらおうかな。手、洗って」

 このまま流しで洗えばよいのに、慌てて洗面所に向かう心を見送り、棚の奥から箱を引っ張り出す。最近は使っていないのでけっこうな量が残っているはずだ。覗いてみると、案の定だった。賞味期限も問題ない。

 戻ってきた心に、これをつくります、と箱を見せる。

「ホットケーキ!」

 声を弾ませて、心が手をたたいた。

 ほんとうはオーブンでつくるお菓子のほうが安全なのだろうけれど、スコーンをつくるほどのバターはないし、クッキーは型抜きがないし、簡易さを考えればホットケーキあたりが手伝わせる側としても楽だ。

 分量を量らせて、混ぜさせる。ホットプレートがないのでフライパンで焼くしかない。もう火が使えると心は主張してきたものの、万が一があるとこわいので生地を一緒にひっくり返すくらいに留める。そこらへんの責任は申し訳ないが親に負ってもらうことにする。

 少人数用のホットプレートはたくさん出ているのだから、一つ買うべきだろうか。ガスが使えなくなったときに助かるし。こうやってまた何か心たちとつくる機会があるかもしれない。

(うーん、晟一さんに相談)

 とりあえずいまは考えることをやめて、心には皿を出してもらう。夜は揃って外食だから、一枚ずつで充分だ。残った分は明日の朝食べればよい。

「学くん、なにそれ?」

「メープルシロップもどき」

 ホットケーキミックスの附属品だ。心の分にも半分かけてやり、合掌して「いただきます」と声を合わせる。

 久しぶりに食べるホットケーキはとてもおいしかった。泣きそうな顔をしていたのが嘘のように心もにこにこと頬張っていて、自然と口元が綻ぶ。もう一口を運ぶためにナイフを入れると、ふと、母の姿が脳裏をかすめた。学校のない日曜日、昼食にホットケーキをつくってくれたことがあった。テーブルにホットプレートを置いて。めったにあることではなかったので、心待ちにしていた。なぜ忘れていたのだろう。母が笑顔で、父も機嫌がよくて、そんな日が確かに俺にもあった。

「おいしい。学くん、ありがとう」

 今夜の夕食には、父も母も来る。

「みんなには、秘密だよ」

 決して望んだ形ではなかっただろうけれど、少しは親に報いることができただろうか。笑ってしまうくらい遅すぎる親孝行だ。もしできているとしたら、それはやはり晟一さんのおかげであり眞一のおかげであり、瀬戸家を中心としたひとたちのおかげだ。

「心。秘密っていうのは、証拠隠滅までがお仕事です」

「うん。お皿拭いてく」

 フォークの一本まできちんと片づけて、心と二人、ほくそ笑む。

 この子が生まれたとき、心と書いてもと、と読ませるのは難しくないか、と眞一に言ったら、「前々からよく使われている名前読みです。漢和辞典に載っていることも多いから大丈夫でしょう」と返されたのを思い出した。最近は過去を懐かしむばかりだ。ちょっとしたきっかけですぐ記憶が呼び起こされる。眞一は続けて、何でもないことのように言ったのだ。

「心と初は、学くんに倣って漢字一文字にすることに決めたんです」

 あのときの感動は、いつまで経っても言葉にできない。眞一にとって大したことではなく、もしただの思いつきだったとしても、何度でも俺は幸福に包まれる。

 穏やかな日常は当り前の日常になった。みんなの帰りを待つことも、きっとこの家で最期を迎えるのだろうことも、もう俺には自然なことだった。

 玄関のほうで音が聞こえて、晟一さんや眞一たちを出迎えるため立ちあがった。

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