あいの話
ドアを開けると、暗闇が広がっていた。日々生活をしている家なのに首の後ろにほんのわずかな恐怖が走るのは、火を扱えなかったころの遺伝子が残っている証拠だろうか。廊下から差し込んでくる光によって自分の影が落ちる。ただいま、と無人であることを承知で呟き、後ろ手に鍵をかけて部屋の電気をつける。帰れば家が明るいというのは、ありがたいことだったのだ。
今日も疲れた。足がむくんでいて靴がなかなか脱げない。脱げた、と思うと勢いがつきすぎて手から離れ、玄関にごとんと落ちる。嘆息とともに髪を耳にかけ、もう片方も脱いで揃えておく。
リビングには朝干した洗濯物が存在を主張していて、すっかり忘れていた飛紗はまた溜息をつく。手を洗うと座りこんでしまう前に取り込み、無心でたたむ。夏なので何の問題もなく乾いていた。部屋干しをしてもテレビCMで謳われるほど臭くなっているとは思わないが、やはりお天道様の力を借りたほうが気持ちがよい。
クローゼットにしまうために立ちあがり、そのままシャワーを浴びる。髪を拭いていると自然にあくびが出た。再びリビングに戻れば買ってきた夕飯がナイロン袋に入れられたままぽつんとテーブルで飛紗を待っていて、なんだか虚しくなる。尾野からの夕飯の誘いを断らず外で食べてくればよかった。
それでも何かしら三食きちんと食べなければという意識が働き、やかんに水を入れて沸かせる。帰宅してからつくる元気はないなと途中でコンビニに寄ったのは正解だった。一人暮らしをしていた大学生のときにはあまり考えたことがなかったけれど、自分のためだけにつくる食事はおざなりになりがちだ。面倒くささが先に立って、栄養を流しこむだけの行為になってしまったり、なかなかたのしさを見いだせない。
今日の眞一は何を食べているだろうか。ここ三日の飛紗の食事を知れば、怒るまではいかないけれど、きっとやんわりと咎められるだろう。沸騰したお湯をカップスープに注いで混ぜる。一緒に買ってきたおにぎりは明日の朝に回すことにして、ゆっくり胃に流していく。体の内側が温まると、先ほどまでの倦怠が落ちついてほっとした。
約一週間の出張のため東京に行っている眞一と再会するのは週末になる。眞一が帰ってくるのではなく、お盆休みに合わせて飛紗が東京に行く予定だ。学の料理はおいしいと聞いているのでたのしみにしている。飲み干したカップスープの、どこかインスタントな味を堪能して、ふうと一息ついた。
結婚してから一週間も会わないのはこれが初めてのことだ。付き合っていたときはだいたい一週間に一、二回、多くて三回程度だったことを思い出す。それより以前に関しては完全に運次第、二週間に一回程度の割合で会うことがあればまったく会わないことがあったり、連日で会ったり、よくまあそんな不安定な関係ですきになったものだ、と自分に感心する。過去の自分が友人であればやめておけと言うところだ。
反対に言えば、よくまあ結婚できたものだ、と、いまは振り返ることもできる。二人で暮らすために選んだ部屋を一人で過ごすのはさびしくはあるけれど、だからといってつらくはなかった。左手の薬指にある指輪をじっと眺める。
もう寝てしまおうかどうしようか、小さく悩んでいると狙いすましたようにスマホが鳴った。画面には「眞一」の文字がある。タイミングのよさに驚くことはもうほとんどない。
「もしもし」
電話に出た自分の声が明らかに弾んでいて、飛紗は笑ってしまった。出張初日に電話がかかってきたときには後ろでがやがやとした騒がしさがあり、有志の研究者が集まって飲んでいるのだと言っていたが、今日は静かだ。
「いま大丈夫でしたか?」
確認というよりは様式美に眞一が言うので、はい、大丈夫です、とわざとかしこまって答える。
「今日はお家?」
「うん。飛紗ちゃんは、家にいますか」
受話器越しに聞こえてくる眞一の声は、いつもより低く耳に届く。直接話せたほうがもちろんよいが、電話は電話で、心地よい。連絡は取り合っていても、毎夜通話しているわけではないのでなおさら。うん、と頷いて、スマホを持ち直す。
「寝ようかなーって、思ってたとこ」
「切りましょうか?」
「ううん、いい。ぼんやりしてただけだから。寝る前に声聞けてうれしい」
頬が緩む。何もやる気が起きなかった数分前が嘘のように、気持ちが軽かった。久々の一人は楽で気ままだけれど、一週間もあれば充分だ。
ふ、とかすかに響いた音で、眞一が笑ったのがわかった。
「かわいいことを言うね。残業で疲れているだろうから、あまり引き止めないようにと思ってたんですが」
「そういう眞一こそ疲れとるんやないの? ん、いや、気分転換になっとるかもしれんけど」
もともと他人とははっきり距離を置きたがるタイプである。実家とはいえここで暮らしているときより一人の時間は多いだろうし、飛紗より断然、眞一のほうが浩然とした心地のはずだ。普段は何も言われないし、一緒に生活をしていて無理をしている部分は見受けられないが、とにかく器用で要領のよい男なので、単に飛紗が見落としている可能性はある。もちろん、ないことを祈りたいが。
しかし飛紗のちょっとした不安の種も、眞一はあっさり遠くに放り投げてしまう。
「とんでもない。はやく飛紗ちゃんのところに帰りたいです。週末までが長くて仕方がない」
「さびしい?」
「うん、さびしい」
んふふ、と口から声が漏れた。ときめきを表現するのにきゅん、と音をつけたのは誰なのか、まさに胸のあたりが心地よくきゅーっと締めつけられる。足をばたばたと動かしたくなる。代わりに体を横にして、クッションを抱きしめた。
「さっきちょうどね、眞一のことを考えててん。いつ会えるかもようわからん男を相手にして、よくすきになったなあとか、よく結婚できたなあとか……」
また指輪を眺めてみる。口にしてみると眞一相手に言うにはひどい言葉ばかりなのに、それとは裏腹に、声が自分でもわかるくらい甘えている。表情の見えない電話だから、無意識に感情を載せようとしているのだろうか。弟の綺香を思って、ズルをしているような、引け目に近いものを感じた。
「ぜんぶ飛紗ちゃんのおかげです」
これまで何度も繰り返されている言葉に、クッションを抱きしめ直す。ずるいひとだと思う。
「あいたいなあ」
ぽつりとこぼれ落ちた。
「最初はあんなに胡散臭いって思ってたんになあ。なんか、気づいたらっていうか、あれ、もしかしてすきなんかもしれん、すきってことなんかな、って、思ったときには、もうなんか、すごく深いところにいて、すごい、でも、よく本で読んでた溺れるって感じやなくて、もっとしんとした感じで、たぶん叶うことないってわかってて、子どもみたいに握られる手はすごく熱いのに頭は冷えてて、……瀬戸がひとりじゃなくなればええなあって、……なんで、こんな、……なんで瀬戸は瀬戸のすきなひととしあわせになれへんのかなって、なってほしいな、って、思ってた。ずっと」
横になったせいか、それともやはり体は疲れているせいか、瞼が重くなってきた。
「でもやっぱり眞一に思われてるんはうらやましかったなあ。あのころわけもわからず泣いたりしとったけど、嫉妬やったんかな。ちょっともうわからへんな。必死やったはずやのに、こうやって忘れていくんかなあ。悪い意味やなくて、それくらいもう遠くて、それ以上にいまがうれしくて、こうして電話しとるだけでも、たのしい。会いたいときに会いたいって言えるん、すごいね。相手も自分もお互いをすきやって確信が持ててるんって奇跡やね。なんかいま、眞一との話すると、新婚はええねーとか言われたりするけど、新婚とかやなくて、ずっと仲良しやねって言われるようなふたりでいられたら、ええよね」
沈黙が下りる。そこでやっと一方的にしゃべりすぎたことに気がついて、慌てて体を起こした。まどろみかけていたのを忘れたように視界が突然はっきりとする。乱れた髪を後ろにやりながら言い訳しようとすると、それは、と受話器の向こうから眞一の声がした。
「それは、恋が愛に変わったのではなく、愛があったうえで恋がある、というか」
また少しの沈黙のあと、眞一がめずらしくもごもごとして明瞭にものを言わないので、なに? と問いかける。
「いや、もう、……飛紗ちゃんが目の前にいなくてよかったとこれほど思ったことはない。言語化することの罪深さ。電話じゃなければ沈黙したまま何も言えないところだった」
口調が早くなっているところに、気持ちを整えることに必死であるのが飛紗にもわかった。確かに自分のかつての感情を吐露した照れくささはあるものの、実際事実であるし、当時なんとなく眞一は察していたはずだ。もしかすると飛紗よりも先に、飛紗の恋愛感情を見抜いていたかもしれない。そんなに恥ずかしくなることはない気がする。
「うん、いや、とても耐えられない。寝られる気がしない」
「そこまで?」
眞一には悪いが、飛紗はさほど大層なことを言ったつもりはないので、笑ってしまう。こんなに慌てる眞一をぜひ見てみたかった。声しかわからないのに、なぜか真赤になっているのがありありと浮かんでくる。貴重な姿だ。惜しいことをしたなあ、直接言えばよかった、と思いつつ、電話だからこそ無防備に言葉を連ねた気もして、やはりどちらにせよ飛紗がいまの眞一を見られる機会はなかっただろう。
「ああ、飛紗ちゃん、生まれて初めて言うんですが」
「なに?」
背中を壁に預け、くすくすとした笑いとともに尋ねる。いまの調子だとすぐに重ねられるのかと思いきや一拍間があり、訝しんでいると、
「抱きたい」
と至極まじめに言われたので、今度は飛紗が赤面する番だった。驚いて思わずばか、と返したが、意思に反してどこか甘えた小さな声になり、何の意味もなさなかった。
余裕ぶって油断していると、こうしてすぐ形勢を逆転される。間を置かれたことで耳を澄ませていたのは失敗だ。飛紗が眞一の声によわいことくらい本人も把握していると知っていたのに、やられてしまった。
「あ、そうや、何か持ってきてほしいもんとかある?」
話題を変えるべく、多少わざとらしくとも努めて明るく聞く。眞一はもうすでに何日か東京にいて、しかもホテルではなく実家にいる。大概のものはそろっているし、忘れ物があればとっくに連絡がきているだろうから無意味な問いだ。わかっていてもごまかすほうが飛紗にとっては先決だった。何にせよ眞一に触れるのも触れられるのも不可能な以上、なるべく平素のまま会話を終えたい。
「いいえ、特には。ああでも時間があれば、サクラクレパスのコラボ商品を買ってきてください。新大阪の駅ナカで売っているらしいので」
行く前は手土産なんかいらない、と念を押されていたのに、ここにきて指定されたことに苦笑する。いくら眞一にそう言われても買うつもりであったから、悩みが解消されてしまった。見透かされている。
「タオルなんかもいりませんからね。パジャマは、私の高校時代の服とかでよければ、持ってこなくていいです」
「えっ、ぜんぜんいい」
「うん。じゃあ週末、たのしみにしています」
会話を終えようとしている科白に時計を見れば、もういい時間だった。飛紗もそれ以上引き止めるのは諦めて、おやすみ、と告げる。同じようにおやすみ、と言われて、電話が切れた。
急にしんとした空気に首をかいて、大きく伸びをする。眞一の声を聞いて安心したせいか、妙にテンションを上げてしまったせいか、うとうととした眠気が復活してきた。きっと明日も目が回るくらい忙しいだろうけれど、がんばることができる。ふふふ、と含み笑いをして、寝支度を始めようと立ちあがる。週末が待ち遠しかった。
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