瀬戸さんの元カノとばったりする話
「瀬戸くん?」
声につられて振り返ると、髪を緩く一つに束ねた女性が立っていた。目線はまっすぐ隣の眞一に向けられていて、飛紗には意識が向いていないようだ。自然と結んでいた手から力を抜くが、眞一は離すまいと反対に力を込めてきた。
「舘川さん?」
「よかった。やっぱり瀬戸くんだった」
ほっと安堵の溜息をついて笑った彼女から、勇気を出して話しかけてきたことが伝わってくる。話しかけ方からしておそらく眞一と同世代なのだろうけれど、背が低くてくりっと丸い瞳で、飛紗と同い年と言われても信じるかもしれない。
「久しぶり。まさかこんなところで会えるなんて、思ってもみなかった。昔は会いたくてもすれ違うことすらなかったのに」
がやがやと周りから聞こえてくる会話のほとんどは関西弁だ。生まれも育ちも東京の眞一の知り合いのようなので、おそらくこのひとも東京で育ったのだろう。
はたして聞いてもよい会話なのかわからず、飛紗は所在なく立ち尽くすしかなかった。物言いからしてきっと眞一とかつて恋人であったか、そうでなくても片思いで眞一に思いを告げたことがあることは明白だ。眞一はどうか知らないが、女性は聞かれたくないのではないか。つないだままの手が気まずい。
「舘川さんが私をどうでもいいと思ったから、会えたんですよ」
いつものことながら、まるであたかもすべてをお見通しかのごとく言う。確かに眞一なら似合う科白ではあるのだが、飛紗からすれば眞一は自分の夫であり、あまり遠い存在になられるのは困る。
舘川と呼ばれた女性も「そっか。そうかも」と納得していて、まあ、眞一のことをどうでもよいと思っているのなら、元カノだろうがかつての思い人だろうが、よいのだが。
「ごめんなさい、一方的に話して」
柔和な笑顔を向けられて、頭を下げる。反射的に浮かべた笑顔は長年培った経験のおかげで、引きつったりなどしなかった。
「妻の飛紗です。こちらは中高で同級生だった舘川さん」
「はじめまして。いまは結婚して、田中を名乗っています。関西には夫の転勤で来たばかりだから、すれ違ったときにはよろしくお願いします」
連絡先を交換するとかではないのだな。飛紗はにこにことする以外に仕様がなくて、こちらこそ、と当たり障りない言葉を返す。眞一は手を離してくれないし、落ちつかないことこのうえない。
「瀬戸くんが結婚したって噂、ほんとうだったんだ」
「噂にするほどのことですかね」
「そりゃそうでしょ。奥さん見たよって、みんなに自慢できるくらい」
それはなんとなくわかる。眞一は結婚しそうにないというか、生活臭がないというか、飛紗自身がかつて思っていたことだ。実際一緒になってみると、家事は眞一に助けられているくらいだし、結婚したからといって態度は変わらないし、不安になるようなこともなく、できすぎた夫だ。むしろ掃除ができないという短所があって安心する。
「でも、とりあえず、しあわせそうで安心した」
「田中さんも」
先ほどよりも目尻を下げて、舘川、もとい田中は破顔した。ああきっとこの笑顔は昔から変わっていないのだろうな、と勝手に想像する。
「それじゃあ、夫が待ってるから。そろそろ子どももぐずるころだろうし」
またね瀬戸くん、いつか。
ひらりと手を振って、田中は人混みに消えていった。
「彼女?」
「元ね」
これまでどんなに聞いても決定的なことは何も言ったことがなかったのに、眞一は初めてあっさりと首肯した。手を引かれて再び足を動かす。
こんな風に手をつないで歩いたことがあった?
うっかり聞きそうになって、ぐっと堪える。肯定されても否定されても、感情を流すことなんかできない。単なる自虐に眞一を巻きこむのは好ましくなかった。
「いつ付き合ってたの?」
「高校二年の春から、卒業まで」
それは意外だった。節目だからといって縁を切るようなタイプには思えない。あれこれと聞きたいが、しかし深く聞いてどうしようというのだろう。自分の立場が眞一にとって揺るぎないものだと自信があるから、聞いても平気な顔はできる。とはいえ嫉妬しないかといえば、それは別の話だ。知り合いにすらなりえなかったころの眞一は、彼女のなかで存在していても、飛紗のなかで存在することはありえない。
なるほどこんな風にごちゃごちゃと考えてしまうから、これまで眞一は一切昔の恋愛話をしてこなかったのだと悟る。
「まあ、すごく、すきだったんですけどね。どんなに運がよくても、互いの性格や相性以上の結果は出ないというか」
「……よくわからん」
「はは、そうかもね」
眞一にとっても大切な思い出なのだといまの言葉だけで充分すぎるほどわかってしまって、手をぎゅっとつよく握る。過去は得られない。仮に過去に戻れたとしても、眞一と卒業アルバムで並ぶことはできない。
それにもし同級生だったとしたら、飛紗はやはり眞一に近づくことなどなく、眞一と舘川が付き合っているのを興味もなく眺めているだけだったかもしれないのだ。
「わたしは、眞一しかおらんから」
背丈は変わらないのに、飛紗よりも一回り以上大きく、骨ばった手。夏にはつなぐと熱いくらい、体温の高い手だ。
「珈琲にミルク入れたとききれいな円が描けたとか、帰り道の夜空がきれいやったとか、本がおもんなかったとか、そういうん言いたい、一緒に笑いたいって思ったん、眞一しかおらんから」
誰かと付き合った思い出どころか、「すごくすきだった」と語れる相手すら思い浮かばない。なんとなくすきだったような、あれは恋だったようなそうでないような、あいまいな記憶しかなかった。
「やから、わからん」
「……成功例しかないんだ、飛紗ちゃんは」
「付き合うまで連絡先すら教えてくれへんかったひとが何言うとんの」
あのひとが眞一を思ってどれほど泣いたのか、どれだけ笑ったのか、眞一がどんな思いをしたのかなんて当然知らないが、飛紗だって思い通りに事が進んだわけではない。それこそ眞一を思って何度勝手に泣いたか、いや、この男のことだからもしかしたらお見通しなのか。だとしたら随分たちの悪い男に引っかかってしまったものである。
(知ってたけど)
よいところも悪いところも全部、知っていたけれど。
「すごい告白」
ふ、と相好を崩されて、体を軽くぶつける。
誰もが結婚するとは思っていなかった眞一が、いまは飛紗の夫になって、一日たりとも外すことなく結婚指輪を左手の薬指につけている。隣にいることは当り前になったけれど、まだどきどきすることもある。
「ずっと隣にいてほしいって思って、それが叶うなんて、奇跡みたいな話ですね」
それは確かに、そのとおりだ。ましてその相手が自分だなんて。
とりあえず今日の夜は天ぷらでも奢ってもらおう、と飛紗は眞一の体に体をくっつけるようにした。