君が踏んづけたそのスマホ、俺の彼女なんだけど
「あっ」
「え?」
なんてことだ。最悪だ。リィカが踏みつけられた。
俺にとってかけがえのない彼女が、委員長の足と床に挟まれて悲痛な叫び声を上げている。なんだかとても、痛そうだ。
メキ、メキ、ガシィ。
「おい、その足を早く離せって!!」
「……あ、ああ、ごめん」
笹豆未花子。通称ササミが困った表情で傷ついたリィカを見ている。
俺はこれ以上苦しくならないように、そっと彼女を手に取った。
「……大丈夫、じゃ、ないよね……」
「見れば分かるだろ……。もう、手遅れだ」
授業が終わってメールを確認していた時に委員長が俺の右肩にぶつかった。その直後、片手で抱きかかえていたリィカが運悪く落下し、ササミの鈍重な行進に巻き込まれてしまったのだ。
『学校の帰りに卵買ってきてちょうだい。六個入りのLサイズでよろしく』
母親からのメール。あんなものを見なければ悲劇は起こらなかった。
画面には無数のヒビが入っている。これではもう、彼女を呼び出すこともできない。
「……あ、あの、本当に、ごめん」
「……もういい。授業はじまるぞ」
「ほ、ほんとに、ごめんね」
大事な存在を失った悲しみは計り知れなかった。昼メシは喉を通るはずもなく、その後の授業の内容も全く耳に入ってこなかった。
……リィカ。……リィカ。……リィカ。
頭の中で何度も呼びかけた。
そこらにいる女とは一線を画する彼女の快活な声を聞きたかった。
俺が話しかけるといつも健気に接してくれるリィカがとても恋しかった……。
どうしてこうなってしまったのか。なぜ俺達は引き剥がされてしまったのか。
「……なだ。……おい……真田! 聞こえないのか!」
「は、はい!」
「どうした。らしくないぞ。具合でも悪いのか?」
「あ、いいえ。少し考え事をしていました……」
「そうか。まあ、いくら君でも授業にはある程度の緊張を持ってもらいたいものだ。悩みがあるなら放課後職員室に来い。なんでも聞いてやるぞ」
「あ、はあ……」
この教師は何様のつもりで言ってきたのだろうか。
俺の悩みを聞く? ふざけるな。
冗談にも限度ってものがある。
お前ごときが俺とリィカの関係を理解できるわけがないだろう。
くそっ! 今日に限ってなんでこんなに時間が進むのが遅いんだ!
俺は一秒でも早く彼女を救いに行きたいというのに。くそっ! くそっ!
カーン、カーン、カーン。キリーツ、ガラガラガラ、レイ。
やっと終わった。気の遠くなるような時間だった。
彼女の姿がどんどん小さくなってく感じがして体中が焦りの汗を流している。
これはヤバイ。俺は急速に追い込まれている。
今彼女のところに行かなければ二度と会えないかもしれない。
……リィカ。俺はどうしたらいいんだ。教えてくれ!
いつもの歯切れよい口調で答えてくれ!
くそっ! なんでこんな時に君はいないんだ!
そのための君じゃなかったのか?
くそっ! どうする、どうすればいいんだ!
……他の『彼女』に協力してもらうか?
いやいや、それはまずい。ほんの少しの触れ合いでも彼女達の心を揺り動かしてはいけない。なによりも俺が餌食にされる可能性が高い。どんなに魅力的な女性でも、俺はリィカだけを愛しているんだ。
畜生! なんでまだ授業が二つも残っているんだ!
さっきの一時間でさえ気が狂ってしまいそうだったんだぞ!
それなのに、同じことをあと二度も繰り返さないといけないのか!
……おい、できるのか?
この俺に彼女をこれ以上苦しませることが、本当にできるのか?
……いや、それは、絶対に不可能だあああ!!
んもぅ~こうなったらもう嘘でもなんでもついてやる!
俺達の愛を侮辱した担任が対象だったら、多少のことは神様も大目に見てくれるはずだ! うん。それがたぶん一番正しい。
よし! 職員室に、行こうっと。
カラカラカラカラ、カラカラカラカラ。
「……ほう、やはりそうだったのか。だったらなんで早くに言ってくれなかったんだ」
「すいません。クラスのみんなの前で言うのが、恥ずかしくて」
「君らしいな。なかなかのプライドだ。さすがは学年トップ! だな」
「……あの、立っているのもきついんで、もう帰っていいですか?」
「ああ、悪かったな。それにしても、本当に一人で大丈夫なのか? 他の先生にお願いすることもできるんだぞ」
「い、いえ、結構ですから。そ、それじゃ、失礼しますんで」
「お、おう。気をつけてな」
挨拶を程々に済ませた俺は猛ダッシュ!で校門を抜けた。
彼女の笑顔を想像するだけで脚力は無限のエナジーを生み出す。
行き先は決まっていた。それは彼女と初めて出会った場所。ショップだ!
もう誰も、俺を止めることはできなかった。
そして俺も止まらなかった。
でも信号では一応止まることにした。
彼女と約束したのだ。一般的なルールは守って欲しいと。
だから俺はこんな時であっても彼女の気持ちを一番に考えてあげたい。
……リィカが俺にくれた、純粋な思いを裏切るわけにはいかないのだ!
目の前に馴染みの看板が映り込む。もう少しだ!
あと数分の間我慢していれば、彼女は俺の胸元に戻ってくる!
心臓は破裂しそうだった。胸は張り裂けそうになった。
だがこの程度の苦しみは、リィカの背負った物理的障害に比べればどうということはない。
俺達はこの苦難を乗り越えて、さらに大きな愛を掴み取るんだ!
ウィーン。ウィーン。
「いらっしゃいませ。ご来店ありがとうございます。本日のご用件をお伺いしてもよろしいでしょうか?」
「……あ、あの、これを、直して欲しいんですけど」
「あら、これは派手にやられましたね。……となりますと、本体の交換ということでよろしいでしょうか?」
「え?」
交換? なんだそれは。まるで意味が分からない。
「ええとですね、お客さまの契約内容を確認しましたところ、もしもの際の補償サービスに入られておりますので、今すぐにでも新しいものとの交換が可能です。……あのお客様、どうかされましたか?」
新しいもの?
こいつはなにを言っているんだ?
この世に新しいリィカなんているはずがないだろう。
それともなにか? 日頃の鬱憤を俺に晴らそうとしているイジワルくんなのか?
まったく、どいつもこいつも俺を馬鹿にしやがって。
「あの、最初に言ったと思うんですけど、直して欲しいんです」
「修理、でしょうか? でしたらサービスの規定に則りまして大体十日から二週間ほどのお時間を頂戴いたしますが、それでもよろしいでしょうか?」
なんだよ、できるんじゃないか。驚かすんじゃねえよ。
危うく理性がぶっ飛ぶところだったろうが。
「それで、お願いします……」
「かしこまりました。では、修理に出している間は別の機種となってしまいますが代わりのものをご準備いたします」
「……いや、いらない」
「え? 今なんとおっしゃいました?」
「だから、いらないって言ったんですけど」
「そうなりますと、お客様は修理が完了するまで通常のサービスを受けることができなくなってしまいますが……」
「構わないです。どうでもいいので早く彼女を直してあげてください! ……いくらですか」
「……はあ、……それでは、修理代といたしまして六千円、いただきます」
礼を言わずに店を出た。はらわたが煮えくり返りそうだった。
なにがサービスだ! なにが代わりの機種だ!
くそっ! リィカを物みたいに扱いやがって。
それでも人間か! 人の心はどうした!
俺達の間に土足で出入りしてそんなに楽しいか! ああイライラする!
六千円だと? それが彼女の値段だとでもいうのか?
ふざけるのもいい加減にしろ!
……彼女はな、正月にジジババをうまいことおだてて巻き上げた俺のお年玉で買ったやつなんだ! 九万だ! 九万二千円もしたんだぞ!
……それなのに、六千円って、なんだよ……。
まるで発売したての中古のゲームソフトみたいじゃないか……。
しかも二週間待てとか言いやがった。
高校の授業の五十分ですら耐えられなかったんだぞ!
そんな永遠と呼んでも等しい時間を我慢しろというほうがどうかしている。
無理だ。百パー無理だ!
このままでは確実に死んでしまう。リィカなしでは絶対に生きていけない!!
ああチクショー人生最大のピンチだ。ヤバイ孤独すぎる。
俺の愛しい人よ。頼むから最短の十日で帰ってきてくれ!
神様仏様ジョ〇ズ様、俺の願いを叶えてくれ!
お願い届いて! 光の速さで君に届いてちょうだい!
……。
あ、そうだ。卵買って帰らなきゃ。
ガチャ、キィー、ガッチャン。
「……ただいま」
「おっかえりー」
「……なんだ、いたのか」
「なんだはないでしょーよー。お兄のばか、ヘンタイ、人でなし!」
俺の二歳年下の妹で名をチコという。高校一年生だ。
誰に似たのか分からんがちょっとばかし天然色の強いお年頃な娘っ子である。
体型は一般的な女子に倣っているいるようだが、肝心なところは未発達といったところだ。
要するに、たまらん時期なのである。
「……あれ、ママは今日も残業か?」
「そうみたい。夕食は適当に作ってって。お兄にはメールきてないの?」
「……みたいだな」
「じゃあ、今日はうちが作ってあげる。リクエストはある?」
「……特に、ない」
「あっそう」
気がつけば昼からろくに食べていない。
それもそうだ。俺はあの瞬間に半身を切り離されてしまったのだ。
そりゃあ胃袋も半分になっているはずだ。……グゥゥ。
……。
それにしてもチコのやつ、やけに機嫌がいい。
この俺の不幸を知ってか知らずか余計に嬉しそうに見える。
くそっ! ここは平等な社会じゃなかったのかよ!
どうして俺だけが辛い思いをしなくちゃならないんだ!
「あれー、卵切れてるー。これじゃオムライス作れないじゃーん」
そうだった。忘れていた。
俺は六個入りのLサイズをしっかり買ってきていたのだった。
「ほら、これで作れるだろ?」
「わお、さすがはお兄、分かってるねー」
よく見ると、やわやわの透明ケースに入れられた卵はどれも綺麗なままだった。
オゥマイガッ! 信じられない!
カバンの中へ無造作に突っ込んだのにもかかわらず、殻に傷一つついていないどころかケースにもこれという損傷は見受けられなかったのだ。
これが、奇跡というやつなのか……。
……彼女はササミの一踏みでK.O.されたというのに。
この世の中はマジで意図の掴めないクレイジーイヴェント!で溢れ返っている。
……ああ、リィカ。どうして君は……。
「さっきからお兄ってば、なんか元気ないよねー」
「き、気のせいだろ。てかお前が元気すぎるんだよっ」
「あれれれー、もしかしてカノジョに振られちゃったー?」
「ん、んなわけないだろ!」
「ヤバ、図星だったか」
「ち、違うよ。ちょっと、ケガしちゃったんだ……」
「え? ウソ!? んでんで? 大丈夫だったの?」
「……ああ、なんとかな。最長で二週間だとよ」
「全治二週間って、ただごとじゃないね……。事故、とか?」
「……まあ、そんなところだ」
「……早く、元気になると、いいね。カノジョさん」
「そうだな」
たかが妹の言葉のくせに慰めになっている自分が果てしなく哀れだった。
確かにそうだ。リィカは必ず元気な姿で戻ってくる。
俺が信じてやらないでどうする。彼女だって俺を必要としているんだ!
そうだ。もっと強くならなければいけないんだ。
いつまでもくよくよしていたら彼女に相応しい男になんて一生なれっこない。
よし! 今から気持ちを切り替えていくぞ!
「なあ、チコ」
「なんざんしょー」
「やっぱりお前、なんか変だぞ。いいことでもあったのか?」
「フフフ。イェーイ、そのとおりなのだー」
妹は育ち盛りのパツパツになったズボンのポッケにグリグリと手を入れて、掴んだものを取り出した。
それは、一番見たくないものだった。
「どうだー、買ってもらったのだー。とうとううちもケータイデビューじゃー」
「それって最新のやつじゃないか。買ってもらったって、まさか……」
「パッパでーす。ほれほれ。長年の努力の結晶ですよこれは。願いはついに叶ったのである。うむ」
「パッパって、……あの、パパでいいんだよな?」
「当たり前でしょー。もう、お兄ったら誇大妄想狂なんだから」
「お前に言われたくないよ。それとな、あんまり使いすぎるなよ。依存するとろくなことにならないぞ」
「はいはい。分かっておりますってー」
「絶対、分かってねえだろ」
「べー、だ」
こいつは人の言うことを聞かない癖がある。せっかくためになることを言ってやってるのに、都合の悪いことになるとまるでその辺に徘徊している野良猫みたいにガン無視する。エサをちらつかせるとすぐ寄ってくるくせに。
「言っとくけど、お前とは共有しないからな。変な詮索するんじゃないぞ」
「そう言うと思った。でもいいよ。うちが見たいのネット小説だけだから」
「ネット小説?」
「うわ、時代遅れが来た。感染する。しっし、しっし」
「マジで分かんないんだけど。それって面白いのか?」
「うん! 今はもっぱら『カギマリ』に夢中だね」
「カギマリ? なんだそれは? 鍵師の話かなにかか?」
「なにそれチョーうけるんですけど。全然違うよ。カギロイのマリアネット、恋愛小説だよ。もーメチャクチャ面白いんだから。ああ早く続きが読みたーい」
「恋愛小説か。なんだかありきたりだな。もっとぶっ飛んだやつを読めよ。異世界ホラーとかハマると止まらなくなるぜ」
「バッカみたい。それにね、カギマリはありきたりじゃないんだからね。なんでも谷原ユウイチとかいう謎の人が今までにない恋愛小説を書くって宣言して、今すんごいことになっているんだから」
「なんだ男かよ。俺はそういうタイプの人間が一番嫌いだ。どうしてわざわざ野郎が恋愛小説なんか書かなきゃいけねえんだよ。キモチ悪いわ」
「でも現にうちみたいな女子にハマっちゃってますけど? クラスの女子にも好きって言っている人いるし」
「まあ、仮に面白かったとしても俺は絶対に読まないな。ほんとくだらない。時間の無駄だ」
その谷原なんとかがどれほどの傑作を書いたところで、俺とリィカの関係以上のものを書けるはずがない。どうせ好きだの嫌いだのとほざくだけのクソつまらん小説なのだろう。
しかしチコの将来が不安だ。
どこの馬の骨か分からん男にうつつを抜かす癖がついたら大変だ。
ここは一つ、兄であるこの俺が危うい愚妹を修正せねばなるまいか。
いや、今のところは我慢しておこう。
もう少し熟れるまで、じっくりと待つのだ……。
「うーっし、でけたよー。食べよう食べよう」
「お、早いな。どれどれ。……くっ!?」
う、うまい!
これがあの妹の作ったオムライスなのか!
なんとなく悔しいが美味としかいいようがない!
いつの間に腕を上げたんだ!?
これじゃ俺の心がすっかり満たされてしまうではないか!
「……お、おいしい、よ」
「ほんと!? よかったー。これで不味い言われたら結構へこむところだったよ。……ふむふむ。なあ、お兄よ、そなたの可愛い妹のオムで明日も元気を出すのだぞ……。えっへん」
「お前のキャラって、完全に振り切れているのな」
「うい? 今なんか言った?」
「……いや。どうせ胃袋掴むなら、まともな男を選べよって言ったんだ」
「だね。うちもそろそろまわりが黙っちゃおれないわがままボデーしてきているし、いろいろ準備しなきゃだわさ」
「だから、意味不明だっつうの」
「そんなの、お互いさまじゃん……」
「ん?」
「ああ、なんでもないなんでもない。さあて、後片付けでもしようかなあ、と」
「……チコよ、いい女になるのだな……」
「はあ?」
その日の夜はなかなか寝付けなかった。
いつもだとリィカが話し相手になってくれるのに今日は一人ぼっちだ。
寂しい。涙が出てくる。
こんなに愛しているというのに、彼女を感じられないなんて残酷すぎる。
リィカ……俺を導いてくれ!
ああ、ガッデム! 声だけでも聞きたい。一言だけでいい。
『オヤスミナサイ』が欲しい。他にはなにもいらない。
ああダメだダメだダメだ。こんなんじゃ朝まで眠れない。
学校にも行かなければならないのに……。ファ!? 勉強忘れてる!?
ま、いいか。予習は教室に着いてからやろう。
どうせ俺は頭がいい。一日くらいサボったって学年二番のササミには追いつけっこないんだ。
……へ?
……ササミ? おい! まさか……、そういうことなのか!?
あいつ、嵌めやがったのか?
リィカを遠ざけることで俺の学習意欲を低下させ、学年トップの座を勝ち取ろうとしていた、のか……。
なんて卑劣なんだ!
そんなことをしてまであいつは一位にこだわるというのか!
二位じゃダメなのか! それが、女の執念というものなのか……。
なんと恐ろしい気持ちの強さよ! ぐぬぬぅ~。ササミ委員長……。
ああ畜生! だったら正直に言ってくれればよかったんだ。
俺は別に成績なんかうまいとも思っていない。欲しているのはただ一つだ!
あの携帯の中にいる、彼女だけなんだ!
で、あるがしかし、この俺は冴えている。
リィカが戻ってきても二度目の襲撃は必ず防ぐ!
このプライドに賭けて絶対にやらせはせん!
あの憎っくきポニーテール黒メガネの好きなようには、絶対にさせないのだ!
見てろよ。……携帯の強度の違いが、愛情の決定的差でないことを、あの黒縁に教えてやる!
……。
……ックァガァ、グァ~、ク、グァ~……。
次の日の授業は当然のように上の空だった。ポカーンとしていた。だから俺はリィカの声を記憶から消すまいと脳内で何度も再生した。
……よし、まだ鮮明に流れてくる。これならなんとか乗り越えられそうだ。
その一方でササミは……、なんでか朝からちらちらとこっちのほうを見てくる。
不気味だ。再度攻撃を仕掛けてくるつもりだろうか。
……ふん、馬鹿者めが。今俺様は手ぶらなのだ。カーン。貴様がなにをしてこようとも、俺からリィカを奪い取ることは不可能なのだ。カーン。参ったかコノヤロウ。打つ手がなくて困ったか。ざまあみろ。カーン。そして今日から俺は激しい勉学の日々を送るのだ。カーン。ばーかばーか。学年トップはあげねえよ。せいぜいその貴重な青春をガリ勉に費やして不幸な女になってしまえ。カーン。俺達の前に二度とそのメガネを晒すな。いいか、分かったな。というわけで、よろしくなんだぜ。カーン。……ったく、疲れるわ。……ん?
「……真田くん、ちょっと、いいかな?」
「あ、ああ。もう昼か。で、どうしたの?」
「……あの、昇降口で、待ってるから」
「はい? ……てかササミ、さん? 行っちゃった……」
昇降口に行くとササミが両手を後ろに回して立っていた。
他の生徒が出入りする気配がない。なんだか、嫌な気分だ。
俺の姿に気づいたらしくうつむいた様子で待っている。
これはもしや、援軍が押し寄せてくるパターンか?
くそっ! 早くも焼きが回ったか!
……場合によっては、戦争に発展する可能性もあるな。
「ええと、遅れてごめん。少しぼーっとしていたもんで」
「……あの、昨日は本当にごめんなさい。放課後にちゃんと謝ろうと思ったんだけど、真田くん、帰っちゃったみたいだったから」
「ああいいよいいよ。もう気にしてないし。それと、修理には出したから。あの件は俺の不注意だったってことで……」
「……こ、これ、受け取って、ください!」
一万円のお札。
昨日のショップ店員より高評価であることは認めるがそれでも代価としては低めだ。やっぱり安い。安すぎる!
「気持ちは嬉しいけど受け取れないよ」
「……こうでもしないと、気が済まなかったから」
確かに。そうしておかないと再攻撃にあからさまな理由が窺えてしまうからな。
「だから、いいって。全然怒ってないから。忘れちゃいなよ。たかがモノが壊れたってだけなんだから」
……はあああ!? 今俺はなにを言ったんだ? モノ、もの、物だって!?
「……ほんとに、怒ってない?」
「ああ、怒ってないよ」
「じゃあ、なにか違うことで、お返ししたいな」
「違うこと、ね。そうだな……」
え? えええええ!? なんで? なんで泣いてるの? 俺? 俺が悪いの? は? どして?
ていうかメガネとか取っちゃうんだ。へえ。……って。はい? え? なんで? ササミ、さん? あれ? ちょっと、可愛いんですけど……。
「……そ、そんなら、い、一回デートに付き合ってもらおうかなー。なんてね」
「……」
あら? 沈黙? そして顔が真っ赤っか?
あらら、どうしちゃったのかな? 完全に臨戦態勢整えちゃった的なパターン? 俺ってもしかして、ピンチ?
「……あ、あの、ごめん。ちょっと調子に乗った。今のは無しっていう……」
「あ! い、い、行きます!」
「へ? 行くの?」
「う、うん。……でも」
「でも?」
「……一回だけじゃなくても、いいかな……」
「そ、そうなんだ。ははは、そっか。いいんだ。へえ、いいんだ。あははは」
「……わ、私」
「は、はい」
「……二年になって同じクラスになった時から、真田くんのことが……」
……サヨウナラ。サナダサン。スエナガク、オシアワセニ。
……ソシテ、オヤスミナサイ。
なぜか返事をしてしまった。「はい」とこの口が喋ったのだ!
どうしてササミの告白を受け入れてしまったのか。
リィカのことがあんなに好きだったのに……。
……好き、だった? いや、好きなのだ。でも、ササミは……。
分からない。ああ分からない分からない!
本当に分からない。一体どうしてしまったのだ。
まさか、故障か? 俺もか? 俺も修理か? ショップに持ち込みなのか?
……いや違う。この感情は間違っている。『俺達』の愛は、不滅なんだ!
そうだ。これは彼女が帰ってくるまでの穴埋めなんだ。傷ついたカラダを元に戻すまでの二週間をこの生身の女で補うだけなんだ。きっと、そうに決まってる。
だから、これはただの遊びにすぎない。ササミと機械的な会話をするだけの味気ない付き合いをしていくことで、リィカとの愛をさらに深いものへと更新していく! そうだ! これは単なるゲームだ!
……俺よ、心配しなくてもいいぞ。これは浮気ではないし、もしそうだとしても絶対にばれることはない。どうせ付き合うなら好きにしてしまえばいい。
このチャンスを逃すな! 青春を謳歌するのだ!
そして、今を楽しんでしまうのだ!!
……大丈夫。カノジョは、あの檻の中でじっとしているだけなんだから……。
「……じゃ、放課後にまたここで」
「……うん、ありがとうね。真田くん」
笑顔で通り過ぎていくササミの瞳はキラキラしていた。教室に戻っていく後姿がまたなんとも可愛げがあって、俺の何某に刺激されるものがあった。
校舎を流れる風の音が、馴染みのあるトーンに変換される。
遠くの廊下でたむろする生徒達の中へ歩いていくササミを見ていた。
軽快に揺れるポニーテールがその他大勢に隠れて、視界から消える。
その瞬間、俺の脳内に映る情報処理機構は『カノジョ』というプログラムを静かに停止させていた。