第3話 歌をうたう少女
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私が息を切らせて浜辺にたどりつくと、その女の子は私に背を向けるようにして、まだそこに立っていた。シンプルな白のブラウスにグレイのチェックのスカートは地元の高校の制服なのだろうか。彼女の長い髪はまとめる事なく、背中の中ほどまで伸びて浜風を包み込むようになびいている。
ここからわかる事、それは彼女は歌をうたっているようだ、という事だった。ただ、私にはそれが何の歌なのかはさっぱり分からなかった。聞いた事もないメロディだったし、そもそも、その歌詞すら聞き取る事ができなかったから。聞き取ることができなかったといっても、歌声はちゃんと聞こえている。歌の歌詞が私の知らない言葉だったのだ。その歌はどこかもの哀しそうで、まるで神様にでも祈っているかのような神々しさがあった。彼女の歌声は時折とても高いキーにとび、透明感のある裏声が黄金色に変わる夕暮れ時の海の上に彗星のような美しい余韻を残して響き渡った。
私はつかの間その歌声にじっと耳を傾けていた。なぜかその歌声がわたしの心をとらえて離してくれなかった。見えない手で心臓のあたりをぐっと鷲づかみされたように、胸が締めつけられる。でも心は不思議と落ち着くのだ。
やがて歌声が消えて、波の音だけが耳に残る。わたしは無意識のうちに彼女のほうへ歩み寄ると、彼女の後ろ姿に向けて声をかけていた。
「きれいな歌……だね」
女の子は私の方を振り返ると、驚きと恥ずかしさがごちゃ混ぜになった顔で後ずさった。
「ご、ごめんね。突然。私、東京から来たんだ。向こうのカフェから君の事が見えて、何をしているのか気になって見に来たんだけど……」
「旅行、ですか?」
怯えるような表情で女の子は聞いてきた。ちゃんとコミュニケーションはできそうだ。現地の言葉しか通じないわけではなさそうで少し安心した。
「えっとね、実は映画の撮影なんだ」
「え、映画!?」
「映画っていっても学校の部活動で撮るやつだから! 映画館で上映するやつじゃないよ!」
私は慌てて両手を振ると女の子は首をかしげた。部活動と映画が結びついていないのだろうか。
「私、蓮華。大学の二年生。映画研究部っていうクラブをやってるの。奄美大島には映画撮影をするために来たんだ。さっきの歌、あれはなんていう歌?」
「……シマウタ」
「シマウタ?」
彼女は小さくうなずく。それ以上の言葉はなかった。私はシマウタという言葉から一昔前に流行ったというJポップを思い浮かべた。
「島唄って、ザ・ブームが歌っていたあれ? じゃないよね……」
「うん、違う。奄美の集落の唄」
「へぇ、集落の唄をシマウタっていうんだ。なんていう曲なの?」
「……行きゅんにゃ加那」
「いきゅん、にゃかな?」
もう一度彼女はうなずく。歌の名前なのだろうか? それとも歌手? ていうか日本語? もっと聞きたかったけれど、彼女は今にも火を噴きそうなくらい真っ赤な顔で俯いている。夕日のせいではなさそうだ。人と話す事が苦手なのかもしれない、そう思った私は今日はこれ以上は深く関わらない事にした。
「私ね、この海岸の反対側のペンションで今日から泊まってるんだ。十日間の予定だから、来週には東京に帰るけど、もし映画撮影に興味があったら電話してちょうだい。見学したり、監督がオッケーだせば出演だってできるかも!」
そういって私はいつも持ち歩いている手帳の一ページをちぎって自分の電話番号を走り書きする。その下に『映画研究部 蓮華』と自分の名前も書いておいた。
「れんげ……」
「そう、私の名前」
「あき……」
「アキ?」
「わ、わたしの名前。朱色の希望と書いて朱希」
「アキちゃん、か。うん、かわいい名前だね」
「あ、ありがとう……」
「じゃあ、アキちゃん邪魔してゴメンね。歌、上手だったよ。また聞かせてね」
私は目一杯の笑顔を浮かべてアキに手を振る。彼女は少し笑ったようだった。こんな時は役者をやっていてよかったと思える。でも、彼女に向けた笑顔は作り物ではなかったと断言できる。私は彼女にまた会える事を願っていたから。
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「おい、蓮華! 勝手にどっか行って何してたんだよ?」
カフェに戻るなりタカヒロ先輩が声を荒げた。すみません、と感情のかけらもこもっていない謝罪をして、私は最初に座っていた席に着く。
「誰かと話してたみたいね?」
ヒトミ先輩の質問には「地元民と交流を」とだけ答えて氷が溶けて味の薄くなったコーヒーを飲んだ。
「あんまり勝手に動くなよ。迷子になっても探さないぞ」
「はーい、気をつけます。で、何か決まりましたか?」
「撮影スケジュールちょっと変更したから、これ写しといて」
ヒトミ先輩からスケジュールを受け取ると、自分のものと見比べて書き込んでいく。
「明日はロケハンの予定なんだが、どうせ七人チームで行動するから、撮れそうなシーンはばんばん撮っていくから、そのつもりでな」
タカヒロ先輩の熱血ぶりに、私たち三人の出演者は逆に不安を覚えていた。先輩が張り切る時ほど、ろくな事がなかったのはこれまでの部活動で実証済みだった。
私が不安げにを監督であるヒトミ先輩に視線を送ると、何をどう受け取ったのか笑顔で親指を天に向けた。
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合宿二日目の朝、ペンションで朝食を済ませると私たちの撮影チームはミニバンに乗り込みロケハンに出発した。この日のスケジュールは奄美大島西部にある滝と、中心部に近い原生林をまわり、最後にマングローブに行く予定だった。はっきりいって、観光ガイドに載っているオススメ観光コースだったが、私たちはあえてそこに突っ込む事はしなかった。
朝一番に宿を出て目的の滝のある場所に到着したのは十時過ぎだった。
森の中にぽっかりと開いた丸い空間の片隅にその滝はあった。決して大きくはないが、真上に開いた空間から差し込む太陽の光に照らされて、鬱蒼とした森の中でその場所だけスポットライトをあてたように神秘的な輝きを放っていた。
滝のそばででいくつかのシーンを撮り終えると、タカヒロ先輩が「今度は原生林だな!」と次なる目的地を口にした。
ところが私たちが今いるこの滝は市街地を西に一時間ほどいった山の中にあり、機材を撤収して原生林に向かう頃にはすっかり昼を回ってしまっていた。途中で昼食を取ろうにも、コンビニはおろか商店らしいものすら見つけられず、結局私たちは空腹に負けて原生林行きをパスして市街地に戻り昼食を取る事にした。タカヒロ先輩ただ一人が反対していたが、ヒトミ先輩が民主主義を笠に着て反対意見を抑え込んだ。
駐車場に車を停めてホテルに隣接しているレストランに入ると窓際の席を陣取った。
「次は瑞希と瑞穂のシーンを撮らないとな。二人の出会いはマングローブでいいよな?」
「えぇ? 市街地のほうが現実味があってよくないですか? ついでだし、もうこの後市街地で撮っちゃいましょうよ」
タカヒロ先輩の質問にトモコが提案すると先輩は不満げな声をあげた。
「じゃあ、この後のマングローブはどうすんだよ!」
「やっぱり観光したいだけじゃないですか!」
トモコがほえる横で、肝心の瑞穂役のワカコがぐったりしていた。
「ワカちゃん、大丈夫?」
ヒトミ先輩が心配そうにワカコの顔を覗き込む。いつもならその仕草を喜びそうなワカコも全く元気がなかった。
「すみません、車に酔ったのかなぁ……ちょっと気分悪くて……」
「おいおい、大丈夫かよ?」
タカヒロ先輩が不安げにワカコにきく。それもそのはずだった。撮影スケジュールでは明日から三日間はワカコと私のシーンばかりだった。その様子を見てワカコの真向かいに座っていたタクローがヒトミ先輩にたずねた。
「どうします? 一度宿に戻ってワカコを休ませますか?」
「そうね……」
ヒトミ先輩はしばし考え込んでからワカコにいった。
「ワカちゃん、やっぱり今日は一旦戻って休もう。今無理して明日からの撮影に支障出ても困るし、まだ時間はたっぷりあるわ。しっかり回復して明日に備えましょう」
「……わかりました、本当にすみません」
「おい、マングローブは?」
「タカヒロうるさい!」
ヒトミ先輩に一喝されて、タカヒロ先輩は小さくなる。ちょうどその時に私たちの目の前に料理が運ばれてきて、あっという間にタカヒロ先輩のご機嫌が回復したようだった。お腹を空かせていたタカヒロ先輩はもの凄い勢いで出汁のかかったどんぶり飯をかきこんだ。
「おお、鶏飯うめぇ!」
「まったく……」
その変わり身の早さに誰もが呆れていたが、タカヒロ先輩に気にする様子はなかった。
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結局、私たちの撮影チームはいったん宿に戻ることになったため、ヒロアキの運転するミニバンは宿に向けて国道を東向きに走っていた。午前中に走った山道に比べればストレスのない広くてまっすぐな道で、国道沿いにはスーパーやお店などもあり、この島では市街地周辺とそれ以外の地域とで格差があるのだと実感させられた。
私はいつもならタカヒロ先輩が座っている助手席に座っていた。ちなみにタカヒロ先輩はというと、マングローブに行けなかった事をやっぱり根にもっていたようで、三列目のシートでふて寝していた。二列目のシートは真ん中に座るヒトミ先輩の太ももに頭を預けるようにしてワカコが横になっていた。
「先輩、何か飲み物でも買いますか?」
ヒロアキが道の先にコンビニの看板を見つけて、ヒトミ先輩に問いかけた。
「ワカちゃん、飲み物いる?」
ヒトミの質問に小さく首を振ってワカコが応えた。
「荻山君、ありがとう。大丈夫だから、そのままペンションに向かいましょう」
「わかりました」
そういってコンビニを通過しようとするのを、私が「ちょっと待って!」といって制止した。ヒロアキがびっくりしてブレーキを踏んだので、みんな前につんのめった。
「ちょ、ちょっと! ヒロアキ何なの!」
トモコが非難めいた声をあげるが、私が代わりに答えた。
「先輩……あれ、ウチの一年じゃないですか?」
私が指し示すコンビニの駐車場に見慣れた顔が三つ、いや、もう一つ見知った顔があった。映研部の一年生三人組と一緒にいる女の子に私は見覚えがあった。それは、昨日浜辺で出会った少女、アキだった。
「え? あれ、アキちゃん!?」
一番後ろの席からタカヒロ先輩が「おい、ヒロアキ。ちょっと中いれろ!」といって駐車場に入るように指示すると、ヒロアキはミニバンを急転回させて三人組がたむろする駐車場の横のスペースに滑り込ませた。