大砂嵐
すこし暗いです。
ヒタイト帝国内に戻ったスミュルナ王子は、大砂嵐対策の指揮をとっていた。
「ルウカ、境界と牢の警備を厳重にせよ。見張り台の者たちは体調に影響の出ないよう、こまめに交代させてくれ。第1の夜警所と、中間の夜警所を巡回し、火を消すように徹底させよ」
「はっ」
「イムホテプ、医師たちの統率を頼む。薬を調合して備蓄を増やしておくように。特に喉の薬と目薬を多く」
「はぁーい」
「女官長、食料や布の在庫は充分だと言っていたな。屋敷のすべての戸締まりを再確認してほしい。幼い子供や病人、高齢の家族を持つ侍女たちを早々に帰宅させるように。同時に各地区の井戸の蓋が緩んでいないか、孤立している家がないか、兵士へ報告させよ」
「承りました」
それぞれの指示を受けて、皆が小走りに執務室を出ていく。
ただひとり、ルウカは立ち止まってスミュルナを振り返った。
「殿下、見張り台の者にリン姫たちの居る方向を注視させましょうか」
「…いや、ここから見える距離ではあるまい」
スミュルナの秀麗な顔に渇望が浮かぶ。
「そのかわり、嵐の収まる兆候が見えたらすぐに知らせてくれ。一刻も早くリンを迎えに行けるように」
「御意」
カッカッ。
黒板にチョークで書くときの音がする。
その音に惹かれるように、霖は廊下を進んでいるところだった。どこかで見たような校舎だが、思い出せない。
(さっきまでスミュルナと天幕に居たのに)
戸惑う心をよそに、体は歩みを止めない。
周囲を見ると、いつもより目線が低いことに気付く。まさか、と手足を見ると、幼い頃のように縮んでいる。
(え、どうして?)
驚きのあまり立ち止まろうとした霖の手を、いつの間にか事務員らしき人が握っている。
「案内はここまでで良いですね?そこの突き当たりが藍田教授のゼミですよ。もうすぐ終わりますから、扉の前で待っていてください」
手を離される。胸のプレートにR大学と書いてあった。父が勤めていた職場だ。
(研究に没頭して忘れ物をよくしていたから、お母さんがよく届けに行ってた)
兄の体調が悪いときは、看病する母の代わりにお使いで来たことがある。扉のガラス越しに、黒板に板書する背中が見えた。
発掘先で行方不明になって以来もう何年も見ていないのに、それが父だとすぐにわかった。
廊下と研究室を隔てる扉が少しだけ開いていて、声が漏れ聞こえる。
「───あの世の食べ物を口にいれてしまうと、かつて過ごした世界から隔絶される。そういった描写はいろんな神話に出てくるんだ。
例えば、日本神話のイザナミノミコトが有名だね。現世に連れ戻そうとする夫イザナギノミコトの誘いを、黄泉戸喫のせいで帰れない、と断るんだ」
生徒が手を挙げる。
「ギリシャ神話にもありますよね?冥界神ハデスが、地上に帰ろうとする愛しい女神に果実を持たせたという」
「12粒の果実だね。道中で空腹になった女神は、そのうち4粒を食べてしまった。そのせいで1年のうち4ヶ月を冥界で過ごさなくてはならなくなり、それが冬の起源だというものだ。
他にも、アッカド神話では神に喚ばれたアダパに対して、父エアが“天空で提供されるどんな食物にも手を出すな”と忠告する場面がある。
神話に限らず、今まで君たちが暮らしてきたなかで、似たような話を聞いたことはないか?」
生徒が次々に意見を出す。
「アダムとイブの林檎はそれに当てはまりますか?」
「先生、アニメ映画にもありましたよ。“千となんとか”のなかで主人公の両親が姿を変えてしまうんです」
「それは興味深いな」
父は穏やかに微笑んで、意見をレポートに纏めるよう生徒たちに課題を出す。
そこでチャイムが鳴る。
廊下にいる霖に気付くと、父は足早にやって来た。
(だいぶん若い…)
最後の記憶に残る姿はもう少し小皺があった。でも、すまなそうに頭を掻く癖はそのままだ。
父に対して言いたいことはたくさんあったのに、言葉にならない。目に焼き付けるようにじっと見上げる。
「今日は何を忘れていたかな?───弁当か」
「うん」
霖の手には弁当箱が現れていた。幼い腕でそれを精いっぱい持ち上げる。喜んでくれると思ったのに、何故か父は悲しそうに首を振った。
「霖、それは食べれないよ」
「どうして?美味しいのに」
「だってそれは、黄泉の食べ物じゃないか」
(え?)
途端に重くなる腕。弁当箱を取り落とす。
開いた蓋のすきまから黒い靄がもったりと流れ出た。
(ひっ)
それは縄のようになり、霖の体に巻き付いた。
身動きしてもほどけない。助けを求めるのに、父と霖とを隔てる扉が現れた。研究室に戻った父はチョークで黒板を指す。
「霖、あの世の食べ物を口にしたね?もう現世へは戻れないよ」
(そんな!嫌よ!)
叫ぼうと口を開けたのに、声が出なかった。
手が届かない。
廊下が伸び、扉がどんどん遠くなる。
「インンイエッ(行かないで!)」
自分のくぐもった声で、霖は目を覚ました。
口のなかに布のような歯触りがある。
(猿轡ってやつ?どうして?)
カッカッと近くで音がする。
さっき聞いた音だ。
ギョッとして体を起こそうとするのに、自由がきかない。腕も足首も縛られているようだ。
「…目覚めたか。眠っているほうが楽だったろうに」
声のほうへ首を動かすと、屈強な男───スミュルナの部下である分隊長が、こちらを睨んでいた。
(どうしてこの人がここに居るの?スミュルナやイムホテプたちは何処に行ったの?)
首を少し動かすだけで、すべてが視界におさまるような狭い小屋。なぜそんなところに二人きりなのか。
「期待しないよう言っておくが、他の者は別のところに居る。まあ、俺もここには居なかったことにするがな」
男が旅装を解いていないことから、おそらくまだヒタイト帝国に着いていないと思われた。
カッカッと火打ち石が鳴る。
(夜営の準備?)
ようやく点いた火種を、分隊長はあろうことか屋内の隅に投げやった。麦藁が積まれたところへと。
煙が上がる。
「おまえを斬るのは簡単だが、太刀筋でバレないとも限らない。
火の不始末のせいで死んでもらう。もし叫んだとしても、周囲には何もない」
男は霖の荷物からヴェールを取り出した。背格好の似た者を雇い、アリバイ工作に使うためだった。
「そのうえ外は大砂嵐だ。誰も助けには来ない。もちろん、スミュルナ殿下もだ」
戸が固く閉じられる。
呆然とする霖は、出ていく背中を見送ることしかできなかった。
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