呼吸
「それは、許さぬ」
霖は、トゥトの言ったことが信じられなかった。
今まで、トゥトには何度も助けられた。言葉足らずなときも、空気を読まないときもあるけど、根は優しいと思っていたのに。
「どうして…」
「リンを守るとは約束したが、リンの周囲の者を助けるとは言っていない。特に、病気や怪我を治すだけならともかく、死者をよみがえらせることは許されぬ」
「軽々しく言わないで!まだ助かるかもしれない」
霖は怒りに声が震えた。
こんなことをしているあいだに時間は過ぎてしまうのに。時間の経過と生存率のグラフが脳裡によぎった。
トゥトに背を向けて王子に向き合い、心臓マッサージを始める。
通路を脱出する寸前、水中で強く抱き寄せられたのを覚えている。迫り来る扉の残骸が当たらぬよう、庇ってくれたんだと思う。ヒタイト語が話せるようになってから、まだ王子とはろくな会話をしていない。御礼も言えていない。
霖のまわりを、トゥトが飛び跳ねる。
「王子に惹かれておるのか?これ以上触れれば、もとの世界へ戻りにくくなるぞ」
「………」
人に囲まれて生活しているのに、心を動かさずにいるなんて、無理だ。ここが現代世界でない、“イアルの野”であっても。家族や数少ない友人以外で、こんなにまっすぐな好意を向けられたことはない。
霖のひたいに大粒の汗が浮かぶ。人工呼吸をし、息を整える間もなく上半身の重みをかけて王子の胸を押す。これで合っているのか不安になりつつ、喋る余裕は無かった。
大きな喉仏は、まだ動かない。
肘がガクガクするのを、堪えて力を込める。
戦う姿が始めは怖かったけど。王子の武力が無ければ、地下通路を脱出することは出来なかった。
屋敷に囲われているようで、それが嫌で逃げだして来たけど、「嫌です」「働かせてください」と霖は周囲に意思を伝える努力をしていない。
女官長が驚いたみたいに、もしも自分がもっと若く見えていたのなら、保護されるのも無理はなかったのかもしれなかった。
スミュルナ王子ともっと話したい。何を考えているかを知りたい。
でも、もともとトゥトとは「恋愛禁止」と約束していた。
トゥトだって霖のためにたくさんのことをしてくれたのだ。他にも思惑があるのかもしれないが、それは人間と違うものを見ているからかもしれない。
日本に帰りたい気持ちは変わらない。でも、だからってただ言われるのを盲信するのは違うはずだ。だって自分のことなのに。
今までは、どうしてトゥトがそう言うのか、詳しい点を煮詰めず、妥協点を探すことさえしなかった。トゥトと、もっと具体的な話をしなければ。
10分ほど過ぎた頃だろうか。スミュルナが身じろぎした。
「ウッ、ゲホッゲホッ」
水が吐き出される。まだ意識は朦朧としているようだが、霖の姿をとらえると、王子がかすれた声で聞いてきた。
「大丈夫か?」
「はい、大丈夫です。助けていただいてありがとうございます」
安心したようにまぶたが閉じられていく。呼吸は安定しているので、眠ったのだろう。怪我している場所が頭なので、なるべく動かさないまま楽な姿勢をとらせた。
霖は脱力したように傍らに座り込んだ。もとからびしょ濡れなので構わない。足がジンジン痛む。
「ねぇ、トゥト」
「なんじゃ」
「言えないこともあるだろうけど、私、もっと知りたい。心が癒されたら現世に戻るって、どういうこと?
例えば、こちらで幸せだなぁって思ったら、むこうへ即座に帰るの?それがもし、ちょびっとだけ美味しい料理を食べて嬉しいとか。会話が出来て嬉しいとかでも“癒された”になるわけ?」
「……リンの幸せは簡単じゃの」
「たとえばの話よ。もし好きな人ができたとして、それが両想いでも片思いでもダメなの?」
「最悪交わらなければもとの世界へ返せるが、重体の状況は変わらない。助かる確証は無い」
「真名で私を呪ったの?」
「そなたの居場所を確認するためじゃ。解釈によっては、呪いとも加護とも言えるだろう」
霖はスミュルナを見た。
「私、もう少し彼と一緒に居たい」
「…この世界では身分が違う。しなくてもよい苦労をするかもしれぬ」
「そんなのわかってる。たいそうなことを望んではいないの。ただ、近くに居たい。もっと話したい」
「王子が我慢出来ずに触れてきたらどうするのじゃ」
「それはそのとき考える」
今の王子なら霖の嫌がることはしないと、信じられる気がした。
トゥトは呆れたように首を振る。
「そなたは、男というものがわかっていない」
「それは、確かにそうだけど。トゥトこそ人間のことをわかっていないよ」
「精霊だから当たり前じゃ」
「私がトゥトに感謝しているってことはわかってくれる?」
「…」
「いつも気にかけてくれてありがとう。でもね、トゥトがわかることも私には分からないことばかりなんだよ。
この世界へ渡る途中までは、天秤が傾くのを防ぐために、見ることも話すこともダメだって言ってたよね」
トゥトの顔から表情が抜けた。まるで、トキの彫像のようだ。
これ以上踏み込んでよいのかはわからない。見放されるかもしれない。でも、わかってもらいたくて、言わずにはいられなかった。
「ほんとは、私はここに存在したらいけないの?それで世界に悪影響を及ぼしたりしてるの?だから、なるだけ人と深く付き合わないように、でも本当の理由を言えないから恋愛禁止なんて言ったんじゃないの?」
トゥトは何も言わなかった。否定しないのは肯定と同じことだ。
「人とまったく会わずに、何も食べず、何もしゃべらずに過ごして、本当に傷が癒えるのかな。体と心って、別々なようでもっと密接な関係にあるんじゃないの?
わたし、日本に居たときも人と深く付き合うことはなかったけど、それに関係なく幸せにも不幸にも遇ったよ。
助けられてばかりの私が言える義理じゃないけど。本当のことを言えないからって、トゥトにばかり負担がいくのも嫌だ。でも、人の居ないオアシスの中だけで過ごすのも心が死んじゃうんだよ」
我が儘を言っている。あれもイヤ、これもイヤって子どもみたいだ。でも、伝えないと、伝わらない。たとえ受け入れられなくても、はじめからわかったフリをして従うのは嫌だ。
「お願い、トゥトに負担のないように、スミュルナ達に迷惑をかけないように、日本に戻るまで出来るだけそばに居られるように、私がここではどんな存在なのか、教えてほしいの」
見定めるような視線を向けられる。感情のない目でトゥトに見られるのは、初めてだ。
「…“イアルの野”の真理を覗いたくせに、望むのはそんな些細なことか。残念な奴じゃな」
「わたし、本当は我が儘だし諦めが悪いのよ」
泣くことだけはするまい、と霖は胸を張った。
トゥトはその指を見た。
震えていない。無理をしているわけではないのか。
涙を流したり笑ったわけではないのに、傷ついた魂がすこし輝きを取り戻して見える。人間とは、いや、リンは面白いものだ。もう少し情報を渡してもよいと、判断した。
「わかった、教えよう」
「!ありがとう!」
霖は抱きついた。久しぶりのモフモフをなかなか手放せない。
「こちらも言わせてもらうがな、そなたは触りすぎじゃ!」
「うんうん、わかったわかった」
「聞け、放さんかっ」
「殿下ー!リーン!居るかー!」とイムホテプの声がする。
霖はトゥトを抱いたまま立ち上がった。
イムホテプと商人代表の姿が見える。何故か小舟を牽いており、そこには拘束された男が数人乗せられていた。
手を振ると、イムホテプが走り出す。
警戒したトゥトが翼を広げる。
「また、落ち着いたころに話そう」
「必ずよ」
トキは空高く上がった。
「ああ、必ず。───聖樹の呪し児よ」
トゥトの呟きは、再会を喜ぶ歓声に重なって、霖の耳には届かなかった。
昨夜アップすると言っておきながら、半日以上遅れて申し訳ありません。入力しながら眠ってました(三度目)。消えてなくてよかった。
さすがに信頼無くすし、待たせてしまった間もブックマークを外さずにいて下さった方、呆れずいま読んで下さっている方、みなさまへの感謝を込めて明日の夜も更新します。
いつも本当にありがとうございます。
アシリア篇は次話で最後です。
心から感謝を。




