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落下

 「リン!」


 スミュルナの伸ばした手が、愛しい女性を捉えた。

 もう二度と離れぬよう、しっかりと抱きしめる。


 落下するあいだほんの数秒の出来事が、ひどくゆっくりに感じられた。

 

 真横を棚の欠片や布が落ちてゆく。

 周囲の壁の、石のひとつひとつがよく見える。

 鉄剣は足場になったあと抜けてしまったらしい。


 石壁に少し出っ張ったところがあった。

 片手を伸ばし、指先をかける。 

 爪に血がにじむのも構わない。


 しかし、二人分の衝撃に耐えきれなかったのか、掴んでいた石はガガッと音を立て──壁から剥がれてしまった。


「殿下、リン!」イムホテプが叫ぶ。

 将軍が真下に飛び出した。


「俺が受け止めよう」

「あんた馬鹿?無茶よっ!」





 みるみる地面が迫る。他の手を打つには距離が足りない。

 スミュルナは落下しながら、リンへの衝撃を少しでも減らそうと、その頭を胸に抱え込んだ。

 

 その時。


 視界の端に白い物が映った。

 先に落下していた白い布が、ふうわりと広がる。

 風もないのに、まるで下から吹き上げられたかのようだった。白い布はスミュルナの上まで浮き上がり、はためきながら下降し始めた。


 自分と同じ速度で落ちるそれを、スミュルナは思わず掴んだ。

 すると、するすると布の四隅が手のひらに集まってきた。大きな袋のように空気をはらむ。

 明らかに落ちる速度が緩やかになった。


 タタンッ、と着地にしては軽い音が響いた。

 皆、何が起きたのかわからず茫然としている。


 スミュルナだけにはわかった。

 あのオアシスで見た現象が、また起きたのだと。こうやって手に囲っているのに、まるで自分だけでは守り切れぬと、突き付けられているようだった。


 それでも、この温かな存在を手離すことは考えられない。抱きしめる腕に力を込めた。彼女を守るためにも力をつけようと、決意を新たにする。


「ああ、なんてひどい顔色なの」


 王子は心中を言い当てられたかと思った。でもイムホテプが見ているのはリンだった。

 確かに、リンの頬には赤みがなく少し痩せたように見える。


 布を敷き、そっと床に寝かせる。イムホテプの診察が足首に及んだところで、痛みに意識が引き戻されたらしい。


「う…」


 少しぼんやりとしているが、状況は飲み込めているようだ。リンの様子に一同がホッとする。 






 一方、暫定王は歯噛みした。

 何もかも思うようにならない。

 射られた足の傷に構わず、側妃に向かった。数度矢を受けたが、どれも致命傷ではない。


「弓矢を寄越せっ!」

「嫌です」


 側妃は弓の名手だったが、接近戦は腕力に劣り不利だった。強引に武器を奪いとられる。


「これで前王を射ってくれよう」


 暫定王は持ってきていた大きな灯りを手元に置いた。

 身を乗り出し、弦を引き絞る。

 しかし、まだ矢を放ってないのに風を切る音がした。


『陛下への侮辱はゆるさぬ!』


 真下の薄闇から、ものすごい勢いで剣先が現れる。

 将軍が大剣を投擲したのだ。無助走で投げるだけでも難しいのに、数十キュビットの距離を。桁外れの臀力だ。

 

「グアアッ」


 避けきれず暫定王は肩を砕かれた。

 砂埃を立てて後ろに倒れる。


 そこへ、扉がバンッと開き、側妃陣営が流れ込んで来た。


「この反逆者を捕らえよ!」


 側妃は指示を終え、素早く穴へ走り寄った。


「陛下!御無事ですか?!遅くなり申し訳ありませぬ!」

「良いのだ、大儀であった。

 怪我は案ずるな。増援もあったのでな」

「増援?そういえば先ほどスピュルマ将軍の声が…」

 

 灯りをかざして薄闇を覗く。底にいる面々に納得した側妃は、愛用の弓を回収し「壁から離れてください」と言うやいなや、矢を穴へ放った。矢尻に縄が結んである。余った縄の端を兵士達が持った。


「将軍、縄を落としました。陛下をお抱えして自分とともにそれを結びなさい。今から引き揚げます」

「危なっ!!もっと確認してから矢を放ってくださいっ」



 将軍と美女のやり取りに、りんはあっけにとられていた。

 横で穏やかに笑っているご老人が“陛下”だろうか。霖とイムホテプに潜入を依頼した商人代表が苦笑している。


「お前は猿のように素早く防ぐから大丈夫でしょう?それに、お強いヒタイトの王子殿下もいるし」

「余計悪い、国際問題ですぞ」

「陛下のご指示があれば友好の証に嫁ぎましょう」


 スミュルナは弓矢を避け霖を手中に庇ったまま、綺麗な笑顔で答えた。


「謹んでお断り申し上げます」

「また私を拒むのですか。心をもてあそんで」

「人聞きが悪い。縁談ではなく弓の試合を断っただけです」

 

 霖は王子を間近に見上げた。

 ヒタイト国で抱き締められたときとは違い、恐怖心が湧かなかった。ためらいもなく庇ってくれる姿を見たからだろうか。白い布で霖をくるみ、触れる際も思いやりを感じた。暫定王とは違う。


 霖は暫定王に襲われかけ、穴へ突き落とされたのを思い起こした。

 いまさらながら身震いする。

 

 それに気付いたスミュルナが心配そうに霖を見つめた。


「大丈夫か?寒くないか?」


 美しい顔をアップで見て、いつもなら慌てるところなのに、霖はおとなしくコクン、とうなずいた。ターコイズブルーの瞳には明らかな気遣いが浮かび、見惚れてしまったのだ。


 傍らに立つイムホテプは、王子と霖の顔を交互に見た。「あとで説明しなさいよぅ」と肩をすくめる。アシリア兵に変装しているけど、女言葉は変わらない。

 それを聞いて安心する自分が、霖はなんだかおかしかった。


 将軍とアシリア国王が地上に戻されると、駆けつけたスミュルナの部下が穴を覗いた。


「殿下」

「首尾はどうだった」

「先に来ていた者たちと合流しました」


 ヒタイト国王が潜入させ、行方がわからなかった諜報員も無事らしい。難を逃れた高官や属国の大使を追跡していたのか。連絡が取れる状況になったのだろう。


「そうか、残党に気をつけ…」


 スミュルナの声は側妃陣の伝令に遮られた。


「報告します!アシリア王宮書記官が連行中に逃走しました!」

「なんですって?!

 今回の首謀者ですよ、せっかく捕まえてもらったのに、どちらの方向へ逃げたのですか」 

「それが…城外ではなく」


 王宮書記官の不可解な行動に側妃は首をかしげた。アシリア国王は厳しい表情になる。


「もしや、この通路について書かれた古文書を見たのか。

 これはいかん。早く王子殿下方を地上へ」


 スミュルナ達は素早く立ち上がった。霖は立てずに肩を借りる。

 まだ遠いが、穴と通路をつなぐ扉の向こうから、ドドドドッと不穏な音が響いた。


 





 

 








 

 


 









大変遅くなり申し訳ありませぬ。


落下した先は地底か恋か。


アシリア篇はあと2、3話で終わるかと。その後も続きます。相変わらず不定期亀更新ですが、呆れずお付き合いいただければ幸いです。


更新できないあいだもブックマークが減らなかったことにとても励まされました。本当にありがとうございます!読んでくださるすべての方に感謝申し上げます。

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