ひかり
本日午後二時過ぎに誤字訂正しました。
新しい端末に慣れておらず、修正が多く申し訳ありません。
アシリア国王陛下は、ここへ来て数週間が経つらしい。将軍の携帯食を唾でふやかすようにしてゆっくり味わっている。
「お痛わしい。ここに手引きした者は何をしているのですか」
「そう怒るな、将軍。彼女らはワシが見つからぬよう警戒してくれている。援軍の編成に奔走する者もいる。
糧食も多少は持たされていたのだ。報告と補給が途絶えたのは少し前だ」
直答をゆるされた商人が心配そうにたずねた。
「原因は何ですか?」
「なんでも、目を欺くために散らかった部屋の下を選んだのに、要人が住み始めたらしい。泣き寝入りさせ、早々に追い返すはずが、若い娘にしては予想外に我慢強く、暮らしやすいよう片付け始めてしまった」
イムホテプは嫌な予感がした。
しかし、あの部屋に階段らしきものはなかったはずだ。それに、自分はアシリア兵士に変装している。まだ王には随行人イムが自分だとは露見していないはずだ。
黙って治療を続ける。
「様子をからかったり、詮索する侍女たちが周囲に増えてなぁ。片付けが進むとそれも減ったが、今度は住人が室内で過ごす時間が増えた。貴人だけに理由もなく追い出す訳にはいかん。部屋の汚さで侵入の痕跡を誤魔化すこともできん。
人手の足りぬ後宮も安全とは言えぬから、監視の手間を少しのあいだだけ省こうとしたのが裏目に出た。
人目を避けて移動したり補給するのが難しくなった、と最後の報告にはあった。食糧をもらう寸前で住人が戻りそうになっての。以来、機会を伺っているのだろう」
イムホテプは気になった他のことを訊く。
「彼女とおっしゃいましたね。助けたのはもしや」
「ほう。そなたは医術だけでなく情報にも聡いとみえる。そう、息子…暫定王の側妃じゃよ。さまざまな噂を流しておいたのに、よく辿りついたな。真実にも、この通路にも」
アシリア国王は温厚な雰囲気のまま、目だけが鋭かった。将軍と商人もハッとイムを見た。
最初に通路を見つけたのはこのヒタイト高官だったのだ。将軍すら牢獄に何かあるのでは、とあやしんでいたが確証はなかったのに。
三人の視線を受けても、イムホテプは悪びれもせず飄々と答えた。
「さるお方に聞いたことがあるのです、アシリア城の地下には秘密があると。てっきり宝があると思い、軍資金を稼ぐつもりでしたが。宛がはずれました」
将軍が剣を抜いた。目の前の男は、盗人だと堂々宣言したのだ。ここまで連れて来られた恩はあれど、見過ごせない。
剣先がイムホテプに向く。
「やめよ」
「しかし…」と渋る将軍を王が諭す。
「そなたがそのように直情的だから、作戦からはずしたと側妃が言っておったぞ。ワシも同意見じゃ。忠義には感謝しておるがの」
高名な将軍が一兵卒として城にとどまるから油断を誘えたしの、と王は呟いた。えげつない。
「忠義に感謝」を泣いて喜ぶ将軍には聞こえなかったようだ。イムホテプと商人の男は黙っておいてやることにした。
「こちらからも質問しよう」と王が姿勢を変えた。だいぶん痛みが楽になったようだ。
「さるお方とは誰ぞや。この通路のことは限られた者しか知らぬはず」
「それは…」
口ごもるイムホテプ。
そこへ猫の鳴き声が響いた。
にゃにゃ~
振り返ったイムが素早く縄を引く。
扉が開き──秀麗な青年が足音もなく入室した。苦い表情をしているが、少し耳が赤いのは誤魔化せていない。
「イムホテプ、お互いもう良い年なのだから、ほかの合図を考えてくれ」
「ククッ、了解しました。殿下」
一転、王子は冷静な面持ちに変わる。優雅な仕草で礼の姿勢をとった。
「ヒタイト帝国のスミュルナでございます。剣の取り引きに参りました」
あっけにとられたアシリア陣のなかで、眼帯の商人が最初に立ち直った。“取り引き”という言葉に反応したらしい。
「この状況で、取り引きですか。救出ではなく?」
「はい。ヒタイト帝国王からは、鉄剣について現状にふさわしい取り引きをしろと言われております。救出なんて大それたことはとてもとても」
商人の代表者は舌を巻いた。若いのに、なかなか食えない王子だ。
聡明なだけでない。苦境を越えた者だけが持つ、ふてぶてしさがあった。
アシリア国王は懐かしげに目を細めた。
「大きゅうなったな、王子よ。そうか…そなたは我が息子と仲が良かったな。通路のことも聞いたのだろう」
「はい」
亡くなったアシリア国王太子のことだ。遠いので頻繁ではないが、互いの式典に列席した際は飲みに誘う間柄だった。
スミュルナは瞑目した。
「アシリア国で私が暗殺されそうになったと聞き、王太子殿下がともにこの通路に逃れて下さいました。
素晴らしい方でした。残念でなりません」
「ありがとう」
アシリア国王はスミュルナを見た。まぶしく成長したものだ。彼が敢えて“取り引き”と言ったのは、簒奪にヒタイト帝国が糸を引いていると思われないためだろう。救出となれば、何故武器を持ち込んだか勘ぐられる。
援軍の準備はそろそろ整う頃だ。属国の兵士や、不当に罷免された高官たちが城を囲む日も近い。怒りを向けられる危険性を排除したようだ。
もし我が王太子が生きていたら、スミュルナと肩をならべ、穏やかな治世となっただろう。この肥沃な地域は大国ケメトとも張り合えたに違いない。
王は首を振った。悲しむのは後でもできる。
「悲しいことばかりではない。孫がもうすぐ産まれるのだよ。王太子の子だ」
「おめでとうございます」
「ありがとう…そこでだな」
鉄剣の購入を勝手に決裁したのは暫定王だ。しかし、国同士では“あれは手違いでした”では済まされない。
国王はしれっと言った。
「出産祝いに値引いてはくれぬか」
「ご冗談を。最近材料が手に入りにくくなりましてね。ほうぼうから資材を取り寄せるぶん、価額を割高にしております」
応酬を始めた二人のそばで、イムホテプは内心悩んでいた。
リンのことが気になる。
アシリア国王の警護はあくまで、王のためのものだ。もし先ほどの場所がリンの部屋だとしても、彼女は監視対象であって護衛対象ではない。誰も守ってはくれないのだ。
無礼を承知で、会話中に声をかけた。
「殿下、少々おそばを離れてもよろしいでしょうか。迎えに行きたい者がいるのです」
スミュルナはアシリア国王の息が落ち着いているのを視認した。血が流れ過ぎたのか顔色が悪い。あまり話し込んではいけないだろう。
イムホテプが離れるのは、急変する恐れは無いと診断したということだ。
「ああ、弟子と合流するのか?今度紹介しろよ。
王宮書記官は縛りあげて執務室に縛り置いてきたし、部下たちもやがて上から合流する手筈だ。行って良い」
「は」
主従というより友人のような会話に、将軍と商人は驚いた。王は穏やかに微笑んでいる。その顔を、わずかな光が照らした。頭上から光が射したのだ。
ギギギギーッという音が響き、
ドズンッと揺れた。
入り口を塞いでいたものが落ちたのだ。
動揺する一同をアシリア国王とスミュルナが目で制した。
割れ鐘のような声が降って来る。
『何だ…』
「暫定王ですね」と商人が囁く。「ヒタイト語だ」と将軍。暫定王の母親の祖先は昔の戦争捕虜だった。母国の言葉を教え伝えていたのか、と国王は思った。
『…か?おい、お前覗いてみろ』
『痛い!離して』
女性の声に、イムホテプとスミュルナは弾かれたように上を見上げた。ようやく明るさに目が慣れた。
王子は驚きのあまり声も出ない。
「リン姫君」
「リン!なんで暫定王が」
商人とイムの小声も、王の頭上への呼びかけも頭に入らない。ただ、待ち焦がれた少女の姿に釘付けになった。
長い黒髪が舞う。
愛しい相手が頼りなく宙に投げ出される。
その場の誰よりも速く王子は動いた。
瞬時に鉄剣を抜き、壁の上へ投げる。
石と石のあいだに深く刺さったそれの柄に手をかけ、身を持ち上げた。そして剣を踏み台にして跳躍する。
届け!
王子はリンへと腕を伸ばした。
予告より遅くなって本当に申し訳ありません!
やっと周囲の人物たちが本筋の展開に追い付きました。
読んでくださる皆さまに深く感謝。




