ある一夜
スピュリマ元将軍は、狭苦しい牢獄の中でますます大きく見えた。
巨体に似合わぬ素早い身のこなしで近付くと、イムホテプを睨む。そこには荒くれ兵士たちの前で見せた気弱さはなかった。
「いつから気付いていた」
「狙いがわかったのは先ほど。疑問に思ったのは出逢った日です。
初対面でしたが、将軍の高名は諸外国に知られてますから。穏健派のアシリア王に長く使えた忠臣が、物的な証拠もなく外国官僚に喧嘩を売るなんて、不自然だと思って」
壁を触りながらイムホテプは続ける。
「暫定王が王位を簒奪したのなら、先代の臣下が仕えるのもおかしな話です」
「…ぶな」
「え?」
「陛下に刃を向けた、あんな男を王と呼ぶな!!」
怒りのあまりに、将軍は壁を叩いた。堅固なはずの煉瓦からパラパラと砂が落ちる。
それを見て独眼の男が窘めた。
「王族の方々の不幸はイムからの報告書にありました。心中お察ししますが、ここで口論するのは得策ではありません」
イムホテプも同意する。
「人が来ないよう細工しているが、さすがに朝まで居なければ怪しまれる。壁を壊すのを考えれば、時間が無い」
イムホテプは日干し煉瓦の数カ所に短剣で印を付けた。
「その筋力を役立ててもらいましょうか。将軍」
イムホテプたちが牢の一角で壁を壊しているころ。アシリア暫定王は、いつものごとく浴びるように酒を飲んでいた。
クーデターが成功した初めのころは、すべてのことが真新しく楽しかった。自分の気に入った者だけを置き、崇められ、贅沢な食事をし、愉快な生活が続くはずだった。
父王の代わりに決裁をするのも、自分が権力者になった実感を味わえて嫌いではなかった、日に日に政務の量が増えるまでは。
反抗する者たちを大勢捕らえたせいで、しわ寄せが来たのだ。
「仕方ない、軽微な罪の者を復職させるか」
「暫定王陛下、お言葉ですが囚人を減らして後宮を充実させよと先日命令されましたよね。もうほとんどがおりませんよ。だから万事お任せくださいと申しましたのに」
クーデターの共犯者である腹心の部下が、慇懃無礼な態度でそう答えた。一瞬斬り捨てたくなったが、王宮書記官である彼が居ないと国政が回らなくなるのもわかっていた。暫定王は不服そうに鼻を鳴らす。
「ふん、偉そうに言っておるが、お前のほうこそヒタイト帝国から鉄を手に入れる算段はどうなっておるのだ」
「いま交渉中ですよ。さすが老獪なヒタイト王は思うように動いてくれません。
帝国とのつなぎ役だった市長は失職しましたし。ヒタイト軍と商売をしていたタムカルムを間諜に仕立てて抗議しましたが、反応がありませんね」
「もう用済みだろう。暫定王みずからが斬ってくれよう」
「商人の代表者から正式な抗議が来ましたので、今後のことを考えますと生かしておいたほうが良いかと」
「では、タムカルムだけを生かして隊商の者は処刑せよ」
「時期が来ましたら」
曖昧な返事にイライラして、暫定王は杯を重ねた。こいつ最近助長しているな、鼻をあかしてやりたい、と思った。
「ヒタイトと言えば…辺境伯の娘の身分確認はとれたのか」
「申し訳ありませぬ、それにつきましてもまだ返信がございません」
「別に構わん。たとえ姫ではなく刺客であろうとも、あの細腕で俺を傷つけることは出来んさ」
「まだ辛抱くださいませ」
「それでは何か、後宮の人員が他に増えたのか?
酌をするのも初めは美女だったのに、今では年老いた下男や侍女ばかり。美貌のイムとやらを捕まえることもできん。罪人を斬ることもできん。どこで不満を晴らせというのだ」
部下はあからさまなため息をついた。
用意した物慣れた美女たちも、節操なく寝所に連れ込まれ、時に暴力を振るわれることが知れると来なくなった。いま酌をしている年配の者さえも嫌がって、当番制にしてようやく集めたのだ。
華々しい外交や他国との攻防に活躍できると思ったのに、事態は甘くなかった。ヒタイト帝国やケメト国に親書を送っても軽くあしらわれている。警戒され静観されている状況だ。
しなければならないことは山積みになっているのに、王の酌まで世話しなければならないとは。同僚に仕事を振り分けようにも、人数が減ってしまっている。味方にもかかわらず、暫定王の勘気に触れて負傷した者が多いのだ。
愚かとは思っていたが、想像以上であったな…。愚王であれば傀儡として操りやすいと思ったのだが。
王権を簒奪したからにはもう舟から降りることはできない。それがたとえ泥船であったとしても。
せめて、足を引っ張らないで欲しいものだ。
王宮書記官は苦言を述べた。
「まだ閨に呼んではなりませんぞ。御身を大事になさいませ」
「ああ。まだ呼びはしないさ」
こちらから赴きはするがな。
暫定王はリンの珍しい容貌を思い出し、いやらしい笑みを浮かべた。
時をさかのぼること数日前。
アシリア国に入国した隊商があった。ハビロニアから毛織物を運んできたという彼らは、見回りの兵士に見咎められないよう上手に立ち回りながら、精力的に動いていた。
今年の織物は特に出来がよく、高値で売りたいからだという。
そのハビロニア商人たちは街の裏通りに宿を取っている。
見張りを置いた一室で、商人に扮した部下たちの報告に耳を傾ける、秀麗な青年がいた。ヒタイト帝国の第二王子、スミュルナである。
商売は表の理由であり、彼らの狙いはアシリア国の実情を探ること。そして大量の錫の在処を調べることだった。
「アシリア国の高官が治める領地が、荒れているそうです」
「領主が城から帰って来ないとか」
「属国からの貢ぎ物が途絶えていると聞きました」
「若い娘たちは外出を控えて、特に城には近づくなと言われているらしいです」
スミュルナは次々に指示を出す。
「荒れている領地の正確な数と場所を確認しろ」
「いつから帰っていないのかを訊ねよ」
「それぞれの属国の使者の行方を追え」
「外出禁止の発端になった事件がないか調べよ」
先に潜入しているはずのイムホテプの消息も気になった。楽師として隊商に混じり、成り行きで弟子をとってアシリア国を目指すと報告を受けていた。しかしその後の便りは無かった。
スミュルナが王都を早く発ったせいで、どこかで入れ違いになったと思われる。
「やはり城内で変事があったと見るのが妥当だろうな。これだけ探してもイムホテプの情報が少ないということは、おそらくあいつも城に居るのだろう」
熟考したのちに、スミュルナは荷物の準備をした。自分も含めて、服装を変える。
「ルウカ、お前はここに残り我々に情報をつなげ。資金にケチはつけない、地元の商人や有力者に接近しろ」
「殿下はいかがなさいますか」
スミュルナはターコイズブルーの瞳に強い意思を浮かべた。
「アシリア城に、正面から入城する」
大変遅くなり申し訳ありません。
に…二千字まで書いたところで画面が真っ白になり…私の頭の中も真っ白になりました。バックアップを覚えようと思います。
相変わらず不定期亀更新ですが、呆れずお気軽に呼んでいただければ幸いです。
累計10000アクセスありがとうございます!続けられるのは読んでくださる方がいらっしゃるからです。ブックマークと評価をいただいて大変励みになります。
これからもどうぞよろしくお願い申し上げます。
次話、アシリア国。
暑い折、どうか皆さまお体ご自愛ください。
お盆中に更新する予定です。




