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忘れられた部屋

 少し長めです。

 案内された部屋のあまりの汚さに、りん)は絶句した。

 久しぶりに扉が開けられたのだろう。新しい空気が入るのと同時に、ものすごい量の埃が立つのが見える。


 老女が無愛想な声とともに荷物を投げて寄越した。侍女用の質素な服のようだった。


「あんたの花嫁修業は、全部の仕事が終わってから始まるからね」


「仕事、ですか?」


「この部屋の物をすべて1人で片付けるのが仕事さ」


 ざっと見回して20畳ほどの広さに、立ち並ぶたな)、棚、棚。

 そこには古びた布や器などが雑多に置かれている。これを整理したからといって、再利用出来るとは思えないくらいの古さだ。


 黙り込んだ霖を見て「姫様はこの扱いが不服かい?」と老女がわら)う。 


「今は人が足りなくてね。あんたの教育を、ありがたくも側妃様がなさるんだ。

 毛織物が欲しければ銀を払うだろう?それと一緒で、教えて欲しければ対価として後宮のために働くべきだ、という話になったのさ。出来なければ、随行人のイムとやらに泣きつくかい?」


 通常の修業であれば、もっと過ごしやすい部屋の中で、きさき)たちの世話をしながら覚えていくものだ。仮にも姫として育ったならば、もっとまともな待遇を求めるはず。


 もし癇癪を起こしたら、これ幸いにイムを後宮に呼び出すように、と王から指示を受けてのことだった。


 不遇に落ち込むかと思ったら、霖はふいにヴェールを上げた。


「なんだい、文句でもあるのかい」


「…いいえ。あなたは、どのような仕事をなさっているんですか」


 大きな瞳がジッと老女を見ている。

 吸い込まれそうな黒色だ。


 そこには怒りも蔑みも浮かんでいなかった。せめて悲嘆の色があったなら、まだ可愛げがあるのに。


「なんでそんなことを聞くんだい」


「新入りの同僚としては、役割分担を確認しておきたいので」


「ここを片付けたのちに宮殿に出入りするようになったら教えてやるさ」


「いま話されている言葉はどこで習われたのですか?」


「ヒタイト語かい?あたしはアシリアの地方の出だが、夫がヒタイト人だったんだよ。話せるおかげで任務が増えちまって大変さ。

 あんたの仕事の進み具合を毎日見に来るからね」


「よろしくお願いします」


 頭を下げる様子は、新人としては当然だが姫君らしくはなかった。調子が狂う。

 老女は足早にその場を去ることにした。



 



 夜になっても、霖は横になれなかった。 


 なにしろ、眠るための場所を確保できていない。

 部屋の四方に奥行きのある棚が並べられている。置かれた物を整理しても、1人で動かせるような大きさの棚ではない。

 寝るスペースを作るのは難しかった。


「それでも大勢の人たちに囲まれるよりは、まだマシだわ」と自分を鼓舞するようにつぶやく。


 老女は、ヒタイト語が話せるから業務が増えたと言っていた。

 それは言い換えれば、外国語を知る人間が少ないということだ。わざわざ彼女をあてがわれたということから、霖もそうだと思われているだろう。


「もしたくさんの人と話すことになって、それがどんな言語か、わからないのだもの」


 文字を読めないのに、あらゆる言語を理解できて、でも話せるのはヒタイト語だけ。それがバレたら、どんな難癖をつけられるかわからない。


 しばらくは、声を交わすのは老女だけになったとしても、スミュルナ王子のときのように囲われそうになるよりはよっぽどマシだと、思うほかない。


 霖は疲れた腕を下ろした。

 部屋の中央には大きな作業台が置いてあり、物が山と積まれたままだ。触ると崩れ落ちそうで、そこは最後に片付けようと決めた。床にはいろんな物が散乱しており、片付けても新たな埃がそこに吹き寄せられる状態だ。


 本格的な整理は明日からにしようと思い定めて、隙間風が冷たいけれど、出入り口の近くで眠ることにした。

 扉が開くスペースだけはかろうじて在ったので。


 トゥトが来るまで待っていようと思ったのに、いつの間にか眠ってしまった。









 しばらくして、扉の前には呆れる男の姿があった。

 荷物を挟んで扉が開かないよう工夫したつもりのようだが、もともと板がボロボロなのだ。隙間から手を伸ばせば簡単に開く。


「王以外は男子禁制だからって、緊張感なさ過ぎじゃないのぅ」


 イムホテプは少し短くした金髪をかき上げた。

 下男として雑用をこなしながら早速情報収集をしていると、霖の冷遇を聞いたのだ。


 なんでも、側妃はヒタイト帝国が嫌いらしい。美貌の王子に見合いを申し込んだのに断られたからだとか。その後アシリアの暫定王に家の都合で嫁がされたようだ。どこかで聞いたような話である。


 何年も放置されていた小屋をあてがい、ろくな食事も与えず、1人では無理な量の片付けをさせて。礼儀作法を教えるつもりは無いのだろう。


「頻繁には様子を見に来れないから、ちゃんと無事でいるのよ」

 

 寒そうにしている霖に、布をかけてやった。商人たちの家で霖が丸まって寝ていた、あの布である。

 一見何の変哲もない生地に見えて、時折月光を吸い込むように不思議な光沢を放つ。華美な物は盗まれるかもしれないので、他に贈り物もない。


 リンのために荷作りしようと考えたときに、思い浮かんだのはこの布と護符くらいのものだ。護符は独学で金糸のように髪を生地に縫い付けた簡単なもの。


「あまねく神々よ。どうか、この子を護りたまえ」


 これがイムホテプの答えだった。

 自分が最優先するのはヒタイト帝国とスミュルナ王子のために情報を集めること。次に商人たちの依頼を完遂すること。これは譲れない。


 でも、集める情報のなかにリンの危険や不遇を知らせるものがあれば、改善のために目立たないよう手助けをしよう。

 枕元に少しの小銭と、日持ちのする食料も置いておく。


「まあ、リンは食べなくても、食糧が無いのに元気なままだったら、不審がられるでしょ」


 リンの謎めいた素性を飲み込んだうえで、旅をしながら性根の善良さや努力家なところはわかったつもりだ。その頑固さも。

 

 きっと、リンは弱音を吐かないだろう。だから余計に気になる。



『わたしは大丈夫よ。兄さまこそ大丈夫?』



 遠ざけていた記憶が浮かび上がる。

 最期まで大丈夫と言い張った妹を助けに行ったときには、もう手遅れだった。あのときの自分はまだ幼くて、家族を助ける力はなかった。


 でも、今なら。


 もしかして、霖を手助け出来る余力があるかもしれない。スミュルナ王子に我が命を助けられた恩を忘れた日はないけれど。


「イムこそ無理しないでね、か」


 心配されたのなんて、何年ぶりだろう。


 諜報活動に明け暮れて、危ない橋を渡るために身軽になろうと自ら手放したえん)も多かった。数人の友人を除いて大切な存在をつくらないようにしていた。そのことに後悔は無いが。


 ふと、温かな存在に気付いてしまった。ほどよい距離感で押し付けがましくもなく。

 大人びているかと思えばときに不器用で。出来の悪い子ほど可愛いというか。わからないことを受け止めようとする姿勢に、自分が忘れていた人間としての謙虚さを見た。


 きっと、スミュルナ王子も自分を気にかけてくれるだろうが、そこは男同士の面子めんつ)がある。親友といえどもお互いに敢えて言葉にはしないものだ。


 リンの言葉は、スッと胸に届いた。

 自分らしくないと言われても、きっと後悔はしないだろう。能力の高さゆえに結果を見切ることが多いイムホテプにとって、リンへの対応をどうするかは久しぶりに悩んだ事だった。


 わずらわしいが、この感覚も嫌いではない。リンに逢わなければ、おそらく起こり得なかったことだ。


「必ず迎えに来るから」


 扉を固く閉めなおすと、イムホテプは足音をたてずに去った。










 

 霖はそれから、黙々と片付けを続けていた。

 室内が整うのに反比例して、霖の服はヨレヨレになっていく。洗うほど生地が痛むからだ。


 今では寝るときに掛ける布の方が立派に見える。来たときに身につけていた装飾品と一緒に、日中は盗られないよう隠してある。おもしろ半分に侍女たちから室内を荒らされたことがあるからだ。


「なんてみすぼらしい」


「ガリガリじゃない。いい気味」


 霖の姿を見て、クスクスと嘲笑しながら通り過ぎる侍女たち。

 散歩コースになっているらしく、視線を向ければ、きゃあ、と言って逃げられる。


 静かになって掃除がはかどると思い直せば、次は老女がやってくる。仕事の監督というよりも、半ば愚痴が多かった。



「あんたの随行人、イムといったかい。奴はとんでもないね」


「何かありましたか」霖が不安そうに訊くと、ふん、と鼻息を向けられる。


「事務仕事も雑用も何人分もこなすから、いちゃもんつける隙がない。ねや)に呼ばれそうな時間帯には姿を隠しているそうだ。一度捕まえておいたら、いつの間にか違う者と入れ替わっていたんだと」


「気づかれなかったんですか」


「それがねぇ、金髪を縫い付けた布を被せていたとかで、暗闇でキラキラしててさ。寝所で着替えさせるまでわからなかったらしい」


 霖は身につけている護符を服の上から抑えた。

 これに縫い付けられてる金糸ってもしかして…。絵柄が縦笛なのでイムホテプからの心遣いだと思い、大切に持っていたのに。ありがたみが半減したような、複雑な心地になった。


 でも、さすがイムホテプだ。数々の危険を難なくかわして、逆に敵を足蹴にする様子がリアルに想像できる。


「まあ、元気にやっているようで何よりです」


「あんた、意外と根性があるじゃないか」


「ありがとうございます?

 あの、欠けた器はどこに整理すれば良いですか」


「それはね…」


 文句を言いつつも、老女は訊いたことには律儀に答えてくれる。それに気付いてからは、会話も続くようになった。


 最近体のあちこちが痛いが、固い床で寝ているせいだろう。室内が綺麗になったら、古布を洗ってクッションを作ろう。きっと寝心地もよくなるはず。


 トゥトが来ないのも気になるが、後宮を巡回する兵士を警戒しているのかもしれない、と心を落ち着ける。頼り過ぎず、自分に出来ることからしていかないと。


 イムホテプも頑張っているのだ、彼に迷惑をかけないよう自分も頑張ろう、と霖は思った。






 さらに二週間ほど過ぎた頃。

 イムホテプはついに牢獄の場所を突き止めた。商人たちに途中報告を送り、自分は手に入れた牢番の服に着替える。


 夜、牢番交代の時間が迫っていた。


「引き継ぎ事項は」アシリア語で話しかける。

 昏倒させた牢番にそっくりな声を出した。にせ)の髭で顔も似せている。


 入れ替わりに気づかずに、相方の牢番が答えた。


「特にない。少し痛めつけて以来大人しいもんさ」


「そうか。酒の差し入れがあるから、飲んで休んでくれ」


「ありがたい」


 睡眠薬入りの酒だけどね、と心のなかで舌を出す。

 驚いたことに、職務中に酒を飲む者が多かった。規律がゆるい。しかも酒の質が悪いので度数が低いのも水代わりに飲む原因のようだ。


 イムホテプは、違和感を与えないよう粗野な動作で牢へと歩き出した。


 そこは、いくつかのうめき声と、血の匂いと、濃密な闇の気配に)められた場所だった。


 

 






 


 





 




いつも読んで下さり本当にありがとうございます。遅くなったお詫びと、見捨てずにいてくださった感謝を込めて、普段より増量しております。


うちの職場ブラックじゃないのかと疑う日々でした。私事の甘えたこと言ってすみません。


必ず完結させる決意のもと書いておりますが、相変わらず不定期更新になるかと思います。これからも呆れずお気軽に読んでいただければ幸いです。今週は少しマシな更新回数になるかと。   

次話、アシリア国とケメト国です。


皆さまに感謝を込めて。

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