間諜
この世界に来てから、たくさんの人に会ったけれども、霖が言葉を交わした相手は多くない。
さらに通訳という職業柄、人の声を聞き分けることは得意だ。
だから、背後の人物をすぐに思い出せる。ハキハキとした、若い女性の声。
「スピュリマ元将軍、強そうな相手を見ればすぐに斬りかかる癖を、どうにかなさいませ。閑職に左遷されてもまったく反省していないと、暫定王に言いつけるわよ?
探すのに手間がかかったではありませんか」
ヒタイト帝国のスミュルナ王子の屋敷で、湯殿から案内してくれたあの若い女官だ。
振り向いて顔を確かめる。間違いない。
衣装はアシリア風に変わっていたが、マシンガントークは相変わらずだった。将軍がしぶしぶ剣をおさめてからも、ネチネチと愚痴を言っているようだ。
でも、どうして彼女がアシリア国にいるのだろう?兵士との親しげな様子は、最近知り合ったようには見えない。
疑問を口に出そうとして、イムホテプが目線で制止してきた。霖を庇うように立つ。その背に、「彼女をヒタイト帝国の貴人の屋敷で見たことがある」と小声で告げる。
「間違いないか。…いや、答えなくて良い。おそらく間諜だろう。声音を覚えられていては面倒だ。出来るだけ話すな」
大きく頷く。
まだ城に入ったばかりで、どうなるのか。
ヴェールで表情は隠れていても、足が震えそうになる。
不安が伝わったのか、イムホテプがマントに隠れて霖の手を握った。まるでその場しのぎではなく、これからもずっと苦難を乗り越えていく仲間だと、言っているように。
それがたとえ錯覚であっても、今は心強かった。
将軍と女官はまだ話を続けている。
どうやら将軍を呼びに来たらしいが、彼が動こうとしないので、小言から愚痴に変化しつつあった。
「久しぶりに帰って見れば顔見知りが少なくなって、玉の輿を狙おうにも野蛮な風貌の男ばかり。
私好みの、美麗で地位も財産も持つ男性はいらっしゃらないのかしら」
「理想の男を見つけたと言っては出奔し、また帰ってきて。いい加減に結婚するか巫女にでも成って親を安心させてやれ」
「親戚とはいえ、万年独身のあなたに言われたくありません。私は理想の相手を見つけるのです」
「評判の高い例の王子はどうだったんだ?」
「意外とガードが固いのよ。望みも薄くなったし、怪しまれそうになったから戻ってきたわ。花の盛りは短いんだもの、相手にされないうえに無駄な時間を過ごすのも腹立たしいじゃない。
で、そちらの美しい方を紹介して下さらない?」
爛々と輝いた目が、イムホテプを捕らえていた。
イムホテプが綺麗な笑顔を浮かべる。それは綺麗過ぎて、つかみどころのない表情に見えた。
もっとも、そう思ったのは霖だけのようで、書状を確かめるあいだも女官は頬を染めている。
それを苦々しく見やった将軍が、大きな体を動かした。入り口に向かう。
「面白くないが、当初の予定通りに応接間まで案内しよう」
「お願い致し…」
「それには及びませんわ」
イムホテプの言葉を遮って、若い女官は将軍を一瞥する。
「スピュリマ将軍、あなたこの方たちを─同情して逃がそうとしたわね?
困るわ。若い女性を後宮に集めよ、と暫定王から指示が出ているはずよ」
「しかし、姫はあまりにも華奢で、酷ではないのか─」
「確かに細いけど、嫁がされるのなら立派に大人でしょう。こちらの状況を知らないといっても、帰ることを前提で嫁ぐ人はいないわ。親戚のよしみで見逃してあげるから、もう止めてちょうだい」
「俺が従うのは、陛下だけだ」
「陛下は、もういらっしゃらないのよ」
肩を落とす将軍を振り返らずに、若い女官は霖たちを促した。
「さあ、ご案内しますわ。暫定王のもとへと」
いつも読んでくださり本当にありがとうございます!遅くなり申し訳ありません。
深夜にもう1話投稿します。




