涙
“アシリア城潜入会議”を終えてイムホテプが部屋に戻ると、ふたつの寝息が聞こえた。
商人タムカルムの息子イルバは、少年らしく深い眠りについている。その隣ではリンが布にくるまるように寝ていた。
珍しい、とイムホテプは思う。
リンは他者への警戒心が強いのか、隊商と旅をしていたときも一番最後に眠っていた。「深夜に眠る習慣がなかなか抜けない」と本人は言っていたが。そのかわり寝起きは悪い。
「…ん」
「リン?」
寝返りを打っただけらしい。寝苦しそうだ。
口元の布をゆるめてやろうと手を伸ばし─しまった、と後悔した。
リンが泣いていたからだ。
イムホテプも成人男子なので恋愛経験はそれなりにある。ましてこの美貌だ、後腐れのない関係を前提に付き合っても、やがて本気になる女性を袖にしたのは一度や二度ではない。誉められたことではないかもしれないが、女性の涙を見ても動揺しない、という自信があった。
それが、リンを相手にすると調子が狂う。
世間知らずで、体力がなくて、容姿も十人並みで─諦めが悪くて、努力家で、人間関係が苦手な癖に心の底では人を信じたいと思っていて。
「だから、こんな悪い男にだまされちゃうのよぅ」
先ほどの会議の結果、イムホテプは姫の付き添いとして城に潜入することになった。
入城したのちは様々なことを探らねばならず、正直そのあいだリンの身を守ることは出来ない。身分を偽るのだから、それなりの危険性があるとわかっていてもだ。
イムホテプの優先順位は、まずスミュルナ王子のために、アシリア城内でヒタイト帝国に必要な情報を集めること。
その次は身分を怪しまれないようアシリア商人達の依頼を完遂すること。タムカルムが解放されたのちは証言を取り、イルバとともに家族のもとに届ける手配をすること。
リンの安全確保はその次になる。
もはや“優先”と言えない順番だろう。
その考えを変える気は無いのに、泣き顔を見ると、らしくもなく罪悪感にさいなまれた。
「なんか危なっかしいのよねぇ。死なれても寝覚めが悪いしぃ、真名を知っちゃったから、安全保護の呪文でもあげちゃいましょうかねぇ」
占い師とは呪術師とも呼ばれる存在だ。自己流だが、陰謀渦巻く貴族社会で親友が生き抜いているところをみると、気休め程度の効果はあるのだろう。
「…よ、これなる者に加護を。その名はアイダ…」
最後まで言うことは出来なかった。なんとなくだが、言霊がはじかれるのを感じたからだ。よく見ると、リンを包む掛け布が月光を集めたようにぼんやり光を帯びている。
神御衣?まさかね…。
まばたきすると、もとの変哲もない布に見える。
アシリア国の旅路を占った際に、リンとの出逢いを示すような結果が出たことと、無関係ではないかもしれない。
唐突に、イムホテプはさっきの会議でのやりとりを思い出した。代表者である眼帯の男に、疑問をぶつけたときのことだった。
「失礼かもしれませんが…なぜ危険を負ってまでタムカルムを奪還するのですか?」
「ふふ、利益がなければ商人は動かないとお思いかな?」
「いえ、そうは言いませんが。他にも投獄された仲間がいるのに、なぜ今だったのかと」
隻眼の男は、深くうなずいた。
「城に巣くう者達は、線を越えたのですよ」
「線?」
「そう。人々は思うわけです、今まで意見を聞き、為政者に働きかけてくれていた豪商、有力者たちは何故動かないのかと。日々不安を募らせる中で、今度はタムカルムが捕まりました。彼は仕入れ先も手広く、手堅い商売をする男です」
「つまり、顔も広く一目置かれる人柄だと」
「これでも我々が動かないとなれば、人々から寄せられる信頼は不信へとつながります。そうなれば今後の商売もたちゆきません。
世の中には、越えてはならない様々な線があります。この場合は“権力者のすることは理不尽でも受け入れないと仕方ない”と人々が許容してきた線を、越えてしまったのですよ」
正義や情愛を理由にされるより、今後の立場を考えての行動だというのが、逆に現実的で信頼できた。
だからこそ、リンを巻き込んだ策にも乗ったわけだが。
何度かリンに呪文をためしたが同じ結果だった。
呪術が効かない原因は、いくつか考えられる。
聖なる護符を持っている者。
あるいは、すでに強力な呪術をかけられている者。
まるで遥かな高みから、己の越えてはならない線を見極めよ、と試されているような気がした。
リンを今後どう扱うべきか。
夜は更けてゆく。
城内潜入の決行は、明日に迫っていた。
いつも読んでくださり、本当にありがとうございます。また、リアルの忙しさにかまけて更新が大変遅くなり申し訳ありません。
相変わらず不定期亀更新ですが、これからも呆れずお気軽に読んでいただければ幸いです。
次話、アシリア国。いよいよ潜入します。




