近況
霖は窓辺に駆け寄った。
月光を浴びる羽根は、すこし色褪せて見える。
「トゥト…」
探し出せたなら、あれを言おうこれを言おうと思っていたのに、喉の奥でせめぎ合って上手く声にならない。
最初に口を衝いたのは、感謝だった。
「トゥト…あのとき、庇ってくれてありがとう」
手を伸ばすと、腕の中まで降りて来てくれる。
次に出てきたのは、謝罪だった。
「せっかく庇ってくれたのに、逃げ切れなくてごめんなさい。捕まってしまって、探しに出るのが遅くなってごめんなさい」
「気にするでない。リンが抵抗してくれたから、我の逃げる隙が出来たのじゃ」
「トゥトに怪我はなかったの?
無理したんでしょ、大丈夫だった?」
「すこし神力を失ったが、しばらくすればもとに戻る程度じゃ。リンは…」
鳥に目蓋は無いはずなのに、トゥトは何かを見定めるように目を細めた。
「リンは…誰かと契りを交わしたのか?」
「ちぎり…千切り…契り?!
そ、そそそそんなこと誰ともしてないよっ!」
「じゃが、誰かの影響を受けておる。
そうじゃな、もっと軽く、たとえば接吻などは?」
霖の顔は真っ赤になった。
スミュルナ王子の秀麗な顔が目に浮かぶ。
二十代後半で奪われたファーストキスは濃かった。その事実のどこを切り取っても話すには勇気が要る。
羞恥にうつむくリンの様子が、言葉よりも雄弁に「口づけされた」と物語る。
トゥトは低く呻いた。
「スミュルナの奴め…制約がなければ呪ってやりたいくらいじゃ」
「ん、トゥトどうしたの?」
「いや、何でもない。それよりも…」
トゥトは自分を抱きしめる腕を見た。震えている。
「また、我慢しおって…」
音もなく人化すると、リンを胸板に押し付けた。
驚いて離れようとするのを、腕と長い袖に囲ってしまう。
「よう頑張ったな」
「ぜんぜん頑張れてないよ」と答える声はすでに鼻声だった。
霖はトゥトと別れてからの、出逢いや楽しさや─逃亡や恐れの記憶をたどり、頭の中がごちゃ混ぜになった。
人型になってもトゥトの胸板は羽毛のようにふわふわで、のちに思い出したように固くなった。それもなんだか懐かしい。
「もう会えないかと思った…」
「早く来れなくてすまん。力はだいぶ回復したから、数日前よりそばに居たのじゃが。おぬしが一人になる機会が無くてな」
「治るのがそんなに遅かったなんて。私に出来ることは少ないけど、黙って無理をしないで…」
声は嗚咽になって、聞きづらかったと思う。
でもトゥトは「ああ」「そうだな」とずっと相槌を打ってくれる。
「いやいや、トゥトこんな甘やかしてくれる人じゃなかったでしょ」と言えば、「今日は特別じゃ」と偉そうに返された。
泣き過ぎてぼうっとなった霖は、トゥトに聞かずにはいられなかった。
「明日も会える?」
「…ああ、夜には」
「ねぇ、トゥト。
真名を言った私は、呪術をかけられたり…してないよね?」
トゥトが返事をするまえに、霖の体から力が抜ける。
旅の疲れが溜まっていたのだろう、ストンと気絶するように眠ってしまった。
丁寧に抱き上げる。細い体が冷えないよう、袖から出した布を巻き、すこし離して少年の隣に寝かせてやった。
「見守っておるからな」
イムホテプが部屋に近づいてくる。
トゥトは鳥の姿に戻ると、窓から飛び立った。
翌朝。ヒタイト帝国では、王都に向けてスミュルナ王子が辺境を出立するところだった。
「分隊長、女官長。部下と、屋敷のことは頼んだぞ。何かあれば、早馬で知らせてくれ」
「「はい」」
通常であれば市長がこの場に居るはずだが、誰も指摘しなかった。市長はもろもろの悪事について取り調べを受けているからだ。
先頭の部下が号令をかける。
「では、出発!」
軍馬に騎乗したスミュルナ王子は、王都での仕事に思考を切り替えた。
ここ数日、風の向きが変わりつつある。
もうすぐ新しい季節になるだろう。良質の鉄を打つにふさわしい季節へ。
「錫の在庫が少ないと父上に申し上げねば。
各国からの依頼をどのように裁かれたのか、お聞きしないと。
それから…」
それから、出現したオアシスが安定し、ケメト国への足がかりに充分な水量があることも報告しなければ。
オアシスで出逢ったリンを思い出す。
どうか、無事でいてほしい。
その願いは、政敵の多い王都が近づくにつれて、胸の深いところへと仕舞われていった。
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相変わらず不定期亀更新ですが、これからも呆れずお気軽に読んでいただければ幸いです。深く感謝を込めて。
次話、アシリア国です。




