恋の歌
薪の爆ぜる音で、霖は目を覚ました。
もう夜なのかもしれない。甕に触ると、ひんやり冷えているようだ。
蓋がはずされた跡はない。
自分の迂闊さにゾッとしながら、息をひそめる。
もし皆が寝ついているならば、ここから出るチャンスだ。外をうかがう。
商家のイルバ少年の声が聞こえた。誰かに質問しているようだ。
「おひとりで旅をされるとは、大変ですね。商人の方ですか?」
「いえ、楽士です。仲間とはもうすぐ合流する予定でして。それまでは手持ちぶさたなので、夜営をご一緒できてありがたいです」
「わあ、楽士さまですか。どんな曲を」
イルバ、と主人が諫めた。
「初めての遠出に興奮するのは仕方ないが、すこし落ち着きなさい」
「はい、ご主人様」
しょんぼりした様子に、極端な奴だと主人は苦笑いする。
「お疲れのところ、不肖の息子がお騒がせして申し訳ない」
「息子さんでしたか、父と呼ばせないとは徹底されていますね」
「修行中ですから。ゆくゆくはこの子のためです。自分も父からそう育てられましたのでね。
ずうずうしいお願いですが、息子に教訓めいた歌を聞かせることはできますか。もちろんお代はお支払いします」
「暖をとらせていただきましたし、お気になさらず。これも何かの縁ですから」
楽士は手荷物から弦楽器を取り出した。
この世界の庶民にとって、娯楽は限られている。ロバの世話係や不寝番の者たちも薪の周りに集まって来た。
低音の弦が鳴る。
親が子を諭すような声音だった。
“たとえば議論をけしかけられて
悪い言葉を使われたならば
汝は沈黙でこたえよ
さすれば理解者たちの胸中で
汝の名声は高まるだろう”
“賢き言葉に出合うのは
宝石を探すより難しい
だが目立たない下働きの者の
口からでることもある”
曲が終わると、主人が大きく手を叩いた。
「いや、さすがお見事ですな。息子にも良い経験になったでしょう」
少し眠いのか、子供らしくイルバが頬を膨らませる。
「楽士さま、もっと違う歌が聞きたいです」
「ふふ、わかったよ。
では、恋の歌を」
はやし立てる者、口笛を吹く者。
どちらも主人は咎めず、興味深そうに耳を傾ける。
ゆったりと弦が爪弾かれた。
高音と低音を織り交ぜながら、せつない声がひびく。
“わたしの心は あの人を考えたくないの
愛がわたしを 掴まえているのに
見てよ あの人はまるで分別をなくしたよう
でも きっとわたしも同じようなものでしょう”
“あの人をどう 避けたらよいのでしょう
知らん顔のままで 通り過ぎてみようか
河の流れるさまが 道のように見える
どこにいるのかさえも わからなくなりそう”
情感あふれるハスキーな歌声に、皆は静まり返った。もっと聴いていたいと、願っているようだ。
調べが止まると、われにかえったように盛大な拍手が起きた。恋人の名を叫ぶ声や、涙声混じりの会話が聞こえる。
「あの人をどう避けたら…」
霖はスミュルナ王子の姿を思い浮かべた。
理由はよくわからない。
自分は身の危険を感じて避けたのであって、惹かれたわけじゃないはずだ。なぜあれほど腹立たしかったのか、それ以上考える気にはなれなかった。
ふと、物音がしないことに気づく。
薪がまた爆ぜた。
「やっと眠ったわねぇ。
ほら、そこのあなた。場を整えてやったんだから、出て来なさいよぅ」
楽士の声だ。なぜかオネエ口調だけど。
まさか、自分のことだろうか。外からは見えないはずなのに。
息をのんだ。
「もう、あまり“眠り香”の効果は長くないのよぅ。速くしてちょうだい」
ガタガタと蓋が開く。
アッという間に、ものすごい力で霖は引き上げられた。
暗闇が宵闇に変わっただけなのに、目が慣れない。星空が、次に焚き火が見えた。
拘束を振りほどこうとして、相手のヴェールに手が引っ掛かる。
豊かな黄金の髪が流れ、おそろしいほどの美貌があらわになった。
「もう、じゃじゃ馬ねぇ。正体をキリキリ吐きなさいよぅ。場合によっては商人に突き出すわよ?」
圧倒され、首を縦に振ることしかできなかった。
いつも読んでいただき本当にありがとうございます。
今回の作中の詩は、古代エジプトで実在した物です。一部分にだけ超訳的なアレンジを加えております。原作品がお好きな方には申し訳ありません。
相変わらず不定期亀更新ですが、呆れずお気軽に読んでいただければ幸いです。
次話、アシリアです。




