外へ
王子の居室に残された3人は、驚きつつお互いの顔を見合わせた。
女官長が感心したように言う。
「最後は流暢なヒタイト語でしたね。しゃべれたとは私も知りませんでした」
「言葉が通じないと、分隊長もおっしゃっていたのですが。しゃべれないどころか、笑顔でツレないことを言ってのけるとは、すでに堂に入った夫婦喧嘩ぶりですなぁ」
王子は首を横に振る。
笑顔?
あれは怒っていた。言葉も…先ほどまでしゃべれなかったのだ。
話せないふりをする利点が思い浮かばないし、リン本人は言葉の変化を認識した様子がなかった。
思い返してみると、口づけの途中で少しずつ聞き取れるようになった気がする。オアシスでの出来事を考えれば、なにか未知の現象が起きたとしか思えなかった。
もっとも、このくらいの不思議さに動揺してリンを手放すつもりは毛頭ない。
スミュルナ王子は信仰や呪いに懐疑的であっても、森羅万象をすべて人間の知識で説明できると思うほど傲慢ではなかった。
リンに起きたことを把握できない歯がゆさはあるが、状況を飲み込むしかないだろう。
「祝福か、あるいは呪いか」
「まあ、殿下。いきなり怖いことをおっしゃって。
畏れおおくも始祖王様の真似ですか」
「そういうわけではないが…」
代々のヒタイト国王家が大切に保管している粘土板がある。始祖王の言葉が記されたものだ。
“余はこの地を去ろう。
この都はやがて飢えに覆われ、我の手から女神の御手へと渡るだろう。
夜のあいだに首都を武力で制圧し、雑草の種をまいておく。余の後に王となり、再びこの地を興そうとする者に、神罰が与えられんことを”
かつて敵国が侵入してきた際に、祖先は自ら領土に呪いをかけたと言われている。
そのせいで農作物が採れなくなり、侵略者たちは遷都せざるをえなかったとか。彼らを追い出し、小国を統合してヒタイト帝国となったいまも、首都はかつての場所からうつされたままだ。
廃墟となった旧都を山頂から見下ろしたのは、たしか父上の視察に同行した時だったか。
女官長もそのときのことを思い出したらしい。
「懐かしいですわ。
スミュルナ殿下は“そんなの王権誇示のための過大表現だ”と可愛げもなくおっしゃられて」
「兄上は恐れるあまりずっと泣いておられたな。
しかし泣きながらも我が興味本位で下りていかぬよう、背中に庇ってくださっていた」
周囲に豊かな森が広がるなかで、そこだけぽっかりと草しか生えていなかった。百年以上経てば、森に飲み込まれてもおかしくないのに。
その地を見て、幼い自分は何を思ったのだったか。今では話すことも稀になった兄上の、泣き声ばかりを思い出す。どこで道が分かれたのだろう。
「殿下…」
心配そうに向けられた視線に気付き、スミュルナは思考を切り替えた。
リンが話せるようになった原因は口づけか、それとも水か、木の実か。自分からすすんで食べようとしなかったのも気になる。どの程度までは口に入れて良く、効果がどれほどつづくのか。
もし長期的に話せるようになっていたとして、オアシスのことを見境なく言いふらされでもしたら、ヒタイト国の優位性が損なわれる。
さらに、外部から出入りする者に話しかければ、リンの存在を兄陣営に知られてしまう危険性がある。そうなるとリンが狙われるだろう。かつての婚約者のように。
「護衛を増やしたほうが良いかもしれない。分隊長は先ほど任務をあたえたばかりだから、別の者に…」
えぇ、という声が聞こえた。
護衛の兵士は目を見開いている。
殿下の言葉をさえぎるなと、女官長が諫めるのを目で抑えた。
「自分のあとは、分隊長が護衛の番だと聞いていました」
「馬鹿な、指示がすれ違ったのか」
普段はあり得ないことに、胸騒ぎがする。
「リンの様子を確認してほしい」と王子が指示するのと、若い女官が入室するのは同時だった。
「女官長に申し上げます。
髪結い人が、髪飾りのお好みをリン様に訊ねたいとのことです。
洗濯人より、例の変な黒い服が水を吸わないので、どのように洗えばよいかと苦情が入っております。
また、湯浴みのあとリン様にお変わりはなかったか、侍医が心配しておられます」
それはリンの現在地を知る者が、屋敷内に居ないことを示していた。
霖はいくつもの部屋を走り抜けた。もちろん人の気配が無いことを確認しながらだ。
「やった、解放部発見」
小声でテンションを上げる。そうしなければ足がもつれそうだ。
今度こそ、と出てみると─
そこはまたしても庭だった。
どうやら、中庭を部屋で囲むような造りらしい。
しかも中庭はいくつもあって、霖は外への通路を見つけられずにいた。早く見つけないと、追いつかれてしまう。
そこへ、複数の話し声が近づいて来た。
「─貯蔵庫の─にひびが─取り替え─」
「もうすぐ─」
霖は慌てて、手近にあった違う解放部から、室内へと入り込んだ。
「うわ」と思わず驚いたが、口を抑える。思ったよりも響かなかったようだ。
そこは今まで見た部屋よりも大きかった。
大人が腕を広げても届かないような、大きな甕がずらりと並んでいる。蓋の無いものを覗いてみると、底に数粒の麦が見えた。他に野菜が入っているのもある。備蓄用らしい。
「─替えの甕を─持って─」
「─ならば、この部屋に─。あと、代金は支払うので、減り方の遅いものと速いものを傷む前に交換してほしい」
「また遠方へ視察ですかな。そのくらい融通しますよ」
足音が近づいて来る。
隠れようとしても、甕と甕のあいだに隙間はない。
取り出しやすいようにか、周囲に人が通るためのスペースを直線にとってある。入り口から室内を見通せるということだ。
解放部まで見つからずに走れるほど、足は速くない。
霖は、空いている大甕の縁を、ギュッと掴んだ。
やがて真っ暗な視界のなかで、霖は揺り動かされるのを感じた。
目を閉じ、息を潜める。
どこかへ運ばれるようだ。
いつも読んでいただき、本当にありがとうございます。
体調がすぐれず更新が遅くなり、また予告の半分まてしか行かずに申し訳ありません。明日中に次話を投稿します。
相変わらず甕行進…亀更新ですが、呆れずお気軽に読んでいただければ幸いです。




