嫉妬
霖は自他ともに認める方向音痴だ。
往きで覚えたと思った道も、帰りには違って見える。
湯殿を出て見知らぬ女官に連れられながら、角を三度曲がったところで覚えるのを諦めた。
「どれも同じ部屋に見える…」
前を行く女性は女官長と違ってスマートな体型だったが、若いぶん好奇心が旺盛なようだった。霖のつぶやきの意味は分からないまま、矢つぎばやに話しかけてくる。
「ねぇねぇ、どうやってスミュルナ王子と知り合ったの」
「オアシスに居たところを攻撃されました」
「あなたがいるから、縁談をずっと断っておられたのよね?」
「それはないでしょう、出逢ったばかりなので」
「ただでさえお忙しい方なのに、最近はあなたの看病でろくに眠っていらっしゃらなかったのよ。やっと眠ってくださった昨夜も遅くまで看ていらしたって。
人気の高い方なんだけど、あまりの溺愛ぶりに批判も消えちゃって」
「……」
霖はいま仕事モードで、冷静な表情をしている。 でも頬が紅潮するのは抑えられなかった。
この屋敷の年若い女性にとって、王子は憧れてやまない芸能人のような存在だった。姿を見ては喜び、励まされる。
違うのは、身分制によってはじめから手が届くとは思っておらず、遠目であっても辣腕ぶりを見ている点だろうか。
羨望と嫉妬と、やり場のない切なさを女官は感じていた。自分と同じように、霖が王子を望まないはずはないと信じ込み、上から下までを遠慮なく眺めた。
「あなたに惹かれる決め手は何だったのかしら。
その腰まであるまっすぐな黒髪?
つやつやの肌?胸は─普通だけど」
「余計なお世話です」
これでも日本人の平均以上はある。
言葉が通じないとわかっていても、返事をするだけで気は紛れる。これから王子にトゥトのことをどうやって聞こうかと、そればかりを考えるうちに着いてしまった。
もっとしっかり聞いておくんだったと、あとで後悔したが遅い。
「ここよ。
殿下にすべてお任せするのよ。頑張ってね」
「?ええ、ありがとうございました」
女官に頭を下げると、廊下の静さが緊張を生んだ。
唾を飲み込む。
この国の入室の礼儀は分からないので、一応小さな声をかけてみた。
「あの~失礼します」
返事はない。
おそるおそる入ると、部屋の奥で仮眠をとる王子の姿がみえた。
眠りが深いのか、起きる気配は無い。
室内を見回しても、分隊長や他の護衛もいない。
安眠のために、見えないところにいるのだろうか。
トゥトのことを聞きたかったが、これでは無理だろう。引き返そうと思ったが、道順はあやふやだ。
端っこで、少し待たせてもらうことにした。
飾り気のない室内も二度目となると見るものが少ない。自然と王子へ視線を向けることが多くなる。
『あなたの看病でろくに眠っていらっしゃらなかった』
言われてみれば、目の下にうっすらと隈がある。
だから何なんだ。
こちらを攻撃して来たくせに。
目を逸らそうとして、止めた。
王子の固く組んでいた掌が緩み、水差しに当たっている。今にも倒れて、零れ落ちそうだ。
霖は駆け寄って支える。
「ま、間に合った…」
「…誘っているのか?」
「ひゃっ?!」
低音の艶やかな声に霖は飛び上がった。
青緑色の瞳が、こちらを見ている。
「す、すいません起こしてしまって」
自分自身の寝起きが悪いので、小声で目覚めてしまうとは思わなかった。
軍人というのは、こんなふうにみんな気配に敏いのだろうか。
一方の王子は、接近されるまで起きなかった自分に驚いていた。
水差しを持ったまま頭を下げるリン。
きっと、謝る意味の所作なのだろうが、薄い衣服でそれをされると、目の毒だ。
「…いや。ちょうど起きる頃合いだった」
王子は身を起こすと、困ったように視線をあさっての方に向ける。
リンの存在を隠してどのように上手く立ち回るべきか、先ほどまで思索していた。オアシスが出現してから業務は多忙を極め、遠征後にするべきことも重なってゆく。
なまじっか体力があるものだから過剰業務に慣れてしまい、部下を休ませても自分は休んでいなかった。
つまりは、自覚する疲労があるだけに、王子は起き抜けの理性に自信がなかった。正直、願望を夢に見たかと一瞬思ったほどだ。
「はやく水差しを置きなさい。その姿勢は、誤解を招くぞ」
「え?」
リンはいま両手に水差しを持って、前屈みになっていた。俗に言う、グラビアアイドルが胸を強調するような…。
「そ、そそそそそんなつもりじゃ」と首を横に振る。
「わかっているが、そうまで否定されると面白くないものだな」
相変わらずつれない反応に、王子は意地悪な気分になった。
「じゃあ、どういうつもりでここに居るんだ?」
リンはキリッとした表情になり、背筋を伸ばした。
傷は痛まないのだろうか。無理をさせないようにしなければ、と王子が気を揉む前で、ハキハキとした声が答える。
「私は、どうやってここに来たんでしょうか。トゥトは一緒でしたか─」
王子は言葉の意味はわからない。
だが、自分以外の男の名を聞き取った瞬間に体が動き、
「─様子だけでも─んんっ?!」
噛みつくような口づけをしていた。
いつも読んでいただき本当にありがとうございます。重ねて、1000ユニーク突破ありがとうございます!とても励みになります。
展開が遅く申し訳ないです。描写って難しい。
もはや9時は早朝ではないですよね…。不定期亀更新ですが、これからも呆れずお気軽に読んでいただけたら幸いです。
次話、ヒタイト帝国とアシリア国です。




