湯殿
女官長に手を引かれながら霖はゆっくりと歩き、いくつかの部屋と廊下を抜けた。
ふと、空気が湿ってきたのに気付く。
そこが湯殿だとわかり、さらに浴槽があることにびっくりした。
海外にはシャワーだけで済ませる国のほうが圧倒的に多いと聞いていたからだ。驚いている霖に、女官長が笑いながら説明する。
「初めて見たのかい?ここではたいていの家庭にもあるんだよ」
「そうなんですか。ゆっくりお風呂に入れるなんて、嬉しいです」
「言葉はわかんないけど、喜んでくれてるのはわかったよ。
じゃあ、その黒い変な服を洗濯するから、脱いじまいな。一人で出来るかい?」
「大丈夫です。ご親切にありがとうございます」
恥ずかしいので出て行ってくれないかな、という視線は伝わったらしい。湯殿に待ち構えていた女性たちが、女官長の指示で退出する。
しかし、女官長は残った。
「ん?私はあんたの世話をするからね。
背中の傷はほぼ塞がっているけど、まだしばらく痛むだろう。
お医者から言われた入浴の条件だから、こらえとくれ」
羞恥心と入浴願望を天秤にかけ、後者に傾いた。
女同士だし。もう何日も入ってないし。
のろのろとボタンを外していると、女官長が興味深そうに見ている。
「そうやって外すのかい。もっとゆっくりした服に替えようと私たちが触っても、それは回ってもくれなかったんだよ。生地は切ろうとしても切れないし」
「いやいや、そんな大げさな」
冗談かと笑い飛ばそうとして、出来なかった。
女官長が、真剣な面もちで霖を見つめていた。
「言葉はわからないけど、あんたが大切に育てられたまっとうな人間だってことはわかるよ。さっきは御礼を言ってくれたんだろう?
亡くなった人のことを悪く言いたくはないが、スミュルナ殿下の前の婚約者からは一度も聞いたことがなかったよ」
「そんなんじゃ…」
「これは私が勝手に思ってることだがね。
あんたが、普通じゃないことはわかるよ。服も変わってるし、眠っていたときは異常に体温が低かったし、飲まず食わずの状態が長かったのに突然回復した」
女官長は責める口調ではない。霖の体の事実を言っているだけだ。誤魔化そうとか、言い逃れようとか、出来るはずがなかった。自分でも自分の状態がよくわかっていないのに。
緊張すると同時に、女官長の眼差しからは、後身を指導する人の持つ温もりを感じた。
フリーの通訳になる前の職場でお世話になった上司に雰囲気が似ている。
『あなた、自分のことをもっと知らなきゃダメよ。
言葉のニュアンスを間違いなく伝えてくれて、なおかつ心も伝えてくれそうだと、クライアントに思ってもらわなきゃ仕事も来ないわよ』
語彙を増やすことのほうが大切だと反発したこともあったが、退社してからその指導のありがたさがわかった。
まだまだその背中は遠い。あたたかく、厳しく、冷静にアドバイスをくれた上司。
体型は真逆だが、女官長に通じるものを感じた。フリーになるときに散々引き止める同僚たちのなかで、唯一背中を押してくれた人でもあった。
『あなたの人生でしょ。頑固者ってことを知るくらいの付き合いはしてきたつもりよ。
泣き帰っても会わないわよ、せいぜい恥ずかしくないような人になって成果を上げることね』
いまの自分は、恥ずかしくないだろうか。
この世界のことはよくわからないし、言葉も伝わらないし、トゥトの行方は知れないし、明日どうなるのかもわからない。早く日本に帰りたいし、家族のことを思うと居ても立ってもいられない。
それでも、相手にとってはそんなことはわからないのだ。いまここにいる自分をそのまま見て、判断している。それはこの世界も、もとの世界も、変わらないんじゃないか。
霖は女官長の視線をまっすぐに受け止めた。
おや、表情が変わったね。
女官長はたくさんの女たちを見てきた。純朴な者、疲れた者、打算的な者、美貌を鼻にかける者、怠惰な者。その誰とも違う少女の様子を満足げに見る。
少しは、根性がありそうじゃないか。
「あんたがどこから来たかは知らないが、スミュルナ殿下の気持ちから逃げないでおくれ。
あの方は今まで寂しい思いをされてきた。幸せになって欲しいんだよ」
途端に気弱そうに目をさまよわせる霖に、まだまだ子どもなのかねぇ、もう15くらいにはなってそうだけど、と手厳しい判断も下す。
この世界では婚姻年齢が若いので、よほどの箱入り娘だろうかと女官長は思った。
「もちろん、嫌なことを無理強いされそうになったら、私のところへおいで。馬鹿息子ともども叱りとばしてやるから」
ふふ、と霖が笑う。
笑うと月に照らされた野花のように、不思議に惹きつけられる魅力があった。
服を脱ぎ終わった霖の入浴に付き合い、彼女が成人女性とわかり仰天した。
指で年齢をたずねると、信じられないことに王子と二歳しか変わらないらしい。手足の細さや童顔から、もっと年下だと思っていた。
「なんてことだい」
身支度に必要な物を選び直す必要があった。
そのごたごたのなかで、霖は「トゥトのことを王子に聞きたい」と周囲に訴えた。
女官長が席をはずしている間に、どう曲がってそれが伝わったのかはわからない。
薄衣を着せられただけの霖が王子の居室に案内されたのは、皆の願望と誤解が絡み合ったすえの、手違いだった。
いつも読んでいただきありがとうございます。
予告の半分まで届かず申し訳ないです。
不定期亀更新ですが、これからも呆れずお気軽に読んでいただければ幸いです。
次話、ヒタイト帝国とアシリアです。




