粘土板
女官長にしおしおと連行されるリンを見送ったあと、分隊長は王子に訊ねた。
「俺はまだあの者を認めたわけではありません。
しかし、周囲に認知されている状況を覆すには遅すぎるのも事実。
素性がわからぬまま、あの者をどのように処遇されるおつもりで?」
「後ろ盾もなく、右も左もわからない彼女に負担をかけたくはない。
今のところ公共の場に立たせるつもりも、身分を与えるつもりもないよ」
王子は食事を済ませると、ゆっくりとした姿勢をとる。
部下たちを任務に戻らせて二人だけになった部屋に、気安い空気が流れた。
「まだ想いを告げたばかりだ。
警戒を解いてもらうのがひとまずの目標かな」
「初恋相手の少年でもあるまいに。
強引に迫るなり、奴隷にするなり、早く自分のものにしてしまわれるかと」
「人はものじゃないし、奴隷はしかるべき処遇が法律で定められている。王族は模範となるべきであって、強引に進めるつもりはない。愛妻家の言葉とは思えないね」
後半は聞こえなかったふりをして、分隊長は王子を気遣わしげに見た。
この方は公正であろうとするあまり、感情を殺し過ぎるきらいがある。正しい判断をしても、後悔しないはずはないのだ。そうでなければ婚約者を失ってから、降るように来る縁談を断り続けるはずがない。
「もう失わないように、真綿でくるんで大切にしたいと?」
「そう。私も命を狙われる身だ。屋敷外の、危険にさらすつもりはない」
分隊長はため息をついた。成人男子の言葉としては綺麗過ぎる。立場的に模範的回答を言うべきだとわかっていても、たまには良いかと、いたずらっぽく聞き返した。
「本音は?」
「すぐにでも抱いてしまいたい」
真顔で言い切ったあと、王子は神妙な表情になる。
「しかし、そうしてしまうと取り返しがつかないような気がするのだ。
蜂蜜を手にすると、果物の甘さでは満足できぬ。
おそらく、たとえ危険が迫ろうとも、別れたほうが彼女の為だろうとも、手離せなくなる」
愚痴を聴くつもりがのろけになった。
分隊長はため息をつく。
今までご苦労されたのだ、殿下には幸せになってほしい。相手を選んでくれればもっと嬉しいが。
「あの者の素性を探ることは止めません。そして殿下の足を引っ張るようなことがあれば、止められても叩き出します。
それでよければ、監視を兼ねて部下を護衛にあてましょう」
スミュルナ王子は苦笑しながら、うなずいた。
そこへ、伝令が到着する。
「報告します。イムホテプ様より便りが届いております」
「こちらへ」
分隊長は渡された粘土板の封印を確かめ、保護封筒だけを器用に割った。
まるでお手本のように端正な楔型文字を読み始める。
“はぁーい、分隊長ぉ元気ぃ?王子の恋路を邪魔してないでしょうねぇ?
パピルス製ならば破り捨てているところだ。
粘土板を強く叩き割れば破片が飛び散る。王子に破片が飛んではいけない。
ふだんお固い記録文書や、無駄のない報告文を読み慣れているだけに、余計に疲れる。これは報告書、これは報告書、と自分に言い聞かせながら、分隊長は先を読み進めた。
“策は中盤まで成功。でもさすがに、王宮の中心部まではなかなか入れないわねぇ。将軍がこちらを探っているわ。
現場監督に、敵の目を分散させるためとはいえ、突然新興貴族を向かわせるのは止めてちょうだいと、文句を言っておいて。店を変えなきゃいけなくなったわ。
移動ついでに、アシリアに寄るわ。そうするべきだと、占いに出たの”
読み終えて、要約を話し、王子に渡す。最後に、この粘土板を粉々に砕くのは自分にやらせてくれ、と伝えるのも忘れない。
「相変わらず水と油か」
「イムホテプは胡散臭い。どんな呪いが込められているかも知れません」
「占いや呪いを信じていないのだろう?」
「あいつが気に食わんだけです。
占いや呪いに関しては、大きな声では言えませんが、もちろんです。
我が家の、もっと恐ろしい女系人脈に揉まれて育ちましたので。
戦場で祈りを捧げることは欠かしたことはありませんがね。それは殿下も同じでは?」
「幼い頃から、神事の途中で何度も暗殺されかけてはな。
しかし、人の手の及ばないことへの敬虔さをなくしたつもりはないよ。私がイムホテプを信じるのは、何度か命を助けられたからだ。
まぁ、占いを抜きにしても古い友人として信頼しているがね。おまえもそうだよ」
同列に並べられたことが気に入らないのか、分隊長は鼻を鳴らした。
王子は粘土板に書かれたアシリアの文字を指でさす。
「市長の開門の要望書と関係があると思うか」
「歯がゆいことに、まったく不本意ですが、どうせ調べる予定ではありましたから。のちに報告いたします」
分隊長は荒々しく立ち去った。手に粘土板をきっちり回収して。
笑いながら、その背を見送る。
そういえば久しぶりに笑ったな、と王子は気づいた。どうやら、自分は気を遣われたらしい。
去りながらも部下に警護の指示を飛ばす声が聞こえた。人払いした部屋で、少しは休めということだろう。庇護するべきは自分ではなくリンのほうだと思うのだが、幼なじみの厚意はありがたく受け取ろう。
「策も動き出した。
オアシスについて、王に新たな報告をするべき時期だな」
さて、どのように手回しをするか。
静かになった部屋で、まぶたを閉じた。
ケメト国の王宮の執務室で、将軍は調査員たちの情報を集めているところだった。
「その占い師は捕縛できたのか」
「いえ、逃げられました」
「イムホテプ─階段ピラミッドを設計したという伝説の宰相を名乗るとは。
偽名かもしれないが、名に負けぬ知略に富んだ相手のようだ」
どうでも良い情報は集まるが、敵は誰なのか、何が望みなのか、肝心なことを掴めない。
重要な情報源であるはずの新興貴族の門番も、作戦の全容は知らされていなかった。
ヒタイトが絡んでいるようだが、物証はひとつもない念の入れようだ。
こういう時は視点を変えるに限る。
「調査員がオアシスから持って来た、あの文書を再検討する。
神官長の考察もそろそろ形になっているだろう。謁見を申し込んでくれ」
将軍は居並ぶ部下たちを見回す。
「もっと範囲を広げて、アイダリンという者を探し出せ」
いつも読んでいただき、本当にありがとうございます。おかげさまで3000pv突破しました。
ゆっくりとしか歩けない作品に、辛抱強く付き合ってくださる皆様のおかげで、書き続けることが出来ています。
これからも呆れずお気軽に読んでいただければ幸いです。心からの感謝を込めて。
次話、アシリアとヒタイト帝国です。




