目覚め
窓に現れた鳥は、樹の一枝を咥えているようだった。室内を見渡すように首を動かしている。
スミュルナ王子は手を伸ばした。
「迷って来たか?
このような時に殺生はしたくない。飛び去れ」
追い払おうとしたが、飛んで避けられる。
そのまま鳥は寝台へ翼を向け─少女の上を低く旋回しはじめた。
咥えられた枝葉は月光を受けて光沢を帯び、揺れるたびにシャラシャラと鳴る。
鳥が歌うように鳴く。
霖の耳ならばこう聞こえていただろう。
“起きよ 起きよ みどり児よ
聖なる木らは目覚めたり
種もいつかは芽吹くもの”
まるであの時のようだと、王子は思った。
オアシスで少女が倒れ、トゥトを追い込んだ時。
ナツメヤシの樹が枝を大きく揺らし、天幕のように視界を遮った。
垂れ下がる葉は、掻き分ける度にシャラシャラと鳴った。隆起した樹の根を踏み越えると、既にトゥトの姿は無く。
隠されるように葉が重なった下に、少女がいたのだ。背中の傷は半ば癒えていて、遠くに鳥の鳴き声を聞いた気がした。
ヒタイトの王族は帝国内の各神殿へ赴き、祭祀を執り行う権限を有している。
スミュルナが少女を保護することに、あの奇跡を目にした部下たちは一様に頷いた。茫然として追撃出来なかった分隊長すら仕方ないと肯定していた。政治的にも宗教的にも火種になり得る者を、そのまま捨て置けないと、あの時は判断したのだ。
“起きろ 起きろ 愛し児よ
立ち上がるため支えよう
右には鳥が 左には樹が
立ち上がるまで支えよう”
ハッと王子は霖を見つめた。
人知の及ばない事態にも、少女は静かに眠り続けている。しかし、顔色は明らかに良くなっていた。
呼吸も深く、安定している。
安堵から、脱力したように寝台に寄りかかる。
捕虜だ保護だと言い訳をしていたが、今夜失うかもしれないと知ったとき、激しく動揺した。
まさか自分にそのような感情がまだ残っているとは思わず、気付くのが遅れてしまった。侍医をふくめ、屋敷の者たちにはお見通しだったのだろう。
執務と心を切り離すことが普段から身についている。それでも、気付いたのちも誤魔化すほど王子は愚かでも悠長でもなかった。敵対した相手を許してくれるかは別問題だが、互いに生きている限り方法はいくらでもあると、信じたい。
そんな王子の様子を、威嚇するように鳥─トゥトが見ていた。
一度闘った仲だ。それだけに力量を知っている。この世界の住人にリンを護ってもらうとしたら、スミュルナ王子は数少ない候補者の筆頭と言えるだろう。
正直面白くはない。他の危険を招かねばよいが、今はこれしか打開策がない。
知性を司る精霊は、感情よりも理性をとった。
相手のわからない言語で説明をするくらいの意地悪はするが。
「リンの回復の代わりに、我は制裁を受けることになった。しばらくは、力の強まる月夜にしか会えぬじゃろう」
なんで勝手に決めるのよ、と怒る様子が目に浮かぶ。ククッと笑いそうになって、反応の無いリンを見る。らしくもなく寂しさをおぼえた。
「精神の治癒が傷の治癒に繋がるゆえ、負傷する前後の記憶が薄れるやもしれんが、じきに戻るので心配するな。
聖木の循環作用が強化される。少しならば飲食をしてもよい。
今宵のことは王子も覚えておらぬはず。これがギリギリ制約に触れぬ方法じゃ」
雲がかかったのか、月光が薄らいでゆく。
羽ばたきの音を遠くに聞きながら、王子は眠りに落ちていった。
口のなかが苦い、と霖はぼんやり思った。
漢方薬とかの、あの独特の後味がする。
何日も眠っていたかのように、瞼がくっついて開きにくい。目を閉じたまま、霖は手をさまよわせた。指先は布団の上を滑るが、いつもの場所に眼鏡が無い。
あれ、化粧も落とさずに寝ちゃったっけ、と思ったとき何か温かいものに触れた。
!
朝になると、間近に見知らぬ異性が眠っている。
そんな漫画を読んだことがある。でも、実際にその状況に陥った人は日本全国で何人くらい居るのだろう。いま絶賛パニック中の霖は、遠い目をしてそんなことを思った。
映画俳優も真っ青の、秀麗な顔から目を逸らす。
近くで見ると心臓に悪い。
トキメキより、逃げ出したいという気持ちが強いところが、自身でも情けない。世の中の女子先輩方は、こんなときどうしているんだ。
救いなのは、自分は寝具の中に居て、相手は傍らに座り上半身をこちらに預けている姿勢だということ。「責任をとって!」という伝家の宝刀は抜かなくて良いらしい。いやいや、発想がおかしい。ちょっと落ち着こうか自分。
深呼吸をする。
先ほどまで暖かいところに居た気がするのに、息が白く染まった。
少しだけ引き寄せた上掛けは、布団ではない。毛織物に近く、亜麻布が何枚も重ねてある。
天井は見慣れた材木ではなく、石のようなもので組まれていた。
ここってどこかの博物館とか、企画系のホテルでもないよね。気温も違うし、日本でもない。
それに、なんで眼鏡をかけてないのに見えるんだろう。感覚からしてコンタクトもしていないのに。
ん、コンタクト?
『なんじゃ、あの、目から出た鱗のような物は』
そう、オアシスのようなところで誰かと話した。
そして…
『逃げろ!!』
「トゥト!」
喉が枯れていて、声にならなかった。頭の中に、トゥトにまつわる記憶がドッと流れ込んでくる。一瞬でも忘れていた自分が信じられない。
翼を動かす音も、あのしわがれ声も聞こえない。
無事に逃げられたのか。
傍らに眠るこの人なら、霖が運ばれて来た時の様子を知っているだろうか。すぐにでも揺さぶり起こして聞き出したい衝動にかられる。
触れようとしたとき、大きな掌にいくつもの剣胼胝があるのが見えた。
もしかして、剣を日常的に握る世界なのか。
屈強な男が剣を持って迫る姿が、脳裏に浮かぶ。
背中の傷が痛い。
傷?そんなのいつ付けられた?
なんだか息苦しい。
余裕がなくて原因を探るのを止めると、何故か動悸もおさまる。
意識を周囲に向けて、息を整える。
壁飾りの豪華な装飾。
寝台のそばに置かれた水差しも美しい。
おそらく、上流階級の家だ。
支配階級と言うべきか。
霖にとっては、身分社会というものがよくわからない。母が近所の人と好んで見ていた時代劇が思い浮かぶくらいだ。江戸時代のように、身分の上の者が下の者を斬り捨てても赦される社会とかじゃないよね。
トゥトのことを訊ねるなら、逆にこちらの素性も訊いてくるはずだ。
ここがどこの国かも、どんな身分社会なのかも、霖は知らない。偉い人から目をつけられないように、なお且つ“イアルの野”のことを口外せずに、どう説明すれば良いのだろう。
トゥトの不在を、強く不安に思う自分がいる。さっき無事に逃げたのか気になっていたのに、身勝手だ。彼が必死に自分を守ろうとしてくれたのを思い出す。その努力の末に、いまの霖が居ることは間違いない。
出来ることを、出来ることからしよう。
まぁ、端から見たら大したことではないのだろうけど。もっと免疫をつけておくんだったと、心底思った。相手が目覚める前に、もっと情報を集めたい。敢えて見ないようにしていた対象を観察する。
背にドレープを寄せた清潔そうな服。縁取りには繊細な飾り。
手首には派手ではないが、宝玉と金の腕輪。
ごつごつした掌が大きい。小指に霖の髪が絡んでいて、なんとなく目を逸らし、顔へと視線を移す。
うわ、まつげバサバサ、爪楊枝が乗りそう。
顔立ちは、オリエンタルとヨーロッパ系の美の融合としか言いようがない。言語体系はどうなっているのか、職業柄気になることに脱線してしまう。
どうしてだろう、初めて会った気がしない。記憶がもやもやとして掴めない理由を、霖は動転しているからだと思った。
美形も半分しか見えなければ、緊張しないだろうか。空いてるほうの手のひらを、男性の口元が隠れるようにかざしてみた。
『弓を』
ブーケを被り、指揮をしていた。
「あっ!」
トゥトと闘っていた相手だ!
思わず体を離そうとしたが、出来なかった。
かざしていた手を、強い力で引かれる。
「目覚めたか」
耳元で、低く艶やかな声が響いた。
いつも読んでいただきありがとうございます!
また、ブックマークと評価をありがとうございます!おかげさまで気力を得て投稿しました。
今週末は職場のイベントのため更新できませんが、近々投下できるよう、ちまちま書きためる所存。
今回で恋愛タグ詐欺は回避できたのでしょうか…じれじれ展開で申し訳なく。
相変わらずの不定期亀更新ですが、これからも呆れず気軽に読んでいただければ幸いです。
次話、ヒタイト帝国とケメト国。




