聖なる木
一部残酷な表現がありますのでご注意下さい。
トゥトの言いつけ通りに、霖はナツメヤシの背後に隠れていた。
雨はいつのまにか小降りになっている。
雲の流れが速いので、もうすぐ止むのかもしれない。
息をひそめ、濡れた葉の陰から様子をうかがう。加勢したいが、自分が足手まといになるのは分かっていた。
祈るような思いでトゥトを見つめる。
不干渉の制約があると彼は言っていた。
おそらく、この世界の住人の前では鳥の姿となり飛んで逃げることは出来ないのだろう。
切迫した状況にも関わらず、足取りは静かだ。
不謹慎かもしれないが、まるで舞のようだと霖は思った。
トゥトの長い袖が翻る。
向かって来る男たちの視界を遮るあいだに、体勢を優位に立て直している。
攻撃されても難なくかわし、避けきれないものは分厚い本で受け流す。青銅の剣に擦られても本が破けないのは、衝撃を完全に消しているからか、材質が紙ではないのか。どちらにしろトゥトの動きが際立って見えた。
対峙するヒタイトの王子、スミュルナは早くも相手の特殊性を実感していた。
腕力や身体のバランスは我々の方が上なのに、傷を負わせられない。
攻撃を部下と交代し落ち着いて観察すると、剣を向けられる前に、トゥトが正確な防御姿勢に入っているのがわかった。
こちらの動きを読んでいるのだ。
王子をも含めて十人それぞれの動きを、おそらく何手も先まで。
そんな芸当が出来る者に会ったことがない。
どんなに優秀な武人であっても、一人相手に数手先までが精々だ。
トゥトは最小限の動きで防ぎ、こちらは大きく振り回される。ヒタイト側の疲労が蓄積するのが狙いとすれば、今のところ成功していた。
トゥトがまさか攻撃を禁止されているとは思いもせず、それも何か戦略なのではないかと王子は勘ぐった。敵の得体の知れない強さに、部下たちの志気が下がりつつある。このままでは負傷者が出る。
トゥトの狙いは何か。
足さばきに注目すれば、木立から離れるように誘導されているような気がした。
以前、多勢に無勢で暗殺されそうになった経験がある王子は、たとえ相手が一人であっても油断はしない。生き残らなければ、相手を批判することも出来ないのだから。
確証を得る為には手段を選ばない。
雨は止んでいた。
「弓を」
近距離戦に弓は不利だ。
それを何故持たせるのか、誰も王子に疑問を挟まない。兵士が後退し、弓を構えた。
部下たちの腕を信頼しているので、王子は平気で背を向ける。
「放射状に放て」
指示と同時に、自らはトゥトへ走り寄る。
大きく振りかぶった手の動きを途中で加速し、器用に剣の軌道を変えた。
予想外の動きにトゥトが慌てる。
スミュルナの攻撃を本に受けるも、衝撃を殺せない。無理な体勢から、強引に一本の矢を弾くのが精一杯だった。
王子は確信する。矢が飛んでいくはずだった一方向を指差した。
「あの樹の辺りに何かがある、向かえ」
「はっ」
応えたのは分隊長だった。
霖は悲鳴を飲み込んだ。
屈強な男が猛然と自分のほうへ向かって来る。
足が震えて動かない。
「逃げろ!!」
トゥトの声に霖はハッとした。
必死で守ってくれたのだ、簡単に捕まるわけにはいかない。
せめてもの抵抗に、震える手で枝先にあった果実をいくつか掴むと、闇雲に投げた。
落ちる先も見ずに、走り出す。
ひとつの実は分隊長の手前で落ちた。
もうひとつは遠くへと、大きくはずれる。
トゥトに斬りかかろうというとき。
飛んできた物を、王子は反射的に叩き斬った。
ナツメヤシの実だ。
果汁が流れ、柄を伝う。この実は油分と糖分が高い。拭き取らねば、手が滑ってしまう。
「ちっ」
万全の状態でなければ適わないことは、理解している。王子が手を止めた隙に、相手は大きく後退していた。
いくつもの矢が降りかかるなかを、トゥトは霖へと走り出す。それを弓矢が追う。
本は針山のようになったが、猛然と走る速度は変わらない。
尚も狙おうとする部下を、王子は留めた。
木立の先は湖だ。逃げ場はない。
「囲むように追え」
忠誠心の厚い分隊長にとって、霖の反撃は許せるものではなかった。
一見して見慣れない服に警戒はしたが、華奢な肩幅から女性であることはわかったので、穏便に捕らえるつもりだった。が。
心酔する王子に不利益となるならば、酌量の余地はない。
『刃向かう場合は、問答無用に斬り殺せ』
またたく間に追いつく。
女は持ち物を懲りずに投げて寄越したが、またも見当違いの方向に飛んで行った。
分隊長はその細い背中に狙いを定める。ためらいもなく剣を振り下ろした。
「…っ…っ!」
痛みのあまり、声も出ない。
気付けば、霖は地面に這いつくばっていた。いつのまに倒れたのか、その瞬間のことはわからない。
脈打つように、頭がガンガンする。
背中が燃えるように熱い。
手足は冷えて、濡れた砂地を蹴って後ずさろうとしても、力が入らない。
耳のそばで足音がした。
とどめを刺されるのか。目が霞んで、よく見えない。周りのこともわからなくなっていく。
いやだ、いやだ。
『体に戻る前に消えてしまうぞ』
まるで最初から居なかったように消滅するのか、
家族や友人も知らないところで。
わたしが生きた証ってあるのかな。今まで気にもしなかったことを思う。もし結婚して子どもを産んでいれば、もう少し胸を張れたのだろうか。
『そんなに仕事仕事って、縁遠くなるばかりじゃないの』
好きな仕事をして、家族と友人に恵まれたことも幸せなんだよ。まぁ、ときどき。誰かの肩で泣けたらいいな、と思うときもあるけど。
『わかってる、大丈夫だよ。ここで泣いて良いよ。霖はそのままで良いよ』
わたし天の邪鬼だから時々思っちゃうんだ。今の自分を全部肯定してくれるっていうのは、未来の自分を否定するってことに近いんじゃないかって。
甘えと依存ってどう違うのかな。
『…頑固な。何が望みか』
わからない。
望みを見つけるのが望みかも。後悔したくない。
これまで遺された者の立場でしか考えて来なかったけれど。
夢半ばに妻子を遺して、父はどんな気持ちだったのだろうと、初めて思った。
『では、今、この瞬間は何を願う』
のこされたといえば。
トゥトはどうしただろう。
「すべてのことから護ると言ったのに、すまぬ」
どうか、ぶじに、にげてほしい。
『聞き届けよう』
数日後。霖はとある一室に寝かされていた。豪奢な寝具は、少し痩せた頬を更に青白く見せる。
広い部屋に、低く艶やかな声が響く。
「まだ目が覚めないのか」
「は、分隊長が手加減していたのか、傷は治りかけているのですが」
手加減したわけではない、とは本人の談だ。
深い傷が数日で癒えるはずもない。治癒の理由については、出逢った詳細な場所も含めて、箝口令をしいている。
侍医が知るはずもなかった。
「目が覚めぬ原因は?」
「ひどく衰弱されているからだと」
一人の捕虜に、医者が敬った態度を取る。
屋敷の者たちが、霖を王子のものだと認識している一端がうかがえた。
辺境視察の帰りに保護したと聞き、素性の怪しい女を身近に置くことを危ぶむ忠臣もいた。周囲の目を欺くためだと王子が言えば納得したが。
婚約者が亡くなって以来、武芸を磨くばかりで女っ気のなかった第二王子にやっと恋人が、と今では大歓迎されている。
この者を保護するには、そのほうが都合がよい。 肯定はしないが、誤解を解くつもりもない。
分隊長は苦い顔をしていたが。
「たった一人の重要な参考人なのだ。これからも手厚い治療を頼む」
「は、畏まりました」
「薬湯をこちらへ」
「スミュルナ殿下のお手を煩うわけには…」
階級に厳しいヒタイトで、王族に反論できる者は多くない。
老医師は数少ない気安い間柄ではあるが、王子の譲らない表情を見ると、静かに薬湯の入った器を渡した。いささか微笑みながら、何も言わずに退出する。
王子は寝台に腰を掛けた。
長い黒髪を武骨な手で梳き、耳にかけてやる。
「早く目覚めよ」
薬湯を綿に含ませると、霖の舌に慎重に乗せた。
喉に詰まらぬよう、少しずつ染み込ませてゆく。
こうしていると、普通の少女のように見えるのだが。
英邁と評判の王子をしても、理解できないことばかりだ。
指先に触れる唇は、少し冷たかった。
遅くなり申し訳ありません。
いつも読んでいただき、ありがとうございます。
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次話はケメト国。
相変わらず不定期亀更新ですが、呆れずお気軽に読んでいただければ幸いです。