注意せよ
霖がもとの身体へ戻るには、この“イアルの野”でしばらく過ごさないといけないらしい。
トゥトが言うには、他にもいくつか注意するべきことがあるという。
もし、滝に打たれろとか、砂漠を一周走れとか、何年も精神修行が必要だと言われても自信はないが…。
水辺に手頃な岩があったので、そこに座る。
緊張した面もちで霖はペンを持った。
「よいかリン。この世界ではな…」
厳かな口調でトゥトは言う。
「恋愛禁止じゃ」
霖は脱力した。
「今どき、どこの芸能人よ」
「芸で身を立てるには、もう年嵩じゃろうて」
「…あのねぇ、トゥト」
霖は笑顔だった。藍田兄妹は怒ると笑顔になるのだ。気圧されて、トゥトは思わず鳥肌が立った。もとから鳥だが、羽が逆立った。
「な、なんじゃ」
「古今東西、女性の年齢についてむやみに触れてはいけないのよ。肌の張りよりも芸の上手さにほれぼれとさせる芸能人だって数えきれないわ。
例外があるとしても、少なくとも私は恋愛話と年齢と下ネタを不用意に言われるのは好きじゃないって、トゥト自身の辞書に載せておいてね」
「覚えておこう」
「それと、わざわざ禁止を言い渡すほどに、私は異性に飢えているようにでも見えるの?
ここっていわゆる死後の世界なんでしょ?
誰彼かまわず、ましてや幽霊相手に言い寄るような女性に見えるのかって、聞いてんのよ」
最後はドスの利いた声だった。
トゥトは後ずさった。
霖が感情をあらわにするのは親しい者以外では珍しく、ある意味身内認定されたと言ってもよい。慰めにはならないだろうが。
「そ、そういう意味ではないのじゃ」
「じゃあ、どういう意味よ」
「おぬしが先ほど食べた木の実は“イアルの野”に存在を馴染ませるためのものじゃ。
今はそれで安定しておるが、これ以上この世界のものを取り込むと、馴染み過ぎる。精神治癒がすんでも現世に戻れなくなるのだ」
実を食べさせたトゥトを、霖は責める気にはなれなかった。良かれと思ってしてくれたのだから。
ただ、精霊だけに浮き世離れしているというか、こちらから訊ねなければ圧倒的に説明が足りず、もどかしくは思う。
いまいちすっきりと理解できない。
「恋愛と食べ物がどう関係あるのよ?」
「そりゃあ、摂取できるもののなかで、いちばん 精神体に作用するのは体液だからじゃ」
「え?」
「言い換えれば、セッ─」
ガシッと嘴をつかむ。
取引先の社員が言う下ネタやオヤジギャグは仕事だから我慢するが、トゥトに遠慮はいらない。
少なくともさっき釘は刺したのだから。
自らを“文字と知恵を司る神の化身”と言ったわりには学習能力が無い。
「もっと説明するべき事は他にあるんじゃない?」
と力を入れると、激しく頷かれた。わかってくれたようなので手を離す。「乱暴じゃのう」と言ってるが気にしない。せっかく言質をとったので、疑問に思ったことは遠慮なく訊ねる。
「体があるってことは、私と違ってこの世界の人は精神体じゃないの?」
「リンとは違う。実体もあるし、死もある。
ここで二つ目の注意事項じゃ。この世が“イアルの野”ということは、口外してはならぬぞ。
もしこの世界の者が知ってしまったら、生活に疑問を持ち、自暴自棄になりかねぬ。先ほどのリンのように、生死の境にいるような者の場合は、動揺のあまり存在が危うくなるやもしれぬ」
「古代エジプト人以外もここにいるの?」
「そうだ。ヒッタイト人もアッシリア人もバビロニア人もヌビア人もいる。
大まかな特徴としては、前世で過ごした場所が似ている者同士で集まる。前世の記憶は残していないのじゃが、落ち着くようでな」
「たとえば山脈は越えるけど、海は越えないとか、そういうこと?」
「それは多くの者の意識が外洋に向いているか、内陸に向いているかによって世界は広くも狭くもなるな。
あまりにも時代や地理的な隔たりがあると、別に世界をつくったりもする。ローマ人は少し座標のずれた世界におるしな」
そして、すこし憂うような声音になった。
「人間にとってあまり認識されていない地については、変容の余地が大きいのじゃ。
平和が長すぎて戦いを求めるようになると、不毛の緩衝地帯に思わぬものを引き込んだりもする」
それがこのオアシスのことだとは、空気の読めないトゥトもさすがに言えなかった。以前は水溜まり程度だったものが、短期間でここまで変わっているとは把握していなかったのだ。
「はじめは人々の信じる力によってできた世界だった。そこに、一生をまっとうした者たちの魂が集まった。それぞれの神を信じ、それぞれの生活様式で過ごし、この世界に育ったものを食べるうちに、魂は力を蓄え、実体を保つようになった。
今ではふつうに子どもとして生まれ、国も出来、争いも起きる」
「“イアルの野”って、現代人が思い描く天国みたいなものじゃないの?
古代人の信仰については詳しくないけど、天国って労働や戦争は無いと思っていたわ」
「この世界を何と呼ぶかは自由じゃ。我を信じる者たちがそう呼ぶので、“イアルの野”と我も呼んでいるに過ぎぬ。
働くことを誇りに思う者も、商売や学力を競うことに喜びを見いだす者もいる。多くの願望が集まり社会となる。階級や闘争であったとしても、人が集まることで自然発生するものを、我らが抑止することはないのじゃ」
「放任主義ね…もしかして不干渉でいなければならないの?」
「否定はせぬ。
まあ、我ら精霊に害が及びそうなときは警鐘を鳴らすがな。通常は、それぞれの世界を行き来し、生態系が全滅しない程度の調整を行う。
あの世というより、前世によく似た異世界と言ったほうが分かりやすいかの」
霖はメモを読み返した。
「まず、恋愛禁止。飲食もダメ。“イアルの野”については口外しないこと、か。
もとから恋愛に淡白だし、今のところ全然おなかも空かないし。まあ、極力人に会わないように、このオアシスから出なければ問題ないんじゃないかしら」
「そう簡単に済めば良いのじゃが」
トゥトは視線を巡らせた。
ケメト国の諜報員らしき者が近付いて来る。
「リン、紙を一枚くれんか。警告文くらいは渡してやろう」
オアシスから中年の男が慌てて出て行くのを、遠目に見ている者たちがいた。
気付かれないよう、風下になる砂山の陰に伏せて潜んでいたのだ。
「馬を操るのが上手すぎる。
巧妙に商人を装っていますが、あれはケメト国の諜報員でしょう。王子、捕まえますか」
「今は泳がせておけ。我々ヒタイトがオアシスに気付いていると知られないほうがよい。富めるケメトの国力は侮れぬゆえ、父上の悲願をかなえるには慎重にならねばならぬ」
「先ほどの男が増援を呼ぶやもしれません」
「案ずるな。相手はまだ情報を収集する段階だ。
それに、ケメト国内を荒らす策がそろそろ始まる。
報告を聞いたのちに我が軍を動かしても十分間に合う。
それよりも…」
王子はベールからのぞく秀麗な目をオアシスに向けた。
「なぜ、あれほど慌てていたのか。原因を確認するべきだ。行くぞ」
ほとんど足音を立てずに、近付いていった。
読んでいただき誠にありがとうございます。
説明回なので、展開が遅く申し訳ありません。
次回はもう少し速くなるかと。
相変わらずの不定期亀更新ですが、呆れず
お気軽に読んでいただければ幸いです。