3…考える人
その後の事は、その前の事同様に、あまりよく覚えていない。別に、その後気を失っただのというような、ドラマじみた事があった訳ではない。ただ、覚えていないだけ。
あの戦慄に比べたら、どのようにその場を去って帰宅したのかなど、どうでもよかっただけなのだ。
そうして今まで生き残ってきたその記憶――
思いおこす度、未だに、あの妙な浮遊感と――下手したら『向こう側の私』を殺した事になっていたかもしれないという恐怖に似た罪悪感が甦ってくる。
だって――ありえない事だとは分かっているが――もし向こう側の私が、こちらの私と別の意識、人格を持っていたとしたら…向こう側の私にとってこちら側の私は残酷な人殺し以外の何者でもなかっただろう。否応なしに、こちら側の私の動きにしたがって、わざわざビルの高みから落ちに行かなければならないのだから。
そして、落ちなかったからいいようなものの、あの足元はあまりにも不確実。もし、もし――…
――目に見えない『床』が音もなく消えて、足を支えるものがなくなって。
――突然視界が上に動いて、髪が逆立って。
―加速しながら、臓器が浮き上がるのを感じながら、ひたすら落ちて。
―そして…
そこまでは、下りのエレベーターやジェットコースターでの経験から想像できるが、地面に激突する感覚など、さすがに経験はないし、想像したくもない。
―何をやってるんだ。
ふと我に返って、そう思った。
あの事を思い出す時、考えるのはいつも同じ事。墜ちたらどうしよう―ずっとそうだ。
そんな、進歩のない事を考え続けて、成果のない思索に縛られて何になる?
こんな事をやって、ほうけている場合ではない。もうそろそろ、私に与えられた領分を全うしなければならない時間だ。
机に向き直る前に、名残にと窓の外を見遣った時、足場を歩くヘルメットの男と目が合いそうになって、全力で顔を逸らした。
今日も、半日を消化した。
首に巻いたマフラーに顔を埋めるように俯いて帰る。手袋を忘れたから、手はポケットの中。
『転ぶといけないから、手はポケットから出しましょう』とかいう注意を、この歳になって守るつもりはない。駆け出したら数メートル毎にこける、幼稚園児のような等身ではない。
私くらいの人間が、ポケットに手を入れたまますっ転んで擦り傷を負うのと、極寒の中、無防備な手をさらして冬の間中しもやけに苦しめられるのとでは、そうなる確率から言っても後者の方が圧倒的に嫌だ。リスクが大きい。少なくとも私はそう思う。女は概して冷え症だ。
…別に、そんなくだらない確率を真面目に考えるつもりはないが。『ちょっと計算してみようかな』と思う自分がいるのが恐ろしい。そんな事、何の利益もないのに。
「じゃ、またね」
ふいにそう言って、別れ道で友人は去り、後ろ姿は小さくなって『背景』の群集に同化していった。
『ふいに』と言ったが、それは単に私が、途中まで一緒に帰っていてくれた彼女を意識の外に置いていたからに過ぎない。
彼女の話には、(我ながら巧妙に)適当な返事をしていた。
「考える人」は。
もとは巨大な彫刻の登場人物の一人だったという。―『地獄の門』。
地獄に落とされ苦しみ叫ぶ者達、その惨状に気付いているのかいないのか、彼は丸まったまま『考え』ている。
彼は地獄について考えているのだろう。実に哲学的だ。
私が最近考え込む事はそんな『哲学』と名がつく崇高な物とは程遠い。
そう、実生活に全く役立つ事もなければ、風流でもなく、人間の真理だとかそういう事には何も関係ない。要するに、本当に、くだらない事なのだ。
程なくして、近くの私立小学校の生徒らしい児童数人とすれ違った。『寿司屋で何を頼むか』『サーモンはあまり好きではない』などと口走るのが耳に入る。
彼らはおそらく1年生…いや、2年生だ。全く見知らぬ顔だが、何となく分かる。初々しさの中に、ふてぶてしく気取った先輩面が見え隠れするあの態度。
ふと、私の頭の中は、まだ彼らのレベルから抜け出せていないのだろうか、と思った。
後方から風が吹き、枯れ葉が私の歩みについてくるようにカラカラと転がっていた。
反省会 しばらく更新ペースが亀でしたが、ついこの間から、なんだかどんどん書けそうな気がしてきました。3つの連載を順々に書いていくというノルマに対して億劫さを感じなくなったというか、文章をすっと打てるようになったというか。これをスランプからの脱出というんでしょうか。 今回の第3話で、初めて作品名が本文中にどーんと出てきました。これが最初で最後かもしれません。サブタイトルを元ネタと少し変えようかどうか考え中です。今回の元ネタはもちろん、ロダン作『考える人』。