マイナーコードは幻聴なのか?
私は今、知らない小学校の、幅が広くて高さの低い階段をただ淡々と一段ずつ上っていた。つい数年前までこんな上り辛い階段を使ってたんだなと思い返す。そういえば、私の母校は階ごとに階段の色が分けられていた気がする。
大体、こんな不法侵入したくは無かった。けれど、いつも授業ノートを見せてもらってる友人の頼みで、加えて五千円あげるから、とまで言われたら手伝うしか無かった。そもそもオカルト部なんて非科学的なもの面白いのだろうか、私には分からない。
一階の踊り場辺りに着くとふと頭の中にピアノの音が流れ込んできた。
C#マイナーの和音から始まったこの曲は、どこかで聴いたことがある気がする。
立ち止まって耳に手を当ててみたけれど、音は大きく聞こえてこない。
よくある事だし、私の脳内で流れてるだけかもしれない。こんなにハッキリ聴こえてくることは無かったんだけど。でもなんの曲だろう?
聴いたことあるけど、とても悲しいイメージが浮かぶだけだ。
ええっと、そもそも何を調べるんだったっけ。あぁ、音楽室にあるピアノを弾いて起こった事をレポートに書いて欲しいって言ってたっけ。なんでも友人の話では確か事故に遭った少女の霊がいるとか。
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幾年か前に14歳の少女がいました。少女はその小学校の卒業生で、学校の近所に住んでいました。
少女は小さいときからピアノを習っていて、とても練習熱心な子でした。毎年一回、習っているピアノ教室で発表会があったので、少女は三ヶ月も前からある曲をひたすら練習していました。
とうとう本番の日になりました。少女は発表会の為に買ってもらった、フリルのついた黒いワンピースを着て、いつものように自転車に乗って教室へと向かいました。
ちょうど、小学校が見える角を左折する時でした。緊張して周りをよく見られていなかったからでしょうか、少女は直進してきた車にはねられてしまいました。少女は衝撃で大きく跳ねて落下し、車の下敷きになってしまいました。
その時本能からでしょうか、ピアノを弾くための大事な手を地面に付けないように背中から倒れようと回転したようでしたが、落ち方が悪く右手の小指から地面に着地しました。ぽきりと音がしたかと思いましたが、すぐに車が少女の肉を潰す、ぐしゃという音にかき消されました。
運転手は慌てて車から出てきますが、車の真下からは血が止めどなく流れ出てアスファルトを赤黒く染めていきます。運転手の通報により間もなく救急車が到着しましたが、その場で死亡が確認されたそうです。
その日の夜からです。小学校の音楽室からある曲が聞こえだしたのは。
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機械的に上っていると、いつの間にか音楽室の目の前まで来ていた。友人から聞いた内容を思い出しながらも頭の中には未だ曲が流れていて、思い出した内容は殆ど曲と共に意識の外へ流れていってしまった。たまに高音の旋律が途切れるのが気になってしょうがない。あまり上手い演奏じゃないし。
だんだん、前にこの曲を弾いたことがあった気がしてきた。
そういえば友人が分からないって言っていたある曲が、中学二年生の発表会での曲なら難易度的に『アラベスク』や『春の歌』が適当だろうか?
頭の中で流れてる曲が、もし幽霊かなんかが弾いてるんだとしたら、もっと上手く弾いて欲しい。何年もその曲しか弾いてないなら尚更だと思う。幽霊だって上達はするだろう。
「入ってみるか」
そう呟いて、私は音楽室の扉に手をかけた。
古い木の引き戸はガラガラと音を立てて動いた。開けた瞬間、脳内で流れていた曲が嘘のように聴こえなくなった。やっぱりただの空耳だったんだな。
分厚いカーテンが全て閉まっている事を確認すると、すぐ側の壁にある電気をつける。友人が音楽室だけは電気をつけてもほぼ分からないと教えてくれていた。
光源が弱い懐中電灯だけの暗闇に慣れていたため、目が一瞬眩む。次第に目が明るさに馴染んだら、教室中を見回してみた。
壁に貼ってある作曲家達の肖像画が、不気味にこちらを覗いているけれどもそれは何処の学校の肖像画も同じようなものだろう。しかし何もないと分かっていても、長い間目を合わすのは避けたい。動きそうとかそういう理由じゃなく肖像画が嫌いなだけなんだけど。だって、絵が動くわけ無いじゃない。
私はグランドピアノの方に近づいた。鍵盤のある方へまわると、蓋が開いたままになっていた。さらに、誰かが座っているかのような位置まで椅子が引かれていた。
……きっと最後に音楽室を出た人が、弾いたまま出ていっちゃったのだろう。うん、きっとそうだ。
どうせグランドピアノが弾けるなら、何か一曲弾きたいから、自分の高さにイスを調節する。
それが終わり、座って何を弾こうか考えていると、突如身体中を蛆虫が這いまわるかのようなむず痒い不快感が私を襲った。
数十秒続いた後、私の両腕が独りでに持ち上がり、両手が鍵盤の上に置かれる。驚いてイスから立ち上がろうとしたけれどどんなに力を入れようと、私の両足はまるで糊付けされたかのように床とペダルから離れない。
その間も、手は冷たい鍵盤をまさぐるように勝手に動く。
動きが左右とも止まると、拍を感じているように腕がゆっくりと持ち上がる。そのままゆっくりと下ろされると、左手小指と右手の親指と人差し指と薬指に力が入るのが分かり、鍵盤はしずみこんで、音楽室に悲しげな和音が溢れる。
そのまま私の指は、まるで独立した意思を持ったかの如く次々と音を紡ぎだしていく。
それも、音楽室に入るまで流れていた、空耳だと思っていた"あの曲"を……。
頭が恐怖で真っ白になった。けれど弾かされていると、やがて脳内にはある思い出が映し出された。
皆が黒い服を着て俯いている、祖々母のお葬式だ。そうだ、確かにこの曲はお葬式の時に流れていた曲のひとつだ。だから悲しげなイメージだったのか。
曲名が分かると同時に、何度かこの曲を弾いてみたことがある事も思い出した。有名な曲だし気になったから弾いてみたいと思っていたら、ちょうど家に楽譜があったからだ。
そうなると、今なお音を出し続けている指の次の行き先が分かってきた。記憶力にはあまり自信はないけれど、音楽の事となると結構覚えているんだよね。
先を考えながらも力に従っていると不思議なことに(今でも十分不思議なんだけれど)自分の指の感覚が徐々に戻ってきた。鍵盤に押しつけられている感触から、鍵盤を弾くという感覚に変わっていく。主導権を取り戻した私は、そのまま曲を弾き続けた。
感覚は戻ってはきたけれど、まだ指は意思を持ち続けているようで、力を制御できず時々音が突出した。
しかし曲の最後の連符に差し掛かる頃には、違和感はさっぱり消えていた。最後の一音まで弾ききり、残響も消えた頃、私は立ち上がってピアノを片付けようとした。とっくに足も自由を取り戻していた。
『ピアノを弾いてはいけない?』
音を出すどころか、丸一曲弾き終えたんだ。これで怪談なんてものは無かったと書けるだろう。だって霊なんているわけが無いんだから。
さっきまでの違和感は、多分私が最近忙しくてピアノを弾けてなかったから、そのブランクのせいだろう。あと、心の中でこの曲を弾きたかったんじゃないかな。気持ちだけ先行したんだ。そう、決して幽霊なんかじゃない。
鍵盤に布のカバーを被せようとした時だった。曲が流れてきた時のように、頭の奥から、しかし今度は声が聞こえてきた。
「・・い・・びね」
風が囁いているような掠れ声でよく聞き取れなかったが、確かに私に話しているようだった。しかし見渡しても音楽室には誰もいない。また空耳か、と思ったら、再び聞こえてきた。
「・れいな指ね」
指?カバーを取り合えず譜面台に置いて、自分の指を見ながら動かしてみたけれど、何の異常も無い。けれど声はさらに続く。
「・本揃っ・・麗なゆ・」
やはり上手く聞き取れない。つい私は聞き返してしまった。
「指がどうした?」
「あ・たの指がうら・・しい」
「誰だか分からないけれど、もっと大きな声で言ってよ」
苛ついてきた私がそう叫ぶと、突如音楽室の照明が落ちて、謎の声が掠れたまま大きな声になって聞こえてきた。
「あなたのその綺麗な十本の指が羨ましいわ、羨ましい。欲しいわ。欲しい。ちょうだい、ちょうだい、ちょうだい、ちょうだい、ちょうだい、ちょうだい、ちょうだい……」
すると、私の右手首が誰かに引っ張られているようにピンと伸びた。左手で抑えるが力は弱まるどころかどんどんと強くなっていく。ポキリ、という小気味良い音と共についに関節が外れた。
「私はあなたの手が欲しい。でもね、手だけでいい。私の思う通りに動いてくれる、その綺麗な手が欲しいの」
皮膚が引きちぎられ、真っ赤に染まった肉が顕となる。あまりの激痛に叫んでしまうが、尚も力は強まるばかり。ついに、グチャッと聞こえたかと思うと肉と共に神経すら裂け、既に関節が外れていた私の手首は床に落ちた。突然引っ張られる力が無くなり、だらりと下がる右腕の先からは、鮮血が滴り落ちる。
今度は左手首に同じ違和感を感じた。抵抗しようともどんどん力は増していく。暗闇の中、私の悲鳴に混じって再びポキリと音がしたかと思うと、グチャッ、ドサッと続いて聞こえ、私の左手首は足下の暗闇の中に落ちた。
両手首から先が無くなり、止めどなく流れる血は、落ちた手首を真っ赤に染め続ける。
激痛と貧血で薄れゆく意識の中、鍵盤の白と黒に赤を垂らしながら、宙に浮いた二つの自分の手首が奏でる夜想曲が聞こえる。まるで私を弔っているかのように。
その音も次第に遠のいていく。遠くとおく、深いふかい闇の中へと。
脳内に流れてきた曲を参考音源のような感じで付けてみました。よろしかったら下から聞いてみてください。