猫耳幼女とデスゲーム
チャイムが鳴り六限の日本史が終了して教諭が退室した途端、一気に弛緩した空気が流れた。HRが始まるまでの間、一年E組はいつもと変わらず喧騒に包まれている。
黙々と読書をする者、談笑する者、眠りこける者、各々の行動をしている中でもお貴族様の会話はボリュームが無駄に大きいので良く聞こえる。どうやら例の如く、神崎と有馬及び取り巻き連中が内輪ノリを楽しんでいる。
頬杖をつきつつ横目で教室後方を見やる。なんかじゃんけん大会を開催していた。あ~、アレだろ知ってる知ってる。ファミレスのドリンクバー奢りとか自販機にジュース買いに行く罰ゲーム的なやつだろ。俺はやったことないけどね。
くだらん。思わず失笑してしまう。彼らにとってはあの一連の流れも青春の一ページとして刻まれるのだろう。下手な青春劇を見せられているようで、寒気が走る。
と、そこで勝敗が決したらしくシオリとか言う空手少女が、うへぇとした可愛げのある愛想笑いを浮かべながら教室後方の引き戸を開け、出て行った。ここは三階で自販機は一階にある、そして階段に行くには窓越しとはいえ俺の横を通ることになる。
何となくシオリという少女を目で追っていると、透明な窓越しに彼女が通過するのが見えた。またあのマイナスイオンを発散してそうな笑顔でいるのかと思ったのだが、しかし予想は外れた。その一瞬だけ垣間見えた横顔は、日々の残業で疲れているウチの親父と同様の雰囲気を纏っていた。つまるところ、誰が見たって乗り気ではなさそうと一目で分かる顔つきだった。
彼女の遠ざかる後ろ姿を見つめつつ、大変そうだなぁと他人事のように思う。いや、実際他人事なんだけど。まぁ、なんつーの。あんな感じで他人に同調して同意して、意気投合したフリをしないと一軍ではやっていけないのだろう。それを人は協調性と呼ぶのだろうが、俺からすれば失笑どころか冷笑ものだ。
一人でいちゃいけない、孤立することは惨めなこと、なんて腐った価値観がきっと彼女の笑顔を支えているのだろうと思った。社会で生きるために必要なスキルであるのは確かだろう、けどそれは無理をしてでも培わなければならない能力なのだろうか。俺からすれば職場だろうがしっかり仕事をしてればそれで良かろうと思う。
こういう考えを持つ奴が社会人ぼっちになったりするのだろうか、ならば他人に迷惑をかけないために俺は働かない方が良いな。働いたら負けだ。正社員になるだけが人生ではない……社畜ダメ、絶対。
何事もなく帰路に着き、洗濯物を取り込んでそれから飯を作る。そして帰ってきた中二の妹と二人で晩ご飯を食す。現在、台所で食器洗いに勤しんでいる。今日の家事当番は俺なのだ。ちなみに妹はソファで寛いでいる。寝転ぶ妹の腹の上には一匹の子猫。
あの時の子猫だ。名前はシロ、妹が名付けた。ネーミングセンスの欠片もねぇ、元から期待はしていなかったが。万が一にも親猫が探しているという可能性を考えて、保護という形を取らせてもらった。野良猫は警戒心が強い、それは子猫だろうと変わらない。と、俺は思っていたのだが何故か妹には良く懐いている。そして俺には全然懐かない、何故なのか。猫にすら嫌われちゃうのかよ。
食器を乾燥機にかけて一息つくと、ちょうどのタイミングで湯沸かしポットがぽこぽこと音を立てて、カチっと小気味良い音を伴って湯沸かし完了を告げた。
買い置きしているインスタントのコーヒーをマグカップにぶち込んで、そこに湯気立つお湯を注ぎ込む。仕上げに砂糖をスティック一本分と牛乳を少々、濃いめのコーヒーに投入しティースプーンで四回ほど搔き回せば完成だ。その時、レンジがチーンと音を立てた。温めたミルク入りマグカップをリビングのテーブル、正確には妹の前に静かに置く。
「ん、ありがと」
がばっと起き上がった妹の文は、マグカップを両手で包み込んでふぅふぅと冷ましてからミルクを啜る。そしてぷはぁからのくぅ~という合致してないリアクションを披露した。お前は仕事帰りのサラリーマンか。
その様子を横目で見つつ、事前に自室から持ってきていた勉強道具を広げる。気分を切り替えるのも含めていい匂いのするコーヒーを啜る。ミルクの豊潤な香りとコーヒーの馥郁たる香り混じり合い、鼻腔をくすぐった。
シャーペンをカチッとしたところで、横からの視線に気付いた。そちらに視線を振ると案の定、文がこちらを凝視していた。ついでに文の太ももの上にちょこんと寝転ぶシロもセットだ。訝しんで思わず眉を寄せる。
「なんだよ」
「えっ……あー、なんていうか。その、なんでお兄ちゃんには彼女ができないんだろうと」
「喧嘩売ってんのか、そのさらさらの髪ひっちぎるぞ」
唐突に俺の尊厳を踏みにじる発言をされてしまったのと、さらさらと細い無造作な黒髪に嫉妬したのでちょいと凄んでみる。チリ毛はストレートの髪に憧憬の念を抱いているのだ。
しかし、文は怯えた様子もなくむしろにこっと笑った。余りに邪気のない笑顔だったのでこちらの気も削がれてしまう。いや、別にそんなに怒ってないけどね。ちょっとイラッとしただけで。
「だってお兄ちゃんさ、家事全般できるし。それになんか同時進行で色々やっちゃうし、優しいし、それに気も利くし」
手元のマグカップを指差しつつ、悪びれもせずに言う。効率的、と言いたかったのだろうがすぐに浮かんでこなかったのだろう。教養の浅さが伺い知れちゃうぞ。でも、褒められて悪い気はしなくもない……。別にデレてなんかいないんだからねっ!
「あと、お兄ちゃんそんなこと言ってわたしに暴力振るってきたことないじゃん」
「そりゃ、お前。親に女の傷は一生もんって躾けられたからだ。それによ、いくら苛ついても男が女に手を上げたらいかんでしょ。あと俺の優しさは妹限定だ、もうプレミアつくレベル」
「さすがに今のはちょっと引く……」
得意げに言った俺を見て文はうへぇと顔を歪めた。くそぅ、どうすればこの溢れんばかりの愛情を伝えられるのだろうか。
ソファの上で胡座を掻いた文は、何かを言おうとして口を開きかけるが躊躇うようにその口を噤む。そして意を決したように軽い口調で訊いてきた。
「あ、そういやさ。ガッコ、どう?」
「ああ、万事OKだ。読書が捗る」
「ああ……。休み時間超ヒマってことね……」
そう言って文は憐れみの視線を投げかけてきた。その反応が少々癪だったので、抗弁を試みる。
「いやちょっと待て。まずな、一人ぼっちが学校生活を謳歌していないという判断基準が間違ってんだよ。一人でいることのメリットは存在すんだよ」
「ふ~ん、例えばどんな?」
文はいくらか興味深げに問い返してくる。
「まず、飯をゆっくり食える。誰かと一緒に食べるとそいつのペースに合わせなきゃならなくなるし、会話しないといけないから集中して飯が食えない。あと、飲み物買いに行こうとすると高確率で「ついでに」と強要される。俺はそういう内輪ノリが嫌いなんだよ」
「ご飯の時だけじゃん。それに内輪ノリって偏見持ちすぎ」
呆れたように唇を尖らせる文。まぁ、俺と文じゃ人間としてのタイプが違うしな。いくら議論したところで合意の結論は出ないだろう。不毛な会話だ。早々に切り上げるのが吉か。
「とにかく、俺は一人が好きなんだよ。それよりお前、宿題とかしなくていいのか」
「え、ああ……そんなのあったね。持ってくる」
特に焦った様子もなく飄々と答えた文はシロを膝から下ろしてリビングから去った。どうやらここで宿題を片付ける算段らしく、また「教えて、お兄ちゃん」攻撃が始まるのかと思うと辟易する。まぁ、数学以外ならなんとかなるか。
そこでシロが再びこちらを凝視しているのに気付いた。見つめるだけで近寄って来る素振りはなく、とても残念が気分になる。ここは一つ、コミュニケーションをとって距離を縮めてみるとしよう。
シロに向き直りじっと見つめ返す。そして対話を試みる。
「シロ、お前がもしも人間だったら俺と結婚してくれますか?」
「…………」
馬鹿にしくさった目で見つめ返された。
「け、結婚は無理でも付き合うくらいならいいですよね……?」
「…………」
汚物を見るような目で見つめ返された。
猫にもフラれるとは……。もう二次元に行くしかないか……。
厳しい現実に打ちひしがれ、真っ白になった俺は戻ってきた文に慰めてもらうとしたが、「気持ち悪い」の一言に一蹴されてしまった。はぁ……なんで俺はMじゃないんだろうと思う今日このごろ。
その日の夜、不思議な夢を見た。夢の中の俺は広大な草原の真っ只中に立っていた。周囲を見渡せば北に森のシルエット、南には湖の煌き、西に果てしない山脈が広がり、東には抜けるような空の青と白い雲の群れ。そして真上を仰ぎ見ればそこには「EASY」の文字。
『――お前の、望みはなんだ?』
直接脳内に響くような声だった。そして無意識の内に呟いていた。
「俺は…………――――」
授業終了のチャイムが鳴り、睡魔との死闘が終わりを告げた。時は放課後、昨夜は珍しく寝付きが悪く布団に潜り込んでからも輾転反側し続けた。結局眠りに落ちたのは夜中の三時を回った頃だった。それに変な夢は見るわで負の相乗効果を惜しげもなく発揮していた。つまるところ、寝不足である。
HRが終わりクラスメイトの各々がやれ部活だの、やれカラオケだのとしている中、俺は例の如く頬杖をついてしばしぼーっとしていた。再び睡魔との激闘を繰り広げそうになったが、如何せん帰宅をせねば。一つ大きく欠神をしてその勢いで席を立つ。
相も変わらずお貴族様の雑音が耳朶を叩くが、寝起きのためか余り苛立ちもしなかった。未だに不明瞭な思考の元、のそのそと歩いて教室の引き戸を開けて廊下に出た。
出たはずだった。
「……………………は?」
両目を何度も瞬かせ、目元を手の甲で擦る。自分はまだ寝ぼけているのか。俺は確かに教室、もとい学校にいたはずだ。なのに、俺はなぜ草原のど真ん中に突っ立っている?
教室を出た直後、世界が一変した。自分でも何を言っているんだと思う。足元を見下ろせばそこにあるのはリノリウムの床ではなく、さらさらと風に靡く草むら。そして仄かに鼻腔を刺激する土の匂い。
周囲に視線を巡らせば、北に森のシルエット、南には湖の煌き、西に果てしない山脈が広がり、東には抜けるような空の青と白い雲の群れ。そして真上を仰ぎ見ればそこには「EASY」の文字。
どこかで見た光景だとデジャブを感じていると、はたと気付く。昨夜の夢で見た景色と寸分違わず一致していた。所謂、正夢というやつか。オイ、それなら一昨日の猫耳美少女と戯れた夢を現実にしろよ、ふざけんなよ。
一応、頬を抓ってみた。普通に痛かったです、お約束だな。自分でも引くぐらい平然としている、おそらく脳がこの現状を理解するのを拒否しているのだろう。たぶん時間差で恐慌状態に陥ること間違いなし。
「あれ? あきなんじゃん。なにしてんの、こんなとこで?」
やけにクリアな頭で思考を続けている俺の耳に、聞き慣れた声が届いた。音源に視線を飛ばすと、そこにいたのはシオリとかいう女子。なんぞ?
「いや、それはこっちが聞きたいくらい……あきなんって誰だよ?」
取り敢えず振り返る。そこにいたのは、同じ学校の制服を着用した男子がぽつんと突っ立っていた。なんぞ?
「あー、あいつがあきなんって奴か」
「違うって! なんでそうなるし! ……ってことりんじゃん! こんなとこでなにしてんの?」
シオリ、さんは先程と同様の質問を件の男子に飛ばす。男子はびくっと体を竦ませると、恐る恐るこちらに視線を移動させてほっと安心したように息を付く。不安そうな顔から一転してぱっと明るい表情になり、俺を素通りしてシオリさんに歩み寄った。
「桜庭さん、か。よかったぁ、知ってる人がいて。気付いたらこの場所にいて……僕もなにがなんだか……ごめん」
困り顔でしゅんとなることりんなる男子を見て、桜庭はぶんぶんと派手にかぶりを振った。
「いいよ、いいよ謝らなくて! 実はあたしも友達と話してたらいつのまにかここにいてさ。そしたらあきなんとことりんいるし……」
「あ、春夏冬くんも同じ感じなのかな僕たちと」
そう言ってこちらに話を振ってくることりんとか言う男子。ああ、よかったぁ……真面目に空気扱いされたと思ってうっかり死んじゃうとこだったわー。ほんと、危なかったー。……それで、なんで俺のこと知っとるのん?
謎が謎を呼ぶ展開に俺の中に流れる名探偵の血が疼きそうになった時、冷たい声音が凛とこの場に響いた。
「ずいぶんと楽観的なのね、あなた達。もう少し危機感というものを持ったらどう? 危機管理能力の欠如が著しいわね」
冷徹、と表現できるほど温度のない声がふわふわとした場の雰囲気を凍らせた。喋る二人が途端に静まり変える。そしてまるでそこが世界の中心であるかのように全員の視線が一斉にその人物に注がれた。異様とも言える景色の中に一人の少女が泰然と屹立していた。
穏やかな風に揺れる黒髪は背中の中間ほどまで流麗に伸び、端正な顔立ちは氷の結晶のような無表情を決め込んでいる。クラスの有象無象の女子たちと同じ制服を着ているのに、彼女のそれはまるで別物に見えた。そして何より驚いたのが、このファンタジーのような世界に彼女の姿がごく自然と馴染んでいることだ。
抜けるような青空と水で塗らしたような新緑の草原をバックに、揺蕩う水面のように静かに佇む少女というその光景は、一流の画家が気まぐれと称して気負いもなく描き上げた一幅の絵画のようであった。俺を除いた二人が声を失くして見蕩れている。
――不覚にも、俺もまた見蕩れてしまった。
俺は彼女のことを知っている無論、顔と名前だけだが。
彼女は雨宮雨音。一年G組所属の女子生徒。
入学式の時に新入生総代を務めており、つまり入試の成績トップ者。そして校内で知る人はいないほどの有名人である。学校内の情報を交換をする相手がいない俺ですら知っているという折り紙つきだ。
ついでにもう一つ付け加えるならば、類まれなる容姿を持つことにより常に注目を浴びている。要するに、学校一と言ってもいいくらいの美少女だ。
雨宮は硬直する俺たちを訝しむように眉根を顰ませる。そして再度、口を開く。
「環境適応能力も低い、と。呆れて物も言えないわ。こういう場合、まず状況把握のための意見交換が推奨されると思うのだけど」
ふっと冷たい吐息を漏らし、苛立ちを誤魔化すように髪を搔き上げる雨宮。その声音は極寒の地に吹き荒ぶ吹雪のように凍てついており、同時に極光のように美しい。
いち早く硬直状態が解けたのは俺だった。取り敢えず返事をしておくか。
「物も言えないわって……物言ってんじゃん」
「揚げ足を取らないでくれるかしら、薄幸そうな人」
「人を見た目で判断するなって親に教わらなかったのか。なんでお前が俺の幸福度を計ってんだよ。なに、占い師なの?」
「客観的な意見を述べただけよ。他人の意見は尊重すべしと親に教わらなかったのかしら?」
タイムラグほぼゼロのタイミングで反論された。理知的な光を宿す虹彩までも黒く見える夜色の瞳が、冴え冴えとした光を放っている。そんな双眸に見つめられて思わず目を逸らしてしまう。なまじ美少女なだけに眼力が半端ない。
突如、背筋に薄ら寒いものが走った。得体の知れない恐怖が全身を駆け巡り、生存本能が警鐘を派手に鳴らす。果たして、そいつは現れた。
「いやぁ、さすがは雨宮雨音さん。見立て通りの辛辣さ、痺れるねぇ。けど、更紗ちゃんは不幸さんじゃあないよ。これでも飛び切りCuteでPrettyな妹ちゃんに慕われてるんだからねっ!」
「おお、よく分かってんじゃねぇか。俺の妹はほんと美少女だからな……で、お前誰?」
ごく自然に会話に参加してきた第三者に質疑をかける。俺と雨宮の間に挟まれるような形で、ちっこい少女が忽然と現れていた。気付かぬうちに、まるで始めからそこにいたかのように幼女は立っていた。
銀色の縁取りがついた淡い紫色の薄物を纏っているが、体格が小柄なために服に着られている状態だ。裾の部分が完全に草むらに隠れてしまっている。潤いに溢れた濡れ羽色の髪は肩にかかるほどの長さで、その艶やかな髪に縁取られた容貌は若干丸顔気味なため、少女の幼さや無邪気さに拍車をかけている。きりりとした眉の下の瞳は多少吊り気味で、勝ち気な印象を与え、小ぶりな鼻と色の薄い唇がそれに続く。
そしてなにより目を引くのは、パープルブラックの髪からひょこっと突き出た二つの猫耳。幼女の動作に合わせるようにぴくぴくと揺れている。
「え……いつから……!?」
「いつの間に……!?」
闖入者の出現と状況の変化に、桜庭とことりんの間に動揺が走る。俺も平然としているが内心では驚愕していた。しかし、この異常な事態の中でも雨宮だけは全く表情を変えることもなく、まるで意に介していないようだ。恐るべき適応力。
「あれれ。更紗ちゃん、もしかして覚えてない……?」
この不思議な状況にそぐわない緊張感に欠ける口調で、小首を傾げる謎の幼女は瞳を潤ませて悲しげに見つめてきた。うっ……他人に自分のことを覚えてもらえていない悲しみは誰よりも俺は知っている。だから何とか思い出してやりたくなり、記憶を探る。そしてすぐに思い至る。
「夢の中の……」
「That's right!」
やけに流暢な発音で肯定した猫耳幼女はうんうんと大きく頷く。相手の正体は判明したが、しかしこの現状の真実は分かっていない。その思考を俺の表情から読み取ったように、幼女は口火を切った。
「言っとくけどこれは現実だからね、夢の中じゃないよ。英語で言えばReality! そしてこのFantasyな世界は我輩の創造物、ずばり箱庭ナリよ~」
キテレツな大百科に出てきそうな語尾で俺の疑問を解消した幼女は、なぜかドヤ顔でえへん、と薄い胸を逸らした。ベルリンの壁かよなんてツッコミもできないほどに、脳がこの状況に混乱していた。恐慌の時間差攻撃が胸の内に押し寄せてきていた。
それは他の二人も同様らしく、視界の右端で桜庭とことりんは呆けた顔を見合わせていた。場の空気が急激に緊張感で張り詰めていき、俺は思わず息を詰めた。
「それで? 私たちを強制的に連れてきた目的と動機はなにかしら? まさかただ雑談するために、こんな辺鄙な場所に私たちを連行……転移させたわけではないのでしょう」
各々が押し黙る重苦しい静寂の中、清流のせせらぎのような声がその空気を破壊した。雨宮雨音ただ一人がこの状況下で、平静な態度を保っていた。大きい瞳を薄目にするかのように細くし、幼女を容赦なく睨め付ける。
その背筋が凍るような視線を浴びる幼女は、意に介した風もなく明るい笑顔を作った。
「いいね、いいねその反応。その冷静な状況分析のための質問……実にCoolネっ。やっぱり君を呼び寄せて正解だったよ、さすが我輩! テレテレ」
「御託はいいから、さっさと質問に答えなさい。それとも幼稚な貴女には酷な接し方だったかしら」
えへへとはにかむ幼女に向かって、雨宮は髪を搔き上げてから馬鹿にしくさった冷笑を放った。その牽制に桜庭はほぇ~と嘆息し、ことりんはあわあわと口を戦慄かせた。俺はというと絶句して、こいつアホか……、と一瞬思ったがもちろん口には出さない。雨宮に対して罵倒など自殺行為に他ならない。
この世界を創った、という幼女の言葉が真実ならばつまり彼女はこの世界において、神にも等しい存在ということだ。なのにあの冷血女は……。
この女、物怖じしないどころか無駄に好戦的な性格らしい。どこの戦闘民族だよ、怖ぇよ。
刺々しい語調にむっと眉根を寄せた幼女は、まっすぐに雨宮を見つめ返した。冷たく乾いた風が下草を揺らし、二人の間に険悪な空気が流れる。見てるこちらも気が張り詰め、事の成り行きを見守る。
そしてたっぷり数秒間続いた睨み合いを終わらせたのは幼女の方であった。
「ちぇ~、せっかく我輩、この張り詰めた空気をDetenteしてやろうと明るく振る舞ったのにぃ。つまんないの~」
そう愚痴を垂れると幼女は唇を尖らせる。相変わらず人をおちょくるような姿勢に、すかさず雨宮の追撃が入る。
「そういうのいいから。早く質問に答えなさい、私は暇ではないの。無駄話ならそこのに聞いてもらいなさい」
どうも、そこの、です! じゃなくて、こんな悪意に満ち溢れた代名詞は初めて聞いたわ。巷で上質なチリ毛の持ち主、って有名なんだけどな(俺調べ)。まぁ、片や有名人に片や凡庸な生徒だもんなぁ。だから、雨宮が俺のこと知らなくても宜なるかなとは思うのだが、それでもちょっぴり傷ついた。具体的に言うと、心中で自己紹介という名の現実逃避をしちゃうくらい傷ついた。
幼女は仕切り直すように一つ咳払いをすると、ようやく回答を寄越した。
「いやぁ、このWorldを創ったまではよかったんだけど、実際に活用するにはどうしたもんかと思ってね。ただ創って終わりじゃつまんないし、せっかくだから誰かを呼び寄せてちょっとばかし生活をしてもらおうかな~って思った次第であります! ほら、遊園地だってGuestsを呼び込んでナンボでしょ」
「つまりただの自己満足と……。自身の稚拙な欲望を充足させたいがために、無関係な人たちを巻き込んだ、と」
「そゆこと~、お分かり頂けましたかにゃ?」
片目を閉じてわざとらしく品を作り、微笑む幼女。おまけに語尾に「にゃ」までつけやがった。見ようによっては人を小馬鹿にした態度だ。そして、そう思ったのは俺だけではなかったらしい。
「生き埋めと水死、好きなほうを選びなさい。楽にしてあげるわ」
平素と変わらない声音を伴ってにこっと微笑んだ美少女に対して、俺はかつてないほどに途轍もなく戦慄した。ことりんなんてヒッとか細い悲鳴を小さく上げたし、桜庭は顔を引き攣らせて完全に引いていた。
俺史における最低の「楽にしてあげる」宣言だぞ今の。
幼女はぽかんと間抜けに口を半開きにし、目を丸くして黙り込む。そして何度か瞳を瞬かせると体をくの字に折り曲げて、堰を切ったように大笑いした。
「にゃはは! あははははっ! ぷっ、くく声が、ひっ……ふっくくっ! ひー、ひー……。ふー、それは無理な相談だね。理論的に不可能なことだよ雨宮くん」
一頻り爆笑すると、幼女は姉か先生のような口調で諭すように雨宮に告げた。雨宮は怪訝そうに眉根を寄せる。
「理論的に……? 論理的にの間違いではなくて」
「そだよ。英語で言えばTheoretical! Logial!」
「じゃあなんだ、お前は体系化された真理とも言うべき法則そのものだってのか。ハッ、きついジョークだな」
思わず鼻で笑ってしまった。冗談にもほどがある。桜庭とことりんも同じ意見なのか、お互いに呆れ顔を見合わせて薄い笑みを作っている。いくらこの現状が非現実的であろうが、さすがに今の発言は冗談がすぎる。
理論的にとはつまり、万有引力の法則だとか相対性理論のように一種の法則に当てはまるかに焦点を当てている。従って幼女はそんな地球規模、ましてや宇宙規模並みの力を持っているということになる。お前は神龍をも超える力を持ってんのかよ。
「だって我輩、神様だもん。人間如きが神に抗おうなんて不遜も甚だしいよね」
俺の、もしくはこの場にいる全員の思考を読み取ったかのように、幼女は託宣を放った。その態度は俺ら四人の中心にいながらも堂々としており、少なくとも傲然と虚勢を張っているようには見えない。
そう推察したのは俺だけではないらしく、雨宮もまた険しい表情で顎に手を添えて何事か思案している。きっと俺も似たような表情をしているのだろう、俺ら二人の顔を窺うような仕草を見せた桜庭は、一つ大きく頷いて意を決したように口を開いた。
「あはは……。フリのわりにはオチが残念すぎるんじゃないかなぁ、なんて」
「そ、そうだよ。さすがに現実感がなさすぎじゃないかな……」
桜庭に追従するようにことりんもあははと乾いた笑いを漏らした。しかし、俺と雨宮はその意見に賛同を返すことができなかった。おそらくこの段階においてもまだ全員が心のどこかで今の言葉が、この現状が真の現実ではないのだと理解を拒んでいるのだろう。脳そのものが、理解を拒絶している。
けれど俺と、たぶん雨宮も悟ってしまったのだ。目の前の幼女の虚偽妄言とも取れる発言が真実であると、欺瞞ではないのだと。夢にしては多少リアルすぎる。
俺と雨宮の表情が厳しいままなのを察知して、二人の顔に不安と恐怖が浮かぶ。俺たちの反応を黙って観察していた神様はふんふんと頷いて見せた。
「まだ完全には信用してもらってないみたいだねぇ。じゃあ分かった、ちょっとばかし神様らしいトコ、見せちゃおうかなっと!!」
声高らかに宣言した神様はびしっと天空を指差した。全員の視線がその指先に集中する。転瞬、その指先が網膜を焼かんばかりに眩く輝き、俺は思わず片腕で視界を遮った。刹那、遠雷のような轟音が大気を震わせ、誰かが悲鳴を上げた。
数瞬後、片腕を下げて視界を確保した俺は状況の変化に唖然と絶句した。つい先程まで存在していた澄み渡る青空が、今では暗雲が低く垂れ込める悪天候と化していたのだ。辺りは突如として薄く暗くなり、黒雲はとぐろを巻いて捩れる。
瞬間、強烈な発光と共に発生したのは放電現象、つまり雷が果ての山陵目掛けて降り落ちた。続いてけたたましい雷鳴が耳を聾する。俺を除いた三人が思い切り耳を塞いでいる。
神様の証明、それは天変地異の実現。
「そりゃあっと!!」
幼女は上空に向けていた人差し指を振り下ろすと、今度は南西を指差した。つられて視線を転じた先にあるのは広大な湖。まさか、という予感が的中する。
水面が幼女の指の動きと連携して大きく隆起して間欠泉のように勢いよく天を目指し、まるで生き物のような動きで唸る。瞬く間に天を衝かんばかりの巨大な水柱が完成し、そして意思を持っているかのように綺麗な放物線を描いて俺の頭上に襲い掛かってきた。
「なっ――――」
「あきなんッ!」
叫ぶ暇もなく圧倒的水量が俺を呑み込んだ。瞬時に桜庭の叫び声は途
絶え、途端に視界が不明瞭に曇る。体温を奪う冷水が眼や鼻を問わず入り込んできて、思わず藻搔く。そしてさらなる驚愕が脳天を貫いた。
曇る視界の中で瀑布のように降り注ぐ湖水が、複雑怪奇な動きでその形を水柱から水球へと変貌させた。数瞬後、水の牢獄ができあがり俺の全身を丸ごと包み込んだ。そしてさらに内部で水流が発生し、途端に上下の感覚が喪失する。加速度的に失われていく体温と酸素、それに比例して焦燥感と死の恐怖が胸中に満ちる。全身を徐々に死の可能性が蝕んでいく。
意識に厚く、重い紗がかかってきたまさにその時。
突如として水の牢獄が弾けるような音と共に破裂、そして四散した。直後に奇妙な浮遊感を味わい、続いて重力に引かれて地面に落下し、ろくに受け身も取れずにしこたま背中を打ち付ける。絞り出された空気を取り返そうと堪らず喘ぐ。器官に入った少量の水を吐き捨てて、背中の痛みに耐えつつ何とか立ち上がる。
しかし足元が覚束なくてふらりと体勢を崩しかけた。だが、駆け寄ってきたことりんに支えられぎりぎりで踏ん張る。俯いた顔をなんとか上げて、間近のことりんを見つめる。
「……悪い」
「ううん、大丈夫。それよりまだ安静にしてたほうが――」
「きゃっ!」
俺を気遣うことりんの語尾に悲鳴が被さった。それと同時に視界の端で桜庭が受け身を取りつつも転倒する。視界の中央では睨み合う雨宮と神様が相対していた。察するに空手少女の桜庭が神様になんらかの攻撃を行使するも、返り討ちにあったようだ。しかしそのおかげで俺も溺死せずに済んだということか。
なぜか雨滴は降らずに落雷のみが降り注ぐ草原の真っ只中、明確な敵意がぶつかり合う場面に俺は直面していた。場の雰囲気が帯電したように張り詰め、緊張に耐えかねたのか下草が忙しなく揺れる。俺を含めた三人は息を呑み、状況の推移を見守るしかなかった。
敵意を剝き出しにする雨宮が静かに腰を落として構え、鋭い呼気と共にまさに踏み込もうとしたその時。
「ストーップ!!」
可憐にして厳かな声が空気をぶっ壊した。その声の主は神様。その声に同期するかのように雷雲が瞬く間に消え去り、元の青空が帰ってきた。眩い陽光が冷えた体に降り注ぎ、束の間の天変地異は終わりを告げた。
唖然、懐疑、呆然、放心、と各々の反応を見せる俺らを神様は面白がるように順番に視線を滑らせてから再び口を開く。
「これで我輩がGodであるということは、理解できたかにゃ」
首を巡らせて暢気な態度と口調で確認を取ろうとする神様に、異論反論を申し立てる奴はいなかった。あんなものを見せられて信じないほうがどうかしている。
桜庭とことりんは状況の変化について行けてない様子なので、ここは俺が代表してと思った矢先。
「この世界で生活をする期間は? 貴女のこのお遊びを終了させる条件はあるのかしら? あと、貴女の本当の目的はなに?」
「本当の……」
「目的……?」
桜庭とことりんが放心状態のまま呟く。俺の予定していた質問は全て雨宮に言われてしまった。最後の質問は俺も最優先事項だと思う。こんなクレイジーな神様が俺たちに共同生活させるためだけが目的なんて、そんな短慮な断定はどうしてもできなかった。
全員の視線を一身に浴びながら神様は、ふむと頷いてから平素と変わらない天真爛漫とも言える口調かつ鷹揚な態度で、その言葉をゆっくりと発した。
「『人間は差別と偏見の塊で、傲慢の化け物で、優越感の化身である。人間の行動原理は三原則に基いている、と。一に、損得勘定。二に、自己保身。三に、承認欲求』。ふむふむ、我輩はそれが事実であるかどうかを検証したい。だから少年少女よ、今から殺されたり殺したりしてね」
傲慢極まる物言いだった。しかしそれはさしたる問題ではなくて、こいつ今なんて言った? ふむふむって頷く前……。そのフレーズは凶暴とすら思える密度と硬度で俺の脳天から爪先までを貫いた。まるで雷に打たれたような衝撃が全身を叩いた。
傍にいることりんは信じないとばかりにぽかんと放心し、桜庭はその可憐な相貌に薄い笑みを刻んでいた。そして雨宮はその漆黒の瞳に諦観の色を滲ませている。
神様はそれぞれの反応を確認するような挙動を見せてから、畏怖すら感じさせる無垢な声音で続きを口にした。
「――この実験を終了させる方法はただ一つ。skyに刻まれたEASYの文字をHARDに変えて、最終試練を突破する。期間は一日だったり一ヶ月だったり、我輩の独断と気まぐれにゃ。それで一時的に元の世界に帰還できてもこの遊戯をクリアするまでは、何度だって我輩は諸君らをこの箱庭に召喚する。この世界は言わば『サンドボックス型ゲーム』のようなもの……そこら辺の詳細は更紗ちゃんに問い質してね♪ Kriegを、Schlachtを、Kampfを、Taktikを練り、DrohungをZerstorerをせよ。死力の限りを尽くして、この遊びを楽しんじゃってくださいな! それじゃ、頑張って。健闘を祈る」
はにかんだ笑みは可愛らしいが、今の俺には怖気を感じさせる微笑だった。そう締めくくった神様は茶目っ気たっぷりに敬礼するとウインクを決め込み、穏やかな風が吹き抜けてそれにかき消されるように――気付けばその姿はどこにも無かった。
まるで狐に包まれたような複雑な気持ちが胸中に渦巻き、それを紛らわすために濡れて額に張り付いた前髪を搔き上げようとした時にはたと気付き、戦慄した。掲げた掌は不快げに汗ばみ、全身が寒さ以外の何かで総毛立っていたことを今更ながらに自覚した。
そして俺らはそれからたっぷり一分間、情けなく途方に暮れたのだった。