高校デビューとクラス内格差
高校デビューに失敗した。
今の俺ならマッドサイエンティスト宛てに「失敗した失敗した失敗した失敗した――――」と悔恨の思いを綴ったバイト戦士の気持ちに、一ミリグラムほど共感できる。
何を大げさな、と思うかもしれないが中学時代に青春というモノを謳歌できなかった人間にとっては死活問題だ。ちなみにキーポイントは「高校」だ。
高校生活、当時中学生だった俺にとってそれはそれは甘美な響きであった。故に「高校デビュー」とは救いの啓示に等しかった。
思い立ったが吉日、俺は中学の頃から自己改革を断行していた。まず、独り言全面禁止。中学一年の初め、クラスの可愛い女子から「春夏冬くん、よく独りで喋ってるよね……。なんか、怖い」と畏怖と侮蔑の視線を向けられたあの日で、その悪癖は矯正した。
第二、会話とあらば捲し立てる習癖の改善。この問題の根本的な解決方法は単純明快。要は喋らなければ良いのだ。これは聞き役に徹することで無事解決。言葉のキャッチボール、なんて言うがコミュニケーションは必ずしも言語のみで行うことを指すのではない。相槌や「わかる、わかる」などの肯定、上辺だけの共感、同意、同調。
中学生活を諦めていた俺は、高校という名の晴れ舞台で成功するため日々会話シュミレーションを脳内で重ねていた。実践する相手がいなかったから致し方ない。
そんなこんなで中学三年間の教育課程を終了し、卒業式で号泣しているリア充(笑)を冷めた目で一瞥しつつ春休みに突入。入学式までの約二週間、俺はランニングを毎日欠かすことなく実行した。
入学して暫くすれば体力測定という関門が待ち構えている。男子高校生カーストの序列を決定付ける要素として、運動能力というのは大変重要である。その中でも、五十メートル走とシャトルランの二点は最重要事項だ。
俺のような陰キャラは運動できるか、できないかでかなり違う。元来、陰キャラと呼ばれる人間は運動音痴やガリ勉などのイメージが濃厚だ。故にこの見立ては間違ってはいないと俺は踏んだわけだ。
そんな思惑の元、二週間の鍛錬期間を終えた俺は学校という名の牢獄に足を踏み入れた。
しかし、失敗した。なぜ? 何処で? 最初からだ。
入学式は滞りなく終えることができた。というか大抵の新入生はトラブルを起こさぬよう徹底した配慮をするであろう。ここは言わばただの通過点、ゲームであればチュートリアル。
問題は登校初日。高校生活において第一の試練が待ち構えている。
それは『自己紹介』タイムだ。名前、趣味、特技、入りたいと思っている部活、座右の銘などなど。ちなみにここで「気軽に話しかけてください」は博打だ。こんなこと言う奴に話しかけるのは、よほど気の良い野郎だけだ。俺なら絶対話しかけない。
人間、とにかく第一印象が大事だ。就活で面接が重視されるのと一緒だ。と言っても身構えてしまえば失敗するリスクが高くなる。故に無難な挨拶にしておくのが利口な判断。趣味とかで「漫画を読むことです。よく読むのはジャ◯プです」とか言っておけば、会話の糸口になりやすい。大抵の男子高校生はジャ◯プが好きだ(俺調べ)。
これほどの確固とした持論を胸に秘めている春夏冬更紗だ。たかが自己紹介程度で過ちを犯すなどありえない、と高を括っていたのは否定できない。
俺は馬鹿ではないから失敗した原因は、明確に把握している。
俺の優秀なる海馬は、三週間前のあの瞬間をはっきりと細部に至るまで克明に記憶している。そう、あれは登校初日の朝。新生活に胸を躍らせ、いつもより一時間も早く家を出たのが運の尽きだった。
川辺りの舗装された通学路だった。桜並木が綺麗で、三月には近隣の住民がこぞって花見に来るほどの場所だ。その時間帯はジョギングをするお爺さんやら犬の散歩をする女性やらと疎らに人が行き交っていた。
その中でのんびりと自転車を漕いでいた俺は、ふとある声を聞きブレーキを掛けて停止した。鼓膜を揺らしたその声は弱々しく、縋るような響きがあった。
土手の下草がそよ風に揺られて、さらさらと涼やかな音色を奏でていた。満開の桜の木々。吹き抜ける春風が梢を揺らすたびに、桃色の花弁は飛沫を散らすかのように宙を舞う。暖かな風は頬を撫で、心に安らかな癒やしを与える。
運命的な出会いだった。心臓の高鳴りを抑えることができなかった。掌にじっとりと汗が滲み、唾をごくりと呑み込む。春夏冬更紗、十五才、童貞。勇気を振り絞って、眼前の『彼女』に声をかけた。
「……大丈夫か、猫」
見上げた視線の先、淡い茶色の毛に身を包んだ子猫が、桜の木の梢に乗っている。どうやら降りれなくなったらしい。彼女がなんだって? 後から確認したら子猫、雌でした。
桜の木の下で、美少女と出会う? 漫画やラノベの読み過ぎだ。現実はそんなに甘くないし、そう上手くもできていない。残念なことに、ホント残念なことに。はぁ……。
まぁ、かと言って仮に美少女と遭遇したらキョドって会話はおろか話しかけることもできないんですけど。
それはさておき。ここに至り俺の脳内では一つの葛藤が
起こっていた。子猫を助けるか、それともこのまま見てみぬフリして学校へと向かうか。二者択一、家で猫を飼っている身としては見過ごせない。しかし、今日は大事な高校生活初日だ。遅刻なんてした日にゃあ、目も当てられない。
思案に耽る俺はちらりと周囲を見回す。通行人は複数人いるのだが、桜の花びらが障害物となって誰も猫の存在に気付いていないようだ。まぁ、時間がそれなりに経過すれば俺のような心優しい人間が、俺の代わりに子猫を救出してくれるかもしれんが……。
損得勘定に頭を働かせる俺の耳に、気弱そうで庇護欲を唆る鳴き声が再度届いた。そちらを見やると、茶毛の子猫のつぶらな瞳が見つめていた。
「…………、しゃあねーかって言うと上から目線みたいだな。どうか俺に助けさせて下さいっと」
そう独りごちながら自転車を停めて、ブレザーを腕まくりする。木登りはあんまし得意ではないが、なんとかなるだろう。たぶん。いざ征かん!
そう思ったのは良かったのだが……。ここにきて、俺はとある事実に気付き愕然した。桜の枝は折れやすく、木登りは推奨できないということを。
結果から言えば、子猫を無事に救助できた。しかしその代償は大きかった。まず、子猫が暴れた。そりゃもう、死に物狂いで。腕やら顔やら引っ掻かれ、それで体勢を崩して地上へ落下。尻を打ち付けて悶絶した後、携帯で時刻を確認して呆然。木登りに時間をかけすぎた。
子猫を鞄に押し込んで自転車に跨がり、マッハの速度で爆走。華麗なるドライビングテクニックでなんとか事故らずに、学校に到着。雑に駐輪所にチャリを停めて、昇降口で行う一連の動作を風もかくやという速度で終わらせ、一年E組の教室まで猛ダッシュを敢行。前の引き戸をドカーンと勢いよく開けたその先では、例の恒例行事かつ第一関門の自己紹介タイムが今まさに始まろうとしていた。
そしてさらに問題が浮上してきた。俺の名前は春夏冬。つまり出席番号一番。人間、危機的状況に陥ると思考速度が加速するらしく、この場を緊急離脱するという結論を弾き出した。体感速度で〇.五秒くらいだった。
しかしそれを長身痩軀の男性教諭、うちの担任が許さなかった。「春夏冬くん、そのまま自己紹介いこうか」。いこうか、じゃねーよ。周りをよく見てみやがれ、クラスメイト全員ドン引きじゃねーか。後から気付いたが、この時の俺の見てくれは大層酷かったらしく、顔は傷だらけで汗はびっしょり、生理的嫌悪感MAXである。癖の強い髪は暴風に煽られたのかと思うほどぼさぼさで、おまけに桜の花びらがアクセントを加えていたようだ。
まぁ、とにかく。そんな俺の機微を察することもせず、先生は俺を促してくる。ここでばっくれたら、それこそ高校生活終了のお知らせだ。テロップ流されちゃうよ。
仕方なく俺はそのまま自己紹介をしようとしたわけだが。俺は一つ致命的なミスを犯していた。そう、ちゃんと鞄を閉めてしなかったのだ。案の定、怒り狂った子猫は飛び出してきて、俺の顔面に猫パンチをお見舞い。飛び膝蹴りならぬジャンプ右フック。
ごく少数の生徒は忍び笑いを漏らしていたが、大半は完全に引いていた。もう体ごと仰け反らせるレベル。俺、一発KO。高校生活、さよなら。始まる前にすでに俺の高校生活は終焉を迎えたのだった。格好良く言えば、終わりの始まり、である。
俺は机に頬杖を付いて物思いに耽っている。脳内で三週間前の記憶を回想していた。そのぐらい暇だった。時刻は平日の朝、つまり登校日。何気なくクラス内を見渡してみると、時間がまだ早いためかクラスメイトは十数人ほどと少ない。朝練でバテている運動部、菓子パンを食らっている奴、小説を読んでいる奴、友達と談笑をしている奴など色々だ。
高校生活のスタートから早三週間。この時期にもなると孤立している奴は少ない。精々俺くらいだ。大多数の中で孤立できるとか、類いまれなる才能ではなかろうか。絶対違う。
残り一週間で学校生活が一ヶ月経過する。しかし油断してはいけない。残りの一週間が過ぎるまでが序列決定期間だ。言うまでもないことだが、クラス内には目には見えない格差というものが存在する。
上位、中位、下位、と序列があり、この入学一ヶ月間の振る舞い及び印象付けでそれぞれのランクに篩分けされてしまう。クラス内の見えない厳然たる力関係、俗にスクールカーストと呼ばれるものだ。人間は昔から階級分けが大好きな生き物なのだ。
ほら、異能学園バトルラノベとかAランクだのレベル1だの階級分けしてるだろ、あれだよあれだよ。そこで主人公は最低ランクなのがデフォだ。
この一ヶ月間はスクールカースト構成時期で、そのことを大多数の人間が理解している。故に普通の人間は空気を読んで慎重に行動する。その一挙手一投足が今後の学校生活を快適に、過不足なく過ごせるか否かに重大な影響を及ぼすからだ。この期間は学校内での熾烈な権力争いの帰趨を決する大事な時間であり、されど一ヶ月。ここが正念場であり、ここで上手く立ち回ることができれば少なくとも一年間は安泰であろう。
従って「私は普通の人間には興味ありません」なんてネタでも言える人間はまずいない。あの台詞は目も冴えるような美少女が放ったから、いじめの対象やらにならずに済んだのだ。俺が言ったら確実に空気扱いはおろか、最悪ばい菌扱いである。何それ、悲しすぎる。ぼっちは空気感染しないよ。
まぁしかし、そう考えると存在を否定されていない分だけ俺は幸せ者なのかもしれない。なんというポジティブ思考、自分でも思わず引いちゃう。
ぼーっとしながらそんな益体もないことを思案している俺の耳に、かすかな足音が届いた。音源の方向は壁一枚隔てた廊下のようだ。俺の席順は廊下側の先頭、つまり前側の引き戸の近辺だ。
その時、予期した通り前の引き戸が派手に音高く、勢いよく開かれた。続いて淀みない美声が否が応でも響き渡る。
「部活あるからパス。つーか、気が早すぎなんだって。まだ二週間も先の話じゃん」
「だってあたし、勉強得意じゃないしー。浩輔、頭良いじゃん。さすがに赤点はきついっていうかさ」
まず登場したのが高タッパ、高ルックスの男子。続いて身長高めで優れた容姿の女子。その後に女子二人と男子二人が俺の目の前を通過した。勿論、話しかけられたりはしない。いやまぁ、声かけられたらそれはそれで対応に窮するというか、対処に困るというか。確実に生返事をしてしまう自信がある。
美男美女の集団はガヤガヤと談笑しながら教室の後方へと移動し、ある者は自分の席に、ある者は誰かの机に腰掛けて、ある者は何処ぞのクラスメイトの椅子に腰を下ろす。
腰を落ち着かせようとしていた多田とかいう男子は、自分の席を独占されてしまい不自然な動きでUターンして教室を出て行ってしまった。ああ、哀れ。まぁ、あれが利口な選択だ。
声が大きいというのもあるが、何より彼らの醸し出すオーラに華やかさがあるので、自然とクラス中の注目がそちらに吸い寄せられる。
彼らがこのクラスの上位連中であることは一目瞭然だ。一軍、お貴族様、トップ集団。揃いも揃って眉目秀麗な男女。全員が平均して準芸能人クラスで、どのクラスでもトップに鎮座できるほどの高スペック。サッカー部二人とバスケ部の男子一人、女子三人である。
その中でも、一際眩い輝きを放つ生徒が二人いる。
一人は神崎浩輔。
先程言った高タッパ、高ルックスのサッカー部で、一軍集団の中心にいる人物だ。早くも部活で活躍しているらしい。何でも中学の頃に県選抜選ばれている実力者らしい。容姿端麗で、運動能力が高く、成績優秀、と。何というか……爆発しろ。
もう一人は有馬恵美。
神崎に勉強教えてと言っていた女だ。女子連中のリーダー格で、女子三人の中では一番目立つ容姿をしている。まぁ、美少女の部類には入るのかもしれないが、何というか、俺個人の感想としてはまだテンプレツンデレヒロインのほうが可愛げがあるんじゃなかろうかと思う。
雰囲気が高圧的な吊り目も手伝って、高飛車な感じなのだ。つまり俺の苦手なタイプの女子。
俺の主観では有馬は、神崎に気があるのか甘えているように見える。今だって神崎ににこやかに微笑みかけてるし。すげぇ裏がありそうで怖い笑顔だ。だがそう思うのは俺くらいで、他の奴には友人同士でただじゃれ合っているようにしか見えんのだろうが。
「いいじゃん、部活くらい」
「せめて一週間くらい前からでよくないか? それだったら俺らも部活休みになるし」
ごねる有馬に神崎は朗らかな笑みを作り、何処ぞの奴の席に座している同じサッカー部の池田に同意を求める視線を送る。件の男子はそれを察したように便乗する。
「そうそう、その方が集中してやれんじゃん。それに、このオレの頭の良さを見せられるし」
「いや、別に池田には期待してないから」
心底期待してなさそうに返答する有馬。歴然とした差である。ちょっと声のトーン下がったし、女って怖ぇ。
しかし当の池田は意に介した風もなく、軽薄な笑みを浮かべて反論する。
「ひっでぇ! 今のはさすがのオレも傷ついちゃったわ。言っとくけどオレ超すげぇから」
「じゃあ、入試の数学何点だったんだよ?」
余りに自信満々な池田を見かねて、神崎は面白がるように意地の悪い声音でツッコミを入れた。それに池田は分かりやすく顔を歪めて、視線を逸しつつ答える。
「……二十八点」
「ひっく! 偉そうに言ってたくせに、赤点じゃん。池田、あんたよくウチの高校入れたわね」
有馬は嘲笑……というより爆笑していた。それに追従するように内輪の中でどっと笑いが起こる。なんて空虚な笑いでしょう、だいぶ足しすぎやしませんか。それに対し、池田はへらっと笑顔を作り唇を尖らせた。
「いやいや! 大輔も卑怯っしょ。苦手な数学の点数聞くとか。超悪意感じんだけど、恥かいたし」
「それを狙ってあえて聞いたんだけどな」
「なおさらひでぇ!」
再び笑いが二乗される。如何にも青春してますって感じの対話だ。背中に薄ら寒いものを感じずにはいられない。あんな上辺だけの会話が楽しいのかよ、理解に苦しむ。面白くもないのに、笑わないといけないとか何の苦行だよ。
上位の連中を観察しつつ、ふと思った。学校というのはああいう雰囲気を作り出せる生徒が、重宝される。場を整えるというか、空気を読むというか。
人間、限定的に言えば日本人は空気を大事にする人種だと思う。じゃなきゃKYなんて略語は生まれんだろう。必然、空気という名の「秩序」を壊す奴は「破壊者」として差別され、迫害され、ぼっちとなる。一度孤立してしまえば、再びその地位に返り咲くのは極めて困難だ。これが人の悪意によるものならばなおのこと。
たとえ進級してクラス変えが実施されたところで、個人情報は学年単位で共有されてしまっているため、ほぼ再起不能なのだ。だからこそ、この一ヶ月間は薄氷を履むような慎重さが要求される。
とある学校の生徒が言ったそうだ。「教室は たとえて言えば 地雷原」。
この言葉を引用して「人間関係が希薄化した」という言を否定している人もいるらしい。その人間曰く「人間関係が濃厚化した」と、大人たちはそれに気付いていないと。この言論に俺は異を唱えたいと思う。
畢竟、人間関係が希薄化したには語弊がある。人間関係が希薄化したというのは物理的な接触が減少したという意味ではなく、心理的な接触が減少したということだ。つまり、底の浅い関係、上辺だけの関係、損得勘定と自己保身と承認欲求を動機にした関係ということだ。
人間関係というのは複雑怪奇だ。相手のことを詮索し過ぎたり踏み込み過ぎたり、あるいは自分の断定を押し付けたりしたら疎まれて嫌悪される。逆に、距離を置いたらノリが悪いだの愛想がないだのと疎まれる。
完全に詰んでいる。結局、適切で適度で適当で妥当な対応のできる人間が良好な関係を築けるのだ。容姿や能力の低い人間はそうしなければ、共存社会では生存できない。
そのことを俺は理解している。しかしだからと言って、その処世術に縋るつもりは毛頭ない。そんな人間関係、本質的には孤立している。ぼっちと何ら変わりない。無理してこんな世界に順応したところで、いつかは破滅する。よく言うだろ、無茶と無謀は違うって。
人間そうそう変われない。もしも、昔に比べて変わったと言われる人間がいるとすればそれは変わったように見えるだけだ。根っこの部分は何一つ変わっちゃいない。
む~、一人でいると自然と思索がより深くなってしまうな。というか、こんな価値観の人間が高校デビュー狙うなんて失敗フラグもいいところだな。そう考えると消沈した気持ちも幾分か救われる。うん、一人サイコー。
自己肯定に浸っていると、一軍集団から抜け出て教室内をふらふらと漂っていた一人が、中堅の女子グループとのフリートークに花を咲かせている場面が視界の端に映った。自然と目の焦点がそちらに据えられる。
「シオリちゃん、体育の時ちょっと思ったんだけど足早いんだねぇ。さすが空手少女っ」
「そんなことないよぉ。空手少女って言っても中学の時の話だし。私よりG組の雨宮さんがすごいよ」
どうやらこの前の合同体育の話をしているらしい。念のために言っておくがアレだぞ、盗聴とかではなくて声が大きいから自ずと耳に入るだけで、断じて盗み聞きをしているわけではない、決して。
その時、夢遊病系女子とばちっと目が合った。はにかんだ笑みが一瞬だけ硬直した。そして茶色がかったくりくりとした大きな瞳が、瞬時にあさっての方向に逸らされた。う、うわぁ……すげぇ傷ついた。
そこで傷心の俺に更なる追い打ちがかかる。夢遊病女子の刹那の停止を訝しんだ他の中堅女子がこちらをひたと見据えた。瞬間、合計三つの双眸に嘲弄と侮蔑の色が浮かんだ。
しかしそれも瞬き一回分の時間だ。すぐにその目は逸らされ、楽しそうに会話を再会する。お、おう……目で語るとか言うけれど、言葉よりも態度のほうがきついっスね。フッ、だが甘い! 俺クラスにでもなればその程度、蚊に刺されたようなものよ。攻撃がぬるいな、そこは冷笑とのコンボを使ってナンボだろ! ってなんで俺アドバイスしとるのん?
件の夢遊病系女子、シオリとかいう上位カーストに属する彼女は中位女子グループとのフリートークを自然な感じで打ち切ると、再びゆらゆらと居合わせたクラスメイトに個別の挨拶を交わしていく。ちなみに苗字は知らん。
自己紹介タイムで完全に撃沈していた俺の耳に、彼女の紹介は届いていなかったのだ。仕方なかろうよ。それにしても苗字くらい知っとるだろうと思われるかもしれないが、如何せん彼女はシオリンだとかシオリだとかクラスメイトから親しげに名前で呼称されているため、苗字を知る機会がない。
いつも思うのだが、リア充はなぜファーストネームで呼び合うのだろうか。その共通性は類似を超えて、一種の習性レベルである。名前で呼称し合うことでお互いの親密度の高さを周囲に喧伝しているのだろうか。連中は初対面の内から呼び捨てだからなぁ、もうホント心の壁が薄い。俺だったら馴れ馴れしくてうぜぇと思うのだが。少なくとも彼らはそうではないらしい。 まぁ、クラス内で立場の強い人間と交友を深める行為はメリットが豊富だし、自己保身もできてかつ価値のある人間から認められる、仲間になれるというのは承認欲求をさぞかし充足できることだろう。
閑話休題。
シオリ、さんは見た目は物静かな女子という印象を受けるのだが、性格は明るくて天真爛漫、人懐っこい部分がある。あくまで目視で分析した結果だが。なんかいつもにこにこしてて、表情がころころ変わるし、始業前のこの時間帯にクラスのほぼ全員に挨拶回りをする辺り、天然さが伺える。
端的に言って男が彼女にしたい理想の女子だ。そんな女子にすら話しかけられないどころか目を逸らされる俺は、とんでもない逸材なのかもしれない。もうノーベル嫌われ者賞もらえるレベルの人材。
けどまぁ、有り難いのは事実だ。あんな可愛い女子に微笑みかけられた日にゃあ、惚れる自信がある。もう俺ホント惚れやすい、具体的に言うと看病されたら100%落ちちゃう。と言っても、それは中学時代の話であって現在ではない。
理想は理想、現実ではない。善人に見える人間ほど裏がひどい、俺の持論だ。優しくされたらそれは全て社交辞令、これが非モテの処世術だ。第一、美少女というのはイケメン(笑)やリア充(笑)に興味を示すものだ。
そうこうしている内に続々と生徒が登校してきて、始業前になると三々五々に散らばっていた生徒が一同に着席した。貴族様の話し声が少々鼓膜を揺らす程度で、教室は静まり返っている。あと一週間もすればクラス内の人間相関図が完成し、この静寂も途端に瓦解することだろう。
相変わらず頬杖をつきながらそんな考察をしていると、唐突に前方の引き戸が開け放たれた。静かな空間内においてその音は大きく響き、思わず不快げに眉根をひそめてしまった。
「あっぶねぇ。ぎりぎりセーフ」
そうクールに呟いた男子は空気をぶち壊したことも気にせず、窓側最後列の席に大げさに腰を下ろす。ウチのクラスは男女交互に列になっており、その大柄な男子の隣の席の女子がビクリと身を竦ませたのが俺の位置からでもわかった。
男子の名前は如月雄二。微ワルのオーラを出すこのクラスのアウトロー。ワックスで剣山のように立たせた髪、剣呑さを宿す吊り目、強面、日替わりのアクセサリーに第三ボタンまで開襟された制服、居眠り常習犯。そりゃ怖がられるわな、俺だって多少ビビる。
担任が教室に来るまでの間、如月の隣で怯えている女子に思いを馳せて、早く席替えしろよと柄にもないことを思い続けた。