第40話 力と心
司教座聖堂が大きく揺れた。
建物だけじゃない。まるで大地がうめき声を上げているかのように、ビリビリと空気すらも揺れていた。
「何かマズイ事が起きてるような気がするね」
カタカタと揺れる司教座聖堂内を走るユーリアがぽつりとつぶやく。
ヴィオラ達と別れてヘス達は辺りにひしめくパルパスの兵達に気付かれないように司教座聖堂の南側に向かっていた。ララ達が居ると想定される、ララの母、ユナの居る部屋を目指して。
だが、その途中ヘス達を襲ったこの揺れ。ドスンという大きな揺れの後、小さな振動は未だ続いている。鳴り響いている警報とあわせて辺りはいっそう混乱に満ちていた。
「ユーリア、ヘス君。あれを」
「……! あれは」
思わずアルフが立ち止まってしまったその光景に、ヘスもまた息を飲んだ。
先ほどまで雪がちらつき、重い雲が覆っていた空がまるで夕焼けの様に赤く染まっている。
「……なンか見覚えがあるッス」
「僕も同じ意見です。ヘス君」
同じような光景を何処かで見た。
そうだ。あれは確かーー
「アタシも見たよ。ラインライツで」
ユーリアがぽつりと零す。
そう、ラインライツであの「禁呪書」が発現しかけた時に見た光景と同じだ。
もの恐ろしい真紅に染まった空、そして襲いかかってきた熱風。ララと共に居たラインライツの記憶がヘスの脳裏に蘇る。
「あの時と同じ事が……ここで……」
「同じ事……ってなんですか?」
あの時はララの力で大惨事を未然に防ぐ事ができた。だけど、今はあの時のララは居ない。あの力で防ぐことは出来ない。
ーーと、ヘスがそう思った時だった。
「……うわッ!」
再度司教座聖堂が再度大きく揺れ、同時に全員の耳を劈いたのは身体の芯に響くような強烈な爆発音。
その衝撃に、思わずヘスはその場に倒れそうになってしまった。
「何だッ!?」
「この衝撃は……魔術です!」
アルフがユーリアの身を庇いながら言う。
ただの爆発音じゃない。それはヘスにも判った。何か空気が破裂したかのような甲高い破裂音。火薬を使った実弾兵器とは違う、独特の爆発音はヘスも何度か聞いたことがある音だった。
「警報が……止んだね」
アルフの胸元からユーリアがヒョイと顔をのぞかせる。
先ほどの衝撃で警報装置が破壊されてしまったのか、辺りを逆に不気味な静寂が包んでいる。
そして、かすかに聞こえるのは、パルパスの騎士達だろうか、怒鳴っている男達の声。
「くそッ! ララッ!」
ララ達の身に何かあったに違いない。
そう感じたヘスは躊躇せず、地面を蹴りあげた。
「ヘス君!」
何度も何度も、俺の居ない所で危険な目に会ってんじゃねぇぞ、ララ。
走りゆく中、懐に隠していたスピアーズから譲り受けたあのナイフの柄を握りしめ、ヘスはそう思った。
***
ララは朦朧とした意識の中、砂塵の向こうに見える影を見つめていた。
変わり果てた母の姿だ。
闇夜を連想させる艷やかな黒く長い髪と、頭髪とのコントラストが印象的な抜けるような白い肌。それに何処か母の面影を感じる事ができるが、燃え上がるような紅い瞳は明らかに人外の物を感じさせる。
魔女。まさにその言葉がピッタリと当てはまる最初の魔女、ジーナの姿がそこにはあった。
「ハハハッ! この前の不完全な物とは比べ物にならない程の力ッ! これが最初の魔女の力ですかッ!」
素晴らしい。と、ハサウェイが悦に浸った声をあげる。
先ほど最初の魔女の身体から放たれた空気が爆ぜ、天井と壁が一瞬で吹き飛んだ。辺りは瓦礫でうめつくされ、穿たれた壁の穴から覗いているのは……血に染まったかのような赤い空。
復活してしまったジーナと不気味な空。体験したことのないような恐怖がララを襲う。
「リンさん……リンさん……」
ララの傍らに倒れているリンにララが手を伸ばし、その身体を揺するが、反応は無い。
怪我は無いようだけど、意識を失っている。カミラさんやトト君達も同じように気を失っているんだろうか。次の衝撃波が放たれる前に、皆とここを離れないと。とーー
「これはッ……!? 貴様ッ! 何をしたッ!」
手探りでカミラ達を探そうとしていたララの背後から、怒鳴る声が鎧の擦れる音を携えながら半壊した部屋へと雪崩れ込んだ。
確認するまでもなく、パルパスの騎士たちだろう。
「おやおや、これは司教様お抱えの騎士様達ではないですか」
「……お前はッ……確か司教様の……」
見た記憶がある。
騎士はそう言いたげにハサウェイにゆっくりと近づく。
確かこいつは司教様直属の暗殺者集団、死の宣教師とか言う輩の一人。
味方ーー
そう思いながらも、じりじりと近づく騎士は味方に向けるものではない、明らかな警戒心をむき出しにしている。
「この惨状はお前がやったのか」
静かに騎士が言う。
だが、ハサウェイはそんな騎士をじっと見つめながらも何も言葉を発さない。
「……やったのか、と聞いている」
騎士が片手に携えていた剣の柄を両手でつかみ、ぎゅうと力を込める。
得体のしれないこの男がもたらす恐怖を紛らわすために。
「フフッ……フフフッ……」
「……ッ」
小さく肩を震わせながら笑い始めたハサウェイに騎士たちの中に明らかな緊張が走った。
「……怖い。怖いですよねェ。いや、判りますよ。貴方の気持ち」
「薄気味悪い奴め。質問に答えぬかッ!」
「壊して、殺しましたよ」
手を口にあてがい、抑えきれないと言いたげに笑みをこぼしながらハサウェイが続ける。
「僕達……いや、貴方達の主であるヴァイス司教様は僕が殺しました」
「な、なんだとッ!?」
「仕方なかったんですよ。この魔術書がどうしても欲しかったんですよ。元々僕の右腕に刻まれていた永久魔術だったんですけどね」
そう言って取り出したのは、タイトルが書かれていない小さな赤い本。
まるで挑発するように、ハサウェイがひらひらとその赤い本を騎士の目前で揺らす。
「スピアーズが僕の右腕を奪ったからですよ。僕を恨むのは筋違いです。ウフフ、だから僕はずっと探してたんですよ、この『生命付与魔術書』……」
「貴様ッ!」
騎士がハサウェイの手を払いのけ、その首元に剣の切っ先を突きつける。
ハサウェイの手から落ちた魔術書が足元にポトリと落ちると同時に、騎士の背後に控えていた騎士たちが剣と盾を構え、ハサウェイとジーナをぐるりと囲んだ。
「訳の判らぬ戯言をッ……!」
「戯言?」
騎士の怒号にハサウェイの頬がぴくりと引きつる。
そして、何かのスイッチが押されたかのように、その空気がピンと張り詰めた。
「僕の至高な目的を……戯言だって?」
「うぅッ……」
その狂気に満ちた表情に思わず騎士がたじろぐ。
普通じゃない。このまま剣をその喉元に突き刺すべきだ。
騎士はそう思い剣の柄に力を込めるがーーそれはピクリとも動かなかった。
「君に何が判る……僕は手に入れるんだ。僕は……フフフ」
強靭な力でハサウェイが剣の切っ先を強引に掴む。プツプツと肌が斬れ、赤い血がその掌から腕を伝い、ハサウェイの足元に落ちた魔術書の赤いカバーの上に溶け込んだ。
「は、離せッ……」
「僕は手に入れるんですよ。『力』で『心』を」
「……ッ!」
次の瞬間、剣を奪い取られるかと思っていた騎士の目に飛び込んできたのは、信じられない光景だった。
ハサウェイは握りしめた剣の切っ先をそのまま、己の喉元へと突き刺す。
柔らかい喉元にするりとめり込んだ剣の切っ先は、たやすくハサウェイの首を貫いた。
「な、何をッ!!」
「……」
勝ち誇った様に目を見開いたハサウェイは、どす黒い血が吹き出す口をパクパクと動かし、何かを口ずさんだ。
「……始まる?」
その光景を見ていたララはハサウェイが口ずさんだ言葉が判った気がした。
始まる。
たしかにその口はそう動いていた。
と、その時だった。
「……退けオラぁッ!!!」
「ぐッ!」
ララの耳に届いたのは、もう聞き慣れたあの人の声。ヘスだ。
崩れた壁から跳躍したヘスが、騎士の一人を斬りつけ、ララの側へと滑りこんでくる。
「ララッ! 無事かッ!」
「ヘス君!」
私は平気だけど、他の人がーー
そう言いかけたララだったが、思わず言葉を喉奥へと飲み込んだ。
先ほどハサウェイの喉元に剣を突き刺した騎士の背中にか細い、赤い血で染まった腕が突き出していたからだ。
騎士の甲冑をまるで紙細工の様に貫通した腕から滴る大量の血液が、彼の白い鎧を赤く染め上げていく。
「なッ……!」
騎士にも己の身に何が起こったのか判らないようだった。
先ほどまで、まるで人形の様に立ちすくんでいた女が俺の身体に触れたかと思った次の瞬間ーー
「これが……最初の魔女、ジーナ……の身体と……精神か」
先ほどのハサウェイと同じように喀血する騎士の絶望した顔を見つめながら、ジーナがペロリと舌なめずりする。その仕草はどこか艷やかであったが、同時に獲物を捕食する強大な肉食獣の姿を想像してしまうほどの恐怖も兼ね備えていた。
「成功……しましたよ。予想通り、生命付与魔術には精神を移管する能力がありました……」
ジーナは左手で優しく撫でるように騎士の顔に手をあてがうと、おもむろにその胸に突き刺した右手を引き抜く。
「ぅッ……」
騎士の身体から抜き出した己の腕から滴る血を赤い舌でジーナがペロリとひと舐めした。
騎士は胸に穿たれた小さな穴から赤い血を吹き出しながらその場に倒れこむと、その血は、まるで赤いシャワーの様にジーナの身体を濡らす。
恐怖、そしてさらなる恐怖。
それがジーナを中心に辺りをじわじわと侵食していく。
「お、お前……」
一体誰だ。
その姿に思わず慄いたヘスが言葉を漏らす。
いつの間にか、恐怖に駆られてどちらからと言わず、ヘスとララはきつく手を握り合っていた。
「僕は……」
まるでダンスを踊っているかのようにジーナはくるりと身をひねると、その美しい黒髪が弧を描き、踊った。
血霧の向こうに見えるのは、恍惚とした表情を浮かべる、美しいジーナの姿。
「……ハサウェイですよ。ヘス君」
お母さんが言っていた、テトラがジーナの身体を手に入れるために行った「生命付与魔術」による精神移管。この人はそれをやったんだ。
ジーナの姿を見て、ララは息を飲んだ。
「……こんなに清々しい気分は初めてですよ」
ヘスの視線に、剣が喉元に突き刺さったまま、地面で息絶えているハサウェイの姿が入る。
昔の面影は全く無くなってしまった、青年の姿。
息絶えたそのハサウェイの口元がキュウと釣り上がったようにヘスには見えた。