第37話 暗躍する男
ララが母と再会した時から遡ること半刻ほど前。
スピアーズの「裏切り」により捕まってしまったラッツとナチは、まるで城かと思うほどに大きくそして厳かなパルパス教会の司教座聖堂の中を歩いていた。
「貴方達にヴァイス司教を暗殺していただきたいのでェす」
二人を先を歩く青白い顔の男、ロンドがぽつりとそう言った。
始めは聞き間違いかと思った。この男は教会が組織する暗殺者集団死の宣教師の一人だと聞く。あのハサウェイと同じ、凶悪な暴力を兼ね備えた暗殺者だ。
その男の口から、己の主であるヴァイス司教を暗殺してくれ、などという言葉が出るはずない。
「今なんと?」
「あまり何度も口に出したくないのですがねェ。貴方達ハイムの軍人に、我が主であるヴァイス司教を暗殺していただきたいのでェす」
「ヴ、ヴァイス司教を……ああ、あ、暗殺?」
やっぱり聞き間違いじゃ無かった。
どうやってここから逃げ出すか。それを考えていたのに、まさかパルパスの最高権力者であるヴァイス司教の暗殺を依頼されるなんて。
「これから案内する部屋にヴィオラ公爵と連れの軍人が軟禁されていまァす。彼女達と共に、行動してくださァい」
「ヴィオラ閣下が?」
連れの軍人とはバクーさんのことだろうか。
この死の宣教師の思惑が読めず、次第にラッツの頭が混乱し始めた。
ヴァイスの死によって利益が生まれるのは我々ハイム陣営だ。ゴートが独自で活動できる力を失った今、パルパス陣営がヴァイスを失うことはすなわち「ハイムの勝利による内戦の終結」に直結すると考えていいだろう。
「言っておきますが、私の独断ではありませんよォ?」
「では、どなたの?」
「私が忠誠を誓っている、『ボス』でェす」
ボス。スピアーズさんが言っていたララちゃんの母親か。ララちゃんの母親が、ヴァイス司教の暗殺を計画している? 何故?
「何故貴方のボスはヴァイスの暗殺を?」
「教会内も一枚岩とは行かないとだけ言っておきましょうかァ」
派閥争い。そんな言葉がラッツの脳裏に浮かんだ。
どの組織も腐敗している。ラッツはそう思った。
人々を救うはずの宗教が欲にまみれ、己の利益ばかり求め、悲劇を繰り返す。ハイムもゴートも、そしてパルパスも、どこも同じだ。
いつかビビの街でラッツが放った、人は利他的であるべきという主張に対し、バクーが言った「それは残酷な希望だ」という言葉が現実としてラッツにのしかかる。
「……どの組織も同じようなものですね」
「まったくでェす」
そうしてロンドに連れられたラッツ達はひとつの扉の前で足を止めた。扉の前には白い甲冑を着た騎士が二人。モーリスで見たパルパスの騎士。
たしか、教会と教会が崇める三女神に命を捧げる「血の契約」を交わしたヴァイスお抱えの騎士団だ。騎士団の中でもとりわけ重要な任務に着くことが多いと聞く。
その騎士が警備に着いているという事から、この部屋の中にいる人物は最重要人物と言うことは見て伺える。
「ラッツ……」
ラッツのシャツの端をつんつんと引っ張りながら恐る恐るナチが声をかけた。
さすがのナチも捕虜となった今の状況にだいぶ参っているようで、その表情に幾ばくか憂慮の色が伺える。
「大丈夫だよ、ナチ。僕らは閣下の元に案内されるらしい」
「……へ? 閣下って……ヴィオラ閣下の事?」
ラッツはこくりと頷くと、その返事に少し安心したのか、ナチの表情がかすかに明るくなった。
「なんだ、てっきりこれから冷たい牢屋に入れられてあんな事やこんな事をされるのかとばっかり」
「……あんな事やこんな事って何さ?」
「判るでしょ、拷問よゴーモン。重要な情報を聞き出す為に身の毛もよだつ恐ろしい器具で……」
身の毛もよだつ恐ろしい器具で責められる姿を想像したらしく、「ああ、怖い」と小さな悲鳴を上げ身を竦めるナチをラッツは冷めた目で見つめていた。
「そ、そうだねー」
感情の篭っていない返事をラッツが漏らす。
拷問て。拷問して僕ら下士官から何の情報を引き出すつもりなのさ。ナチの中のパルパスは。
好転したと伝え無い方が色々と良かったのではないかとラッツは少し後悔した。
「あのォ、一つ、良いですかァ?」
ナチとの茶番が途切れるのをじっと待っていたらしい死の宣教師が小さくつぶやいた。
その姿と同じように、気が弱い性格なのか。
「貴方達をただで逃すつもりは無いのでお気をつけくださァい」
だが、放った言葉にその気弱さは感じられなかった。
遠回しの脅迫じみたその言葉。
ただで逃すつもりはない。ヴァイス司教を仕留め損なえば、命は無いと言っているロンドの言葉にラッツは息を飲んだ。
「……判りました」
肝に銘じるようにそう答えたラッツに表情一つ変えずロンドが扉のノブを引く。
賽は投げられた。
そんな言葉がラッツの頭に浮かんだ。
***
「それで、全員この部屋に案内された、と」
そういう訳だな。
バクーが腕を組み、眉間にしわを寄せながら唸る。
「別に来たくて来たわけじゃないんだけどね」
今にも不満が爆発するのではないかと戦々恐々としているアルフの横で仁王立ちしているユーリアがそう言った。
一体どういうメンバーなのか。
ヴァイスが去ってしばらくして、ラッツとナチが現れ、そしてすぐにヘス君と見知らぬ男女が現れた。何か作為的な物を感じるが、これはーー
「罠の可能性は」
ヴィオラがバクーの考えを代弁するように囁いた。
その死の宣教師が言ったヴァイスの暗殺依頼。それがヴァイスが企む罠の可能性がある。
ヴァイスに近づく一行を正当防衛という形で処理でき、さらにその事件を使い、パルパス軍の士気を高め、世間の動向をヴァイスの有利な方向へ持っていく。そんな思惑があるのではないか。
「その可能性はあります。しかし、ここから脱出し敵の喉元に食らいつくには……」
「差し出されたその甘い誘いを食らってみるしかない、か」
「はい、バクーさん」
ラッツが小さく頷く。
もしこの誘いが毒でなければ、これ以上のチャンスは無い。しかし、毒であれば己の命はおろかハイム陣営の存在をも脅かす傷になりかねない。
「フッ、面白い。では、食らってみようではないか。その甘い誘いを」
このままここにとどまった所で、ヴァイスが差し出した選択肢のどちらかを強要されてしまうだけだ。
であれば、高邁な猛禽の王として、奴の首元に今後消えることのない傷跡を残そうではないか。
「御意にあります。……ヘス君、君たちは」
「俺達はララんトコに行くス」
ララの元に向えと言いかけたバクーだったが、ヘスがその言葉を遮る。
それが良い。
ラッツも同じ考えだった。
「ヘス君、君はいつもララちゃんを追っかけてる感じだね」
「ホント、いい加減落ち着けって感じスよね。あいつも」
ラッツの言葉にヘスがおどけた。
俺はいつもララの姿を追いかけてばかりだ。追いかけて、走ってばかりだ。
それが誰かが仕組んだ運命なのではないかとさえヘスは思ってしまう。
「今回が最後になれば良いね」
「……最後にするッス」
ララを捕まえて、全部終わらせて、ララとバージェスの村に帰る。ンで、今度は一緒にゆっくりと歩きたい。
ヘスは恥ずかしそうに照れ笑いを浮かべながらそう思った。
「武運を、少年」
「は、はい……」
そう言ってヴィオラがヘスに微笑みかける。
その艷やかな笑みに思わず頬が緩んでしまったヘスに「気合を入れんか馬鹿者」と冗談半分でバクーがちくりと釘を刺した。
***
思いの他状況は悪化している。
司教座聖堂の一角に設けられたヴァイスの私室。ヴィオラ達を軟禁している先ほどの客室と比べてかなり質素なその部屋でヴァイスはデスクの上に並べられた報告書に目を通しながら改めてそう思っていた。
計画してた、パルパスを中心としたゴートと魔術師協会の協力体制が半ば破棄されたために、ハイムへの侵攻作戦が完全に頓挫した。
内通していた強硬派の幹部達が更迭され、以前の穏健派が実権を握ったらしく、ハイムへの強制措置が取りやめになった為だ。
ジンが裏切ったか……いや、奴にも十分甘い蜜を分け与える約束を交わしていた。ここに来て裏切るなどあり得ない。公にはなっていないが、ジンは失脚したか殺されたかのどちらかだろう。
となれば、ヴィオラの声明はもはやどうでも良い。もう一つのプランである、奴との婚礼を進め、準備を整えた上で声明を公表する方向で考えた方が良いか。
王の血を引く正統後継者が現れたとなれば、戦いに疲れた民どもを中心に、内戦を終わらせる方向へと動くだろう。そして、ヴィオラの夫である私が実権を握る。
面倒な足掻きをされる前に、形式だけでも行っておくべきか。
そう考えたヴァイスが側近の司祭を呼ぼうとしたその時だった。
「ヴァイス司教様」
思いふけるヴァイスの耳に、扉を叩く小さな音と共に、その名を呼ぶ声が届いた。
聞きなれない声。また膠着している南部戦況の報告だろうか。
怪訝な表情を浮かべ、ヴァイスが返す。
「何だ」
「ご報告があります」
「……入れ」
変わりない戦線の膠着状況の報告か、もしくはハイムの些細な動きか。
特に気にすべき内容じゃなければ、報告書だけ受け取り早々に下がらせ、ヴィオラの件を進める。
ヴァイスの声に、ゆっくりと開かれた扉から、黒いフード付きのローブを着た男が静かに部屋へと足を踏み入れた。
「して、報告は?」
「ハイムに動きがありました。ヨハネが指揮するハイム西方方面軍集団が前線を突破しました」
「な、なんだと!?」
まさか。あれほど手痛い損害を与えたにもかからわず、この短時間で体勢を立て直し、さらに前線を突破したなどと。
やはりもう一つのプランを早急に進める必要がある。
ヴァイスは頬をひきつらせながら、そう確信した。
「それと、もう一つ」
「……何だ」
「ヴィオラ公爵が部屋から姿を消しました」
「なッ……!?」
二つ目の報告を受け、ヴァイスは己から血の気が引く音を聞いた。
ヴィオラが逃げた? まさか。近衛兵達が厳重に守るあの部屋から逃げ押せただと。
「どういう事だ! すぐに探せッ!」
非常にまずい状況だ。「最後のカード」が逃げるなどとーー
「……それはできかねますねぇ」
ローブの男が静かに囁いた。
その男が放った言葉の意味が理解できるまでの間、得も知れぬ不気味な静寂がヴァイスの私室を包んだ。
「……何?」
「あなたのその命令は聞けない、と言ったんですよ。ヴァイス司教様」
「……ッ! お前はッ……」
その男がおろしたフードのしたから現れたその顔。それにヴァイスは見覚えがあった。
見覚えがある、というよりも、良く知った男ーー
「ハ、ハサウェイ!?」
確かにその男は、ハサウェイだった。だが、ヴァイスの知るハサウェイとは全く異なる姿だった。
黒縁眼鏡はそのままだが、痩けた頬に、白髪の頭。その異様な姿に、ヴァイスは恐怖すら感じてしまった。
「お久しぶりです、ヴァイス司教様」
「お前は死んだと……何故お前がここに……」
「嫌だなぁ、僕が死ぬわけないじゃないですか。フフフ……」
意味も判らず慄いてしまうヴァイスに、ハサウェイは不気味な笑みを浮かべると、ギラリと光るハサウェイの曇った瞳がヴァイスの目に映った。
そこに見えたのはーー狂気。
ハサウェイがその目の奥に携える、凄まじい狂気がヴァイスの心を飲み込むと、背後から忍び寄る恐怖にその身体はより大きく戦慄した。




