第32話 冬の終わり
間に合わなかったか。
ジンの言葉を聞いて、ランドルマンが最初に思ったのはそれだった。
そして、呪われたクルセイダーの血を引いていて良かった、とランドルマンは初めて思った。
もし、クルセイダーではなく、只の協会一職員だったならば、絶望し自ら命を断ったかもしれない。俺の唯一の生きがい。その一つを失ったのだ。
だが、すでに俺には存在しない。
ーー我が子と過ごした日々の想い出も、彼を愛した記憶も。
ただ既成事実として、息子を生きながらえさせるために、ジンの片腕として動き、日々の治療費を稼いできた。
「ショックか? ランドルマン。そうだろう。貴様が息子と妻の為に手を汚してきたことを私は知っているからな」
ジンが笑みを浮かべながら、吐き捨てる様に言う。
だから、それを利用させてもらった。
彼の表情からは、そうも読み取れる。
「下がれランドルマン。……一人残ったお前のもう一人の『生きがい』を殺されたくはないだろう?」
「……ゲス野郎が」
そうぼやいたのはガーランドだ。
噂以上に汚い男だ。
ジンの言葉を聞いて、ガーランドはそう思った。
だがーー
「それが最後の言葉か?」
「……ッ!」
ランドルマンが、ジンの脅迫ともとれる言葉を意ともせずゆっくりと歩き出す。その姿に思わずジンが慄き、後ずさった。
「やめろランドルマン。いいのか。全てを失うぞ……ッ!」
「ジン、お前は勘違いをしている」
「うッ……!」
ジンはいつの間にか窓際まで追い詰められていた。ガラスに押し付けた背中に外気の冷気を感じる。その冷たさは恐怖となり、ジンの心を責める。
「今の俺の目的はジン、お前を殺す事だ」
「……下手に出ればつけあがりおって」
ギリ、と怒りに満ちた表情でジンが奥歯を噛みしめる。
まだ手はある。あと一歩ランドルマンが近づいた所で最後の手を使う。
さぁ、来い。とジンは斬りつけるようにランドルマンを睨みつけた。
「俺に手をかけたことを後悔しろ。ジン」
そう言ってランドルマンが、最後の一歩を踏みしめた。
「それはこちらのセリフだッ! ランドルマン!!」
「……ッ!」
ジンの叫び越えが轟いたと同時に、ランドルマンの足元が突如甲高い破裂音を伴わせながら爆散した。
ラプチャーフロア。
主に狩猟に使われる中級魔術の一つだ。地面に設置した魔術に触れた時にその効果が発現する「設置型」の魔術。通常のものであれば、衝撃でしばらく足が麻痺する程度の物だが、ジンが放ったそれは麻痺させるレベルの物ではなかった。
右足に襲いかかった激痛にランドルマンの身体が崩れ、地面に鮮血が飛び散るーー
「ぐうッ……」
「ランドルマンッ!」
明らかな致命傷。やはり二人がかりでやるべきだったか。
思わず駆け出したガーランドだったが、すでに一手遅れていた。
ジンが次の魔術を発現させる姿がガーランドにもはっきりと判った。ジンの指にはめられた指輪がぼんやりと光るーー
「遅いぞッ!」
ジンの声と同時に天井を突き破り氷の刺が数本地面に突き刺さった。
確実にガーランドの身体を狙って放たれたと思われるジンの魔術だったが、一歩踏み出していた為に、避けることは容易だった。
だがーー
「ぐッ……」
ランドルマンの背中に見えるのは、降り注いだ氷の刺。一本は脇腹、もう一本は腹部を貫いている。
「ハッ! 言うとおりに動いていれば、苦しまずに死ねたものを!」
「ちッ!」
ランドルマンにもう一撃魔術を放つ為にジンが指を掲げたのを見て、地面に突き刺さった氷の刺を蹴り、ガーランドが飛び出した。
ランドルマンが受けた傷は深い。だが、治療魔術を使えばまだ間に合う。
だがそれはジンの罠だった。
「馬鹿めッ!」
「……ッ!」
ガーランドが踏みしめた床がまたしても大きく爆ぜた。
すでに地面には、もう一つラプチャーフロアが設置されていた。
しくじった。
瞬時にそう感じたガーランドの左足にバリバリと電撃の様な痛みとも痺れとも取れる衝撃が足の裏から駆け登る。
「ぐあッ!」
思わずガーランドもまた、その場に崩れた。
肉が裂け傷は骨まで達している。回復しなければ命に関わってしまう。
咄嗟にそう判断したガーランドは自分が負った傷を回復するために、治療魔術が刻まれたグローブを傷口にあてがった。
そこで生まれた、僅かな隙。
「私の勝ちだ! ガーランドッ!」
すかさずジンの指がガーランドに向けられた。
さらに一手遅れてしまった。それは命を落とすに十分な隙。
ジンの指輪が光る。先ほどランドルマンを吹き飛ばしたあの魔術だ。
ガーランドの目にほくそ笑むジンの表情が映り込む。とーー
「甘い……ッ」
ジンの指から魔術が発現されたその瞬間、放たれた魔術の軌道がガーランドから逸れ、天井に赤子の頭程の穴を穿った。
ジンの腕を握っているのはランドルマン。
軌道を逸らしたのはランドルマンだった。
「貴様ッ!」
「ぬぅぅッ!」
己の腹部を貫通している氷の刺を叩き割り、ランドルマンは掴んだジンの腕を曲げてはならない方向へ捻り上げる。
強烈な腕力で曲げられたジンの腕から、関節が外された鈍い音が放たれた。
「ぎゃぁあッ!」
悶絶するほどの激痛がジンを襲う。
しかし、それはジンの腕を捻り上げたランドルマンも同じだった。
気力で辛うじてつなぎとめている意識の中、腹部からどす黒い血を滴り落としながら、ランドルマンは気力でそのままジンの首を掴む。鋼の様なランドルマンの指がジンの首に食い込み、ジンの脳への血流をせき止める。
「や、やめろランドルマン。もう一度……よく考えろ」
「考える? 何を?」
「この手を離せ……そうすれば、もう一度……」
ジンの青白い顔が、赤黒い顔へと豹変していく。
血流を止め、意識を失わせるつもりじゃない。ランドルマンは、このまま首の骨をへし折るつもりだ。
「俺の中にはもう何も無いのは知っているだろう、ジン。お前を殺す事にためらいも、罪悪感も、何もない」
ランドルマンが片腕で軽々とジンの身体を持ち上げると、重力で更にジンの喉にランドルマンの指が食い込んだ。
その強烈な力で押されたジンの背後のガラスが砕ける。
「ぐうぅぅぅッ、は……離せッ!」
そう断末魔の叫びを上げながら、ジンが左腕にはめられた指輪の魔術を発現した。細かい空気の斬撃がランドルマンの身体を斬りつける。
が、ランドルマンは力を緩めることは無かった。
「土は土に(earth to earth)、灰は灰に(ashes to ashes)……」
ぐるりとランドルマンの義眼がギョロリとうごめく。
相手の自由を奪う、精神魔術。
その目を見たジンの動きが止まった。
「……塵は塵に(dust to dust)」
最後の言葉を放ったランドルマンがジンの身体を窓から外へ投げ捨てた。
ランドルマンの精神魔術で身体の自由を奪われてしまったジンは、虚ろな目を携え為す術無くヴェルドの街へその身を差し出しすしかなかった。
「……ラ、ランドルマァァァァン!」
その声が、ジンの最後の抵抗だった。
ジンの身体がゆっくりと眼下のヴェルドの街に吸い込まれていく。その表情は虚ろなままだ。
ランドルマンは只見つめていた。かつての「飼い主」であり殺すべき「標的」となった男の姿を。冷たい表情のまま、何も感じることは無く。
下から突き上げるような冷たい突風がランドルマンの身体を突き抜けていく。
ジンのその野望に満ちた姿を飲み込んだヴェルドの街並みは、はらはらと降り注ぐ雪で白く覆われ、先程まで日差しがこぼれていた空もすっかりと重い雲で覆い尽くされていた。
***
砕かれた窓からは小さい粉雪とともに、身を斬り裂くような冷気が流れ込んでいる。
終わった。
ガーランドはそう思った。
「こっちへ来い、ランドルマン。傷を回復してやる」
窓際に立ち、消えたジンの跡をただ見つめていたランドルマンにガーランドが呟く。その身体から滴る血液は、深い傷を負っている事を語っている。
だが、ランドルマンはそのまま踵を返すとよろよろと部屋の扉の方へと足を進めた。
「おい」
「……要らん」
ランドルマンが静かに答えた。
必死にひねり出したような、弱々しい声だ。
「お前の手助けも、約束した権力も、もう要らなくなった」
息子の死。
やはりランドルマンが権力にすがりついていたのは、それだった。
「後はお前がやれ。俺には……必要ない」
部屋の入り口で壁にもたれかかりながら扉のノブに手を回したランドルマンがそう呟く。
「だったらその怪我位治してやるっつってんだよ」
「要らんと言っている」
「何処へ行くつもりだ」
ガーランドの言葉を無視するようにランドルマンがドアのノブを回した。
扉を開けたことで風の通り道が出来た部屋に、冷たい風が一つ通り抜けていく。
「俺にはもう一つやることが出来た。北の大地で、だ」
「北の大地……? ヴァルフォーレか?」
まさか、ララ達を。
その言葉を言いかけたガーランドをランドルマンが制する。
「あのガキ共ではない。もっと強大な……」
「どういう事だ」
強大な何か。もしかして、ランドルマンの中のクルセイダーの血がそれを察知したというのだろうか。だったら俺もーー
そう言いかけたガーランドを再度ランドルマンが遮った。
「お前はここでやるべきことをやれ。ガーランド。俺は俺のやるべき事を終わらせる」
そう言ってランドルマンはこちらを振り返ること無く、ゆっくりと部屋を後にした。
不器用で、馬鹿な男だ。ジンではなく俺を頼ればひょっとすると、息子も助かったかもしれない。
ランドルマンの姿を追いながら、ガーランドはそう思った。
「フン、お前の言うとおり、俺に出来ることをやるとするか」
完全に癒えた左足を確認し、ガーランドが立ち上がった。
穏健派の連中がそろそろ到着するはずだ。
到着したならば、パルパスとゴートに支援していた魔術院を引かせ、ハイムへの調査を終了し内戦への干渉をやめさせる。
「約束は守ったぜ、嬢ちゃん達」
ヴェルドの空を覆っていた雪雲の隙間から一筋陽の光が舞い降りた。
冷たく厳しい雪は終わりを告げようとしている。
冬が過ぎれば、雪解けの季節だ。そうなれば、ヴァルフォーレの道は切り開かれるはず。
ヴェルドの空を見ながら、ガーランドはそう思った。