第24話 離脱
湧き上がるのは怒りと憎しみ。
身体を動かすのは、殺意と悦び。
感覚のすべてが麻痺しているような、靄がかった意識の中、ヘスは只身を任せるようにその感情に従うしか無かった。
とぎれとぎれに拳から感じるのは、何かを殴りつけたような衝撃。
鼻腔をくすぐるのは血の臭い。
すべてを破壊し、奪い尽くしたい。そんな狂気に近い欲求も怒りとともに後から後から湧き出てくる事にヘスは気がつく。
「……君は他のクルセイダー達と何か違うな」
霞がかった視界の向こうから、何者かがヘスに語りかける。
誰だ。
聞き覚えのない声にヘスの意識が一瞬、まるで深海から浮き上がるかのごとく鮮明になった。
「その力は簡単に使えるものじゃないし、覚醒すら珍しい」
力? 覚醒? 何のことを言っているんだ。
「君が今殴りつけている男。この男もクルセイダーの中では力がある方だけどね。君ほどじゃない」
殴りつけている男? 誰の事だ?
……でもどうでもいい。すごく眠い。それになんだかふわふわして気持ちいい感じだ。
一瞬鮮明になったヘスの意識が、また薄暗い闇に覆われていく。
「ダメだ。しっかりしないと、『落ちて』しまう」
落ちる? 何処に?
「そのまま落ちたら、君が守りたい大切な人すら手にかけてしまうよ」
大切な人? 大切な……
「しっかりしろよ。君は決断しただろう。絶対守るって」
守るーー
その言葉にヘスの意識が薄暗い深海から、再浮上していく。その声の主に救い上げられるように。
守るべき少女の姿を霞の向こうに思い浮かべながら。
「そうだ。それでいい。その力を使うべき時は今じゃない」
ヘスの意識にまとわりついていた影が、風に吹き飛ばされる霞のように次第に晴れていく。
麻痺していた感覚が戻ってくる。
ーーアンタは誰だ?
ヘスは鮮明になる意識の中で、声の主に語りかけた。
「私はーー」
その名がヘスの脳裏に響いたと同時に、ヘスは我に返った。
朝が近いぼんやりと赤みがかった空、倒壊した家屋、崩れかけた壁。そして目の前に居るのは、先ほどランドルマンと対峙していた男と女。そしてその女に抱きかかえられたララ。
「……あれ?」
俺は何をしていたんだ。確かランドルマンに首を掴まれたララを助けようとして……
「だ、大丈夫……なのかい?」
「……えっ?」
アルフがぽつりとつぶやいた。
「……アンタ、アタシ達まで手に掛けようとしたんだよ」
ララを抱きかかえたユーリアが続ける。
手をかけようとしていた。俺が、ララに。あの「声」が呼びかけるのがもう少し遅かったら、取り返しの付かない事になっていたかもしれない。
怯えたような表情を見せている二人にヘスは得も知れぬ恐怖を感じてしまった。
「でも、アンタのおかげでランドルマンをぶちのめす事ができたよ」
「ランドルマン……」
「後ろ」
ユーリアの声に促され、ヘスはくるりと踵を返した。
そこに居たのはーーうずくまり昏倒しているスキンヘッドの男。ランドルマンだ。
「お、俺が、ランドルマンを?」
「やっぱり何も覚えてないんだね」
アルフが静かな声でそう言葉を放つ。
覚えていない。ぼんやりとした意識の中で、怒りに身を任せ勝手に身体が動いていた。
「……あの声」
あの声の主が止めてくれていなければ、俺は取り返しの付かないことをしていたかもしれない。
その事実が麻痺していた恐怖をヘスの身体に生み出す。
そして同時に、麻痺していた「痛覚」が目を覚ました。
「あっ……! ちょっと!」
アルフ達の目の前でぐらりとヘスの身体が揺れる。
両手両足から凄まじい激痛がヘスを襲ったのだ。筋肉痛に近い痛み。いや、筋肉だけじゃない、骨の芯から放たれる痛みだ。
その痛みが身体を駆け抜けると、ヘスの脳が危険を察知し、全てを遮断するーー
地面に倒れこんだ衝撃が薄れゆく意識の中でわかった。
それと同時に浮かんできたのは、あの声の主の言葉。
つい今まで霞がかって消えていた、あの声の主の最後の言葉。
ーーオーウェン。声はそう言っていた。
そして、最愛の女性を殺してしまった、呪われるべき最初のクルセイダーだ、とも。
***
ラッツには一体何が起きているのか全く判らなかった。
死を覚悟したその瞬間、目の前に居たパルパスの騎士達の身体が、突如起こった突風で切り裂かれ崩れ落ちた。
わからないけれど、助かったのは事実。
無意識の内にくるりと身を捻り、ナチの方へ槍斧の切っ先を向ける。そして、踵を返したラッツの目に映ったのは、ナチに斬りかからんとする二人の騎士だ。
「ナチ、しゃがんで!」
槍斧の柄でパルパスの騎士の剣を捌き、足へ斬撃を放つ。瞬時にラッツの脳裏にそうビジョンが浮かぶが、突然放たれたラッツの声にナチの反応が遅れてしまった。
間に合わない。ナチがしゃがんで居ないため、槍斧の可動範囲が限定されてしまった。
だったらーー
「うわッ!!」
間に合わないと判断したラッツはナチの身体を突き飛ばした。一手遅れてしまったが、槍斧を動かす為のスペースは確保できた。
だが、それは致命的な一手だ。騎士の剣を捌く動作が間に合わない。
ラッツがそう思った次の瞬間、騎士の一人の剣がラッツの甲冑を捕らえた。金属がぶつかり合う激しい音がラッツの耳をつんざく。衝撃が甲冑を伝わり、全身がしびれる。
「ぐぅッ!」
痛み、というより、感じたことのない熱さがラッツの左肩に襲いかかった。甲冑が切れ、刃が通ってしまった。だけど、致命傷じゃない。
左手を掲げて槍斧の柄でガードすれば、もう一人の斬撃は受け止められる。
そう思い、左手をあげようとしたがーー動かない。
先ほどの一撃で左手がやられたのか。
ゆっくりとしたスピードで、自分の首元をねらう騎士の剣の軌道がはっきりと見える。
ダメだ、避けられないーー
「ラッツッッ!」
ナチの声が聞こえた。
「ナチ、逃げて」
小さくラッツが囁いた。
予定とは違うけど、上手く行けばナチは助かる。それに、ヴァルハラでナチにぶちぶちと小言を言われたくないし。
ラッツは目を閉じた。すぐ後にくる、死への恐怖を覚悟して。
だが、それは訪れることは無かった。
「ぐあッ!」
先ほど空から降り注いできた炎に似た物がラッツの目前をかすめ、騎士達に直撃した。爆発とともに、熱風がラッツの顔を撫でる。
魔術? 誰だろう。ララちゃん達?
だが、目の前を横切ったのは、ララ達ではなかった。カールしたブラウンヘアーの男。見覚えのない顔だ。
「……誰?」
力が抜け、崩れ落ちるラッツはその姿を見て困惑した。
見知らぬこの人は、どうして僕達を助けてくれたんだろう。
「ラッツ! ラッツッ! しっかりして!!」
倒れる身体を受け止めるたのは、ナチだ。今にも泣き出しそうな表情でこちらを見ている。
そんな顔は似合わない、とラッツは思った。
どうせなら、いつもの涼しい顔を見せて欲しい。笑ってよ、と言いたかったが、言葉が出なかった。
「離脱する。ついて来い」
静かに言い放つ男の声と共に、辺りにパルパスの騎士達が放つ怒号が飛び交った。
待って下さい。バクーさん達がーー
そう言いかけたラッツの額と左肩に激痛が走った。ナチが身を起こさせたのだろうか。
朦朧とした意識の中、遠くにバクーの姿が見えた。やけに鮮明にこちらを見る、バクーらしい凛とした表情。
「生きのびろ」
声は聞こえなかったが、バクーの口は確かにそう言っていた。
生き延びます。ーーだけど、必ず貴方を助けに行きます。
バクーから言い渡されたその命令を復唱しながらも、己に言い聞かせるようにそう決意したラッツの意識は赤みがかった薄暗い闇の向こうに溶けこむように消えていった。