第22話 恐怖
自分の身体に他人とは違う血が流れていると感じたのはいつだっただろうか。
生まれ育った村で知識なく、中級魔術を発現させてしまった時だろうか。魔術解読師の才能があるとライセンスを取得するために「ギルド」に無理やり入れられ、驚くべき短期間で十もの中級魔術のライセンスを取得した時だろうか。それとも、魔術師協会の下部組織でありながら、大協約違反者を「武力」で制圧する実行部隊、協会魔術院にスカウトされた時だろうか。
そのいずれにしろ、思った通り俺の中には特別な血が流れていた。
ーー「エリートの血」では無い、呪われ、血塗られた悪魔の血だ。
俺の前に一人の男が現れたのもそんな時だった。
「組織がお前の力を欲している」
名前をジャンと言った。
聞けばジャンも自分と同じ、呪われた血を引いているという。クルセイダーという名前を教えられたのもジャンからだ。
クルセイダーは形ある組織ではない、と言う。遥か昔、最初の魔女を倒した一族の末裔。その眷属がクルセイダーだという。そしてその眷属は一定の期間を経た後、その血にささやかれると言う。
ーー奴らを殺せ、と。
俺は魔術院の仕事をこなしながらも、ジャンと行動を共にすることが多くなった。目的は単純だ。血に従うまま、最初の魔女の末裔と思わしき人間を狩り殺す。
最初の魔女の末裔に特徴は無い。一見普通の人間だ。だからこそ、最初俺は奴らに手をかけることをためらった。
「奴らは死んで当然の事をした」
我が子を守る様に抱きしめながら息絶えた女を見つめながら、無表情のまま呟くジャンの言葉が今でも脳裏に焼き付いている。
どんな悪党であろうと、好き好んで老人や子供を殺せる奴は居ない。
だが、どんな環境であろうと、ヒトという生き物は順応していくものだ。心では殺したくないと思いながらも、血がそれを許さない。血が心を支配し、身体を支配する。
繰り返すうちに、俺もジャンと同じように、無表情のまま躊躇なく殺せるようになった。
それから俺は何人もの最初の魔女の血を引く奴らを手にかけてきた。年老いた老人から、無垢な子供まで。
跪き、許しを乞う老婆の首を切り裂き、幼い少女が弟と逃げ込んだ小屋に火を放った。
「これほどまでの人材だとは思わなかった」
ジャンはそう言って冷めた笑みを浮かべた。
どんな悪党だろうと、人を殺める時に人間は刹那躊躇する。それがお前には無い、と言う。
「お前ほどじゃない」
冷めた表情で俺はそう返した。
それからだろうか、最初の魔女の末裔を殺す度に、俺は何かを失っていった。
罪悪感、心の痛み、ためらい、愛、感情、そしてーー想い出。それがひとつなくなる度に「足音」が大きくなっていく。
背後から忍び寄る影の足音。それが何なのかはもう判っている。
俺が危惧するのはただひとつ。
まとわりつく奴の影に飲み込まれるように、愛する妻と我が子の顔が次第にかすれていっている事だ。
記憶が食われる苦い味が舌の奥でする。
その味が意味するものが何なのかは、未だ判らない。
***
まとわりつく影を払いのけるように、ランドルマンは一歩、また一歩と退がっていった。
なぜこの小僧がクルセイダーの力、それもここまではっきりとした影を放てるほどの力を。
「……クルセイダーの血を引いていたとは、驚いたぞ。小僧」
「てめぇだけは許さねぇ」
一度ならず二度もララに手をかけやがった。止めどない怒りがヘスの身体の中から沸き上がってくる。
「相手が違うぞ。その怒りをぶつけるべき相手は俺ではなく……」
そこに居る少女だ。そう言いかけたランドルマンの身体が大きく跳ねた。
「……ッ!」
ランドルマン自身には何が起きたのか判らなかった。判ったのは、その状況を見ていたアルフとユーリアだった。
「影」を纏ったヘスが一瞬でランドルマンとの間合いを詰め膝蹴りを放ったのだ。その小さな身体からは想像できない重い蹴り。まるで黒い風の様な影がランドルマンの身体を駆け抜け、彼の巨躯を弾き飛ばした。
「ぐっ!」
一瞬ランドルマンの意識が遠のく。今まで受けたことの無いほど強烈な蹴り。あの泥人形よりも強力な力だ。ランドルマンは闇の中にゆらめくヘスの姿を見てやっと自分の身に何が起こったのか把握できた。
「小僧……ッ!」
ランドルマンはぐらりと揺れる身体を意識を何とかつなぎとめ、浮いた重心を落とした。
右足の拇指球に全体重を乗せ力を右足に貯め、大腿四頭筋が大きく隆起する。
「……シィッ!」
ランドルマンは、視界にヘスの姿を捕らえた次の瞬間、右足に貯めた力を開放し、捻りを入れながら右拳を叩き込んだ。拳が闇を切り裂き、空気を破裂させる。
このタイミング、この距離、この角度。夜という視界が制限されているということも有り、避けることは不可能ーー
ランドルマンはカウンター気味に放ったそれに手応えを感じた。
「……ッ!?」
だが、拳を伝わってくるはずの骨を砕く感触が無い。それどころか、何かに触れた感覚すら無い。
「貴様ッ……」
ランドルマンの拳はヘスの身体を捉える事無く、空を斬っていた。それどころか、伸びた右腕にぐるぐると渦巻く闇が絡まり、次第にランドルマンの身体を覆い尽くす。
「フゥウゥゥゥッ……!」
闇の向こうから獲物を狙う獣の唸り声ような声が聞こえた。
その声がランドルマンの耳を突き抜けたその時、あの「苦い味」が舌の奥から沸き上がる。
苦い味の正体ーー
それが忘れていた恐怖の味だと知ったのはーーヘスの拳がランドルマンの額を打ち抜いた時だった。
***
ナチは、瓦礫の山と化した大隊本部で息を殺しながらパルパス軍に連行されるバクーとヴィオラを見守ることしか出来なかった。
今出れば、間違いなく殺される。その恐怖と現実がナチの身体と心を動けなくさせていた。
動け。ここから出て、二人を助けるために剣を抜け。
だが、その身体は、ただばくばくと脈打つ鼓動を感じるだけで、微動だにしない。
「ナチ、深呼吸しよう」
「……ッ!」
背後から聞こえたのは、落ち着いたラッツの声。
我に返ったナチが振り返ったそこに居たのは、いつもと変わらない飄々としたラッツの姿だった。
「落ち着いて、深呼吸だよ」
「う、うん」
ナチとラッツは呼吸を合わせ、大きく吸い込んだ空気をゆっくりと吐き出す。
「恐怖に囚われるな。囚われれば恐怖に殺されてしまう。逆に恐怖を支配するのだ。そうすれば恐怖は力になる」
恐怖を支配する。恐れている自分を恥じず、それを受け入れる。
目を閉じ、息を吐くナチの脳裏にバクーが訓練の時に口酸っぱく言っていたその言葉が浮かぶ。
「ナチ」
芯が通ったラッツの声に呼び戻されるようにナチはゆっくりと目を開く。
「僕達は誇り高きハイムの騎兵だ。『騎士たるもの、忠義を尽くし……』」
「『かの婦人を守らんとすべし』……!」
ラッツに続き、ナチが呟く。
忠義を尽くし、己を犠牲にしても弱き者を守る。それがハイムの騎士道。
「ハッ。まさか、アンタに鼓舞されるとはね」
「はは、僕もそう思うよ」
そうぼやく二人はどちらからと言わず、力強く抱擁を交わした。
守られる側でも守る側でもない。自分達はともに戦う「戦友」だ。
言葉にせずとも判るその言葉を確かめながら、ラッツは傍らに捨てられていた槍斧を握った。騎兵の象徴の一つである槍斧。そのずっしりとした重みが、どこか懐かしく思う。
「行くよナチ」
「うん」
ナチは剣を抜くと、カチンとラッツの槍斧と刃を合わせた。
覚悟は出来た。
そう己に語りかけ、フェイスガードをおろした二人は、瓦礫を乗り越えると、バクーとヴィオラを囲む一団に向け、全力で駆け出す。
次第に近づくパルパスの騎士達の向こう、東の空が僅かに青みがかってきているのがラッツの目に映った。