第20話 振り出し
遠くで鐘の音が聞こえる。
乳白色に支配された視界に、曇った鐘の音。ヘスが己の身に何が起こったのか理解できるまで一寸の時間が必要だった。
「……う……」
両手から伝わるひんやりとした感触は地面だ。何故俺は倒れているんだろう。
モーリスに到着して、バクーのオッサンと再開したあと、門衛の詰め所をでてララと教会にーー
「……ララッ!?」
辺りに覆う乳白色の靄を払いのけ、ヘスが身を起こした。
次第にヘスの記憶がゆっくりと掘り起こされていく。
乳白色のこれは、舞い落ちる粉塵だ。ララと町外れの教会に向かっている途中に、空から炎の球が落ちてきて吹き飛ばされた。近くにララが居るはず。
「ララッ! 何処だ!?」
無事であってくれ。そう願いながら、ヘスがもう一度ララの名を呼ぶ。
爆発で舞い上がった粉塵はしばらく収まりそうにない。鐘の音と共に、遠くで金属がかち合う音とハイムの騎兵だろうか、雄叫びを上げる声がかすれかすれに聞こえる。
と、手探りで辺りを探すヘスの手に、温かい人肌の感触があった。
小さな手だ。その手を逃さないように、ヘスが強く握りしめる。
「ララッ!?」
「う……」
ヘスの声に答えるように、小さなララのうめき声が耳に届いた。
ララの手を握りしめたまま逆の手でララの身体を確かめる。
「ララッ、無事か!?」
身体に出血はなさそうだ。瓦礫の下敷きになっているわけでもない。自分と同じく、爆発の衝撃で吹き飛ばされ気を失っていたのだろうか。
「ララ、しっかりしろ」
そう言って、ヘスがララの身体に降り積もっていた粉塵を払いのける。
「ヘス……君?」
「立てるか?」
ララもヘスと同じく、自分の身に何が起こったのかわからないようだった。
ヘスに促されるようにゆっくりと身を起こすと何かを探すように、辺りをキョロキョロと見回し始めた。
「トト君は……!」
「……え?」
ララが小さく叫ぶ。
確かトト君は門衛の詰め所を出た時は自分の肩に止まっていた。だけど姿が見えない。
嫌な予感がララを襲う。とーー
「フガッ!」
「どわっ!」
突如ヘスの足元の瓦礫が吹き上がった。足元を救われた形で転倒してしまったヘスの目に映ったのは、白いカラス。
一瞬それが何か判らなかったが、粉塵で真っ白になっているものの、紛れも無くーートトだ。
「……ヘス、てめぇ、俺を踏みつぶしてやがったな」
「な、なんだお前、一瞬アポロかと思ったぜ」
「ンなわけねーだろッ!」
あんな下品な奴と間違えんな、とトトが喚く。
よかった。
いつものように、こんな状況であってもぎゃあぎゃあと喧嘩を始めたヘスとトトにララは呆れつつも、トトが無事だった事に安堵しつい笑みがこぼれてしまう。
「何笑ってんだララ。白い俺はそんなにおもしれーか?」
「ふふふ、御免、違う違う。あ、でも白いトト君もいいと思うよ」
「……む、そうか?」
「何マジになってんだお前」
まんざらでもなさそうなトトにピシャリとヘスが冷めた言葉を放つ。
「ヘス、てめ……」
ヘスの言葉に再度トトが食って掛かろうとしたその時だった。粉塵の向こうから聞こえて来たのは地鳴りの様な音ーー馬の蹄の音がこちらに向かって近づいて来ているのがヘスの耳に届いた。
「……ッ! ララ! トト! 隠れろッ!」
「わっ!」
咄嗟にヘスがララを地面に押し倒す。
ヘスの目に飛び込んできたのは、粉塵の向こうに揺れる蒼い軍旗。
ハイムは真紅の戦旗のはず。あの旗はーーパルパスの軍旗だ。
すでにこの街にパルパスの軍が来ている。ということは、ハイム軍は負けたのか。
地鳴りは次第に大きさを増し、その音とともに、振動が身体を、そして心を揺り動かす。
止まらないでくれ。
逃げる時間もなかったヘスには、そう祈るしか無かった。
いったいどれくらい続いただろうか。ゆうに一個中隊は超える馬が、舞い上がる粉塵を切り裂き、ヘス達の目の前を駆け抜けていった。やはりあれはパルパスの騎兵達。
あんな数の騎兵が警戒もせず走り抜けていくということは……やはりハイム軍は敗北してしまったのだろうか。
バクー達の無事を確認したい。
ヘスは咄嗟にそう思ったが、それをぐっと心のなかに押し戻す。
今は、ララと教会を目指さないと。
「……行こう、ララ、トト。教会でガーランドさん達と落ち合おう」
「……うん」
ララもきっと自分と同じ心境なのだろう。
後ろ髪を引かれているような神妙な面持ちを浮かべながら、ララはヘスに手を引かれ、町外れの教会を目指した。
***
鐘の音が止んだ。
絶え間なく降り注いだ炎の球は途切れ、静寂が辺りを包み込む。
「……ユーリア、大丈夫ですか?」
あの炎の球が街に降り注ぐ直前に現れた死の宣教師。
アルフは、ロンドの剣を左手で捌いたあと、ユーリアを守るために、彼女の身体を引き寄せ覆いかぶさるように地面に倒れこんでいた。
「うん、大丈夫……」
小さく身を縮めていたユーリアが小さくかすれた声で答えた。
恐怖で小さく身を震わせているユーリアに、もう大丈夫、と一声かけアルフは注意を周囲に向けた。
運び屋とあの死の宣教師、それにランドルマンはどうなったのだろうか。
「……ッ!」
と、アルフの目に、小さいリュックを持ったロンドの姿が映った。あのリュックは、ユーリアのーー
「魔術書は返してもらいますよォ?」
そう言って、ロンドがずるりとリュックの中から魔術書を取り出す。
どうしてそこに魔術書があるとわかったんだ。
その魔術書を戻せ。
アルフが掴みかかろうと動いた瞬間、先手を打つようにロンドが動く。
ロンドの剣がするりとアルフの脇をかすめ、地面にうずくまるユーリアの目前でピタリと止まった。
「これ以上面倒なことは辞めましょう。ワタシの目的は魔術書です。このまま渡すなら、彼女に危害は加えませんよォ?」
アルフの身体が固まった。
一歩動けばその刃はユーリアの身体を貫いてしまうだろう。
ユーリアの命に変わるものはない。アルフは迷うこと無く、返答を返した。
「わ、わかった。魔術書は諦めるよ」
「……素直ですねェ。実に良いことです」
変わらない気だるそうな声でロンドが剣を引いた。くるくると回しながら、腰の鞘に流れるようにその剣を収める。
嘘じゃない。このこの死の宣教師は本当に僕らを逃がすつもりだ。
だが、アルフは何か違和感を感じていた。それが何なのか解らない、得体の知れない違和感。
「アンタ達の気持ちは判らない訳ではないですよォ」
「えっ?」
「でも、お互いにそこまで想い合っているのであれば、これは必要ないんじゃありませんかぁ?」
何の事を言っているのか、アルフには判らなかった。なぜ僕たちの事をこの死の宣教師は知っているのだろうか。それも、誰にも話してはいない、魔術書を探していた理由まで知っているような口だ。
「ラインライツと同じ目に合わないよう、祈っていますよォ」
「……貴方は何故僕達の事をそこまで」
「女神様の祝福をォ」
答えるつもりはない。
そう言いたげにロンドはひとつそう言うと、闇の中に身を溶かしていった。
辺りに残ったのは、静寂と闇。
そのどちらもがアルフとユーリアを責め立てた。
「……ちくしょう」
うめき声のような声がアルフの耳に届く。そう漏らしたのは地面にうなだれたままのユーリアだ。
顔を上げること無く、肩を震わせている。
振り出しに戻ってしまった。ユーリアの小さな背中を見てアルフは肩を落とす。
もう少しでユーリアとの約束を果たすことができたのに。
だけれど、ユーリアの命が助かっただけでも、儲けものか。
「やり直しましょう、ユーリア」
再度あの魔術書を盗むことは難しいだろう。となれば、別の方法を探す必要がある。
あてはないけれど、まずは早くここから逃げなければーー
そう思ったアルフがユーリアの身体を起き上がらせようとしたその瞬間、背中から凄まじい衝撃がアルフの身体を貫いた。
「……がッ!」
一体何が起こった。
身体の芯がしびれる様な衝撃。
と、自分の胸から突き出した手刀がアルフの目に映る。
この手はーー
「逃がさんぞ、泥人形」
ランドルマンの冷たい声が背後から突き刺さる。
油断した。気配が感じられなかった為に、運び屋と対峙しているものとばかり思っていた。
「……ッ! アルフ!」
ユーリアが腫らした目をアルフに向ける。
アルフはなんとか自分の身体からランドルマンの腕を抜こうともがくが、びくともしない。それに、身体も上手く動かない。
まずい状況だ。ユーリアだけでも逃さないと。
「ユ、ユーリア、逃げて下さい」
「逃がさん、と言っているだろう」
ランドルマンの声に、先ほどロンドに感じた違和感をアルフは思い出した。
自分達に手をかけなかった理由。
奴の行動は「自分が手を下す必要は無い」という意味だったのか。この男が処理してくれる。だから、奴は剣を退き魔術書をヴァルフォーレに戻す事を優先した。
メキメキと貫かれた胸を中心に次第に広がっていく亀裂の音が身体を通じて直接頭に届く。このまま魔術を発動されたらーーいくら泥人形の身体とは言え危険だ。
「砕け散れ」
「……やめてッ!」
空気の塊がランドルマンの腕に集まってくるのがユーリアにも判った。
そして、それがアルフの命を奪ってしまう事も。
「駄目ですッ!」
アルフが自分の胸から突き出したランドルマンの腕を掴んだユーリアをはねのけた。
この距離でランドルマンの強力な魔術が発動してしまえば、ユーリアも致命傷を受けてしまうだろう。
それだけは、させない。
「貴女だけでも逃げて下さい! ユーリア!」
「イヤっ! 絶対に!」
「……ユーリア!」
もう離れたくない。その思いがユーリアの身体を突き動かし、再度ランドルマンの腕を掴む。だが、彼女の貧弱な力ではどうすることも出来ない事は、アルフにも、そしてユーリア自身にも判っていた。
空気がうねり、凶暴な刃へと変貌していく。
もうだめだ、魔術が発現してしまう。
アルフとユーリアが諦めかけたその時だった。
「……むッ!」
赤い光が一閃、ランドルマンに襲いかかった。
まるで炎で出来た鞭の様なそれが地面をえぐりながら寸分違わずランドルマンの腕を切り裂くーー
だが、その光はランドルマンの腕を切り落とすことは出来なかった。
寸での所で魔術を解除し、ランドルマンはアルフの身体から腕を抜き取り、避けていた。
「……またしても邪魔するか、小僧」
空を切った赤い光が穿った数メートル先まで伸びる穴を横目に、頬をひきつらせたランドルマンがそう漏らす。
「てめぇは毎回毎回、何やってんだハゲッ!」
ランドルマンが睨んだその先、そこに立っていたのは、少年と少女。
クセ毛が強いショートヘアの少年に、ポンチョを着た少女。
「それはこちらのセリフだ……ッ!」
一度ならず二度も俺の仕事を邪魔するとは。ヘスの姿を恨めしそうに睨むランドルマンだったが、次の瞬間、その視界が赤く脈打った。
そして、身体の芯から湧き出てくるのはーー黒く渦巻く怒り。
ヘスの隣に見えるララに対して湧き上がる血の渇き。
「最初の魔女の末裔……ッ!」
ランドルマンが低く唸る。
まさか自分から現れてくれるとは。思わず悦に入ったランドルマンの口角が釣り上がった。
「へ、ヘス君! いきなり斬りつけるなんて……!」
「ララ、気にすんな。あのハゲ野郎は敵だ!」
わたわたと慌てるララの前に出たヘスが叫ぶと、地面を切りつけた赤い光がしゅるしゅるとその右手に持たれたナイフに戻っていく。
「おいオッサン! 早く離れろッ! こいつはやべぇ奴だ!」
「き、君たちは……」
ヘスの言葉にアルフはユーリアと顔を見合わせた。
逃げるべきか。だけど、ランドルマンの前にあんな少年一人を置いたまま行くことなんて出来ない。
二人は無言で頷くと、身を翻し、ランドルマンに向かい身構えた。
「お、おい」
「どなたか存じ上げませんが、貴方一人に任せることなんて出来ません」
ジリジリと詰め寄るヘスとアルフに、ランドルマンはゆっくりと立ち上がると、コートを脱ぎ捨てた。
「……面白い」
誰の目からも明らかなランドルマンの「本気で行く」のサイン。
二人がかりでも、分が悪い。とすれば、先手必勝ーー
そう感じたアルフは、凄まじい圧力と殺気を放つランドルマンに即座に襲いかかった。