第2話 本心
「名前、教えて?」
そう問いかけてきたのは、ララだった。暖炉の薪が燃える優しい音に乗って無情に発せられるその問いかけ。その問いはトトにとってとてもつらいものだった。
「な、名前?」
「そう。名前」
トトは言葉を返せなかった。事の顛末はリンから聞いていたがトトには信じられなかった。だが、その問いかけが、リンの言ったことが真実だったことを告げる。
「……トト、俺の名はトトだ」
「いい名前。私、ララ。……ねぇトト、私と友達になってくれる?」
最初の友達。とララは笑顔で言った。
マジで俺の記憶まで無くなっちまったのかよ。トトは身体がまるで石の様に固まってしまった。
お前は俺とずっと一緒だったじゃねぇか。売れないクソみたいな魔術書を売ってる魔術書店をやってて、オルガんとこにしょっちゅう行って。
ずっと一緒だったじゃねぇかよ。
「……お、おう。よろしくな、ララ」
いたたまれない心をトトは飲み込みそう答えた。そんなトトの返事にララは満面の笑みを浮かべる。その笑顔は、変わらないララのいつもの笑顔。
だが、その笑顔の中にこれまでの記憶は無い。
「見てらんない」
「……あ?」
そう言って舞い降りてきたのは、白いカラス。アポロだ。
「ララ、アタシ、アポロっていうの。友達になってくれる?」
アポロの意外な一言に驚いたのは、トトだった。
ガサツで下品な奴の口から聞いたこともないその言葉に、トトは狐につままれたような感覚に陥ってしまう。
「……おめぇ、どういうつもりだ」
そう小さくトトがつぶやく。何か裏があるんじゃないのか、と疑いの目をアポロに送る。
「どういうつもりって、アタシ達が何を言っても、ララが記憶を無くしちゃったのは事実でしょ? だったら、『ひとりぼっち』な今のララを助けてあげないと駄目じゃない。違う?」
ホント馬鹿なカラスね。といつもの口調でアポロが言う。
アポロの口から続いて出てきたその言葉に再度トトは驚き、目を丸くした。
ひとりぼっち。そうだ、今、ララはひとりぼっちなんだ。記憶が無くなって自分が誰かも、何処に居るのかも何も分からない不安のまっただ中で独りだ。
だったら、アポロの言うとおり、俺らが今のララを支えてやンねぇと。
その事に先に気づいたのがアポロだということにトトは自分に情けなさを感じてしまった。
「……ケッ、急に優しいキャラに鞍替えかよ下品なカラス」
「うっさい。糞カラス」
「あの」
やっぱり最後は言い合いをはじめたアポロとトトを遮るように、ヒョイとベッドの下から顔をのぞかせたのはルフだ。
少し恥ずかしそうに、目を泳がせながら声を漏らす。
「僕も、お友達なります」
「あ? なんだよおめぇ」
「いや、僕もお力になりたいなぁ、って」
駄目ですか? と顔を伏せ、上目遣いでルフが言う。
その愛くるしさに思わずララはさらに無邪気な笑顔を零した。
「ううん、ありがとう。よろしくね。ええと……」
「僕、ルフって言います」
良かった、と尻尾を振りながらルフが言う。
「トトにアポロとルフ。えへ、友達がいっぱいできちゃった。皆よろしくね」
ララの言葉に三匹が「宜しく」と声を揃えた。
奥のテーブルでガーランド達がこれからの計画を話している声がトトの耳に届いた。ララの記憶を戻す方法。おっさん達だったらきっと見つけてくれるはず。
ーーもし、出来なかったとしても、俺が見つけてやる。
ララの無垢な笑顔を見ながら、トトはそう思った。
***
日が落ち、静かな闇が訪れた小屋の中、ヘスの目がさめたのはそんな時だった。
「……あれ?」
ここは何処だ。自分が置かれた状況を把握するのに、ヘスはしばらく時間がかかった。
炭の香りが少し残る小屋。外は雨なのか、優しい雨音が窓を撫でている。そのせいで月の光は届かず、深い闇が支配していた。
しばらくして目が闇に慣れてくると、辺りの状況が判ってくる。
地面に座り、眠るガーランドにスピアーズ。椅子に座って寝息を立てているカミラに、隣のベッドで眠るララとトト達。
思わず声をかけ、ララを起こそうとしてしまったヘスだったが、ララの肩に手が触れる寸前で思いとどまる。
ーーララは記憶を失ったはず。
あの時、燃え盛る炎の向こうで、怯えた目で自分を見るララの姿が脳裏に蘇った。
俺は結局ララを守れなかった。
バクーのオッサンに約束したことを守れなかった。
「具合はどうだ」
静かなその声にヘスは身をすくめ、身構えてしまう。
背後に立っていたのは、スピアーズ。闇の中にうっすらと浮かぶ輪郭が何処か優しく、警戒するヘスの心をゆっくりと溶かしていった。
「ララは、どうなったんだ」
「やはり記憶を失っていた。覚えているのは自分の名と、母の声だけだ」
「母……って、ララの母ちゃんか!?」
声を荒らげてしまったヘスに、スピアーズは人差し指を作り、静かに、と小さく囁く。
「明日、俺達はヴァルフォーレへ発つ。ララの母に会いに、だ」
「ララの母ちゃんに会えば、ララの記憶は戻るのか?」
「判らん。だが、可能性はある」
ララの記憶が戻る。その言葉に一瞬ヘスは安堵の表情を浮かべたが、すぐにそれは消え去った。
あの時、あのドア越しにララが言った言葉。
ーーヘスはクルセイダーなの?
その言葉がヘスの頭の中に反響し、鈍い痛みを放つ。
「スピアーズのオッサン。俺は……」
「……お前の中に流れている血は、ランドルマンと同じ、最初の魔女の血を絶やす為に彼女らを狙う狩人、クルセイダーの血だ」
ドクンと、ヘスの心臓が跳ねた。
やっぱり、あの疼きはそうだったんだ。俺は、ララを殺す為に、生きている?
そのために生まれ、バージェスの村でララと会った。
「それで、どうする?」
「えっ?」
スピアーズの突然の問いかけに、思わずヘスは気の抜けた返事を返してしまった。
どうするって、どういう意味だ?
「……逃げるか?」
「逃げる……?」
「お前の運命と、ララから逃げるか、という意味だ」
スピアーズの言葉にヘスは猛烈に胸が苦しくなった。
このままララと一緒に居たら、無意識の内にララを手にかけてしまうんじゃないか。その可能性はある。だったらーー
「俺は、ララと一緒に居ない方がいいんじゃないか、と思う」
それが逃げる事なのか判んねぇ。だけど、ララを危険に晒したくない。
「……それはお前の本心か?」
本心。
その言葉に再度ヘスは言葉を失った。
ララを危険に晒したくないのは本心だ。俺がその原因になるのであれば、俺は去り、ララには近づかない方が良い。そんなことは誰の目にも明らかだ。
だけど。
だけど、俺の本心は……
「……俺は、ララと一緒に居たい」
もう自分の手がとどかない所でララを失いたくない。ララを守って、一緒にララの記憶を取り戻したい。
己の心をひねり出したヘスは拳を握りしめ、身を震わせた。
「フッ、そうだ。それで良い」
スピアーズがヘスの頭に掌を乗せる。女の様な華奢なイメージだったが、その手は大きく、得も知れぬ安心感があった。
「子供は子供らしく、自分の心と正直に向かい合い、大人を頼れば良い」
「頼る……」
「そうだ。お前らは自分の中に抱え込み過ぎなんだ。少しは周りを頼れ」
その言葉に、思わずヘスは身を硬直させたまま、息を殺し、涙を流した。思いつめていた感情が堰を切ってその頬を伝う。
「安心しろ。お前を殴り殺してでも、ララに手にかけさせる事などさせないさ」
そう言ってスピアーズが笑顔を浮かべた。その笑顔に釣られるように、ヘスも頬が緩む。
「……プッ、オッサンに殴られたら一発であの世行きだな。手加減してくれよ」
「それは無理な相談だ。俺は男には容赦無い」
そう言って、クツクツと息を殺した笑い声が二つ暗闇の中に浮かび上がる。
もし兄貴が居たとしたらきっとこんな感じなんだろうか。自分を頼れというスピアーズの空気が、ヘスには心強かった。
「もう寝ろ。明日から忙しい」
「判ったよオッサン」
「ヘス君、俺はオッサンじゃない、お兄さんだ」
間違えるな、とスピアーズが軽くヘスを小突くと、もう一度小さくヘスが笑った。
吹っ切れた。
何があっても絶対ララは俺が守る。そして絶対ララの記憶、全部の想い出を俺が取り戻してやる。
静かに寝息を立てているララの横顔を見て、ヘスはそう決意した。
ララを見るヘスの視界に、例の疼きは無く、ぼんやりとララの輪郭がただ浮かび上がっていた。