プロローグ
「はやくしろっつのッ!」
「わ、わかってますよ」
暗闇に響く男女の声。
薄暗く、嫌な匂いと湿った空気が充満している下水道を駆け抜ける、二つの人影があった。
「……巻けましたかね?」
「たぶんね、あいつらほんっとしつこい」
先頭を走っていた一人が立ち止まると、膝に手をつき、肩で息をしながらそう答える。
黒く艷やかなロングヘアーをサイドアップにまとめている女。もう一人は、大きめのフードを深くかぶり、その顔は見えないが体格とその空気から手練であることがありありと判る巨躯の男。
穏やかそうな口調の男に、ガサツな口調の女。まるで正反対の二人だった。
「でも、目的の魔術書が見つかってよかったですね」
そう呟いた男が懐から出したのは一冊の魔術書。
下水道に小さく差し込む雲に隠れていた月明かりがその男の腕を照らした。
「よかったですね、って、アンタに必要な魔術書でしょうが」
「えっ……まぁ、そうですけど」
困った、という表情で男はその巨躯な身体を竦ませる。
「はぁ……ほんとアタシって一途な女だわ」
「え? どういう意味ですか?」
「そのまんまの意味だっつの」
本当に鈍い奴。……だけど、そんなところが好きなんだけどさ。
そう思った女は呆れたような表情を一瞬見せたが、すぐに笑みを浮かべた。
「……こっちだ!」
と、不意に下水道に響く、声。それも数人。
その男達が持っているのだろうか、松明の明かりに照らされ、苔でうめつくされた下水道の壁面にいくつかの人影を落とす。
「あ、来ちゃいましたね」
「ああ、もう。しつけぇなッ!」
そう吐き捨てた女が走りだす。
だが、男は下水道の向こうに見える男達を見つめたままだ。
「……ちょっと、なにしてんのさ」
「あ、すいません、ユーリア」
「早く行くよ、アルフ」
男が女の後を置い、走りだす。
思わず嗚咽をもらしそうになる悪臭の中、ヘメロカリスの花の香りがふわりと闇を揺らした。
ユーリアとアルフ。
とある魔術書を手に入れた二人は、追手から逃れるために願わくば二度と来たくはない下水道をひたすらに逃げていた。
アルフにとって、そしてユーリアにとって「大切な物」を取り戻す為に必要な大協約で禁止されている上級魔術書ーー
「逃げ切れるかな?」
「切れるかな、じゃなくて、逃げ切ンだよ。ンなところで捕まるわけにはいかないっつの」
そう言いながら、二人はわずかな月明かりで照らされた下水道を全速力で駆け抜ける。視線を外せばその輪郭がうっすらと見える程度の明かり。その中を躊躇なく、二人は走り抜ける。
パシャパシャと音を立てながら汚水で濡れた細い道を抜け、右に折れ、左に折れる。その先に見えてきたのは、ひときわ明るい地上への梯子。
「あった!」
梯子を見たユーリアの顔に安堵の表情が浮かび、彼女は思わず言葉をもらした。
その時だった。
「ユーリア! 危ない!」
ユーリアの後ろを走っていたアルフが彼女の細い腕を掴むと、即座に己の胸にその体を抱きとめる。何が起こったのか判らなかったユーリアだったが、次の瞬間、空気を斬り裂く金切り音がユーリアの耳を霞め、直後に激しい衝撃音が襲う。
すぐ脇の壁面に視線を送ったユーリアの目に映ったのは先ほどまで自分が居た場所の壁に突き刺さっている細く長い剣。月明かりに反射してギラリと冷たい光を放ち、思わずユーリアは息を飲んだ。
「……あれェ、おかしいなァ」
暗い下水道の奥から、何処か気の抜けた声が響くと、ユーリアを守るように身構えるアルフがその声の方向を睨みつける。
ゆっくりと闇の中から姿を現したのは、黒い長めのローブを着た男。
「殺った、と思ったんですけどねェ」
「ア……死の宣教師」
ユーリアが小さく声を漏らす。
その男達のトレードマークである黒いローブに黒いボンブルグハットがユーリアに恐怖を与える。狙われてしまえば、決して彼らからの「死の宣告」から逃れることは出来ない聖パルパス教会の神父にして、最強の暗殺者。
「……それ以上近づかないで下さい、死の宣教師」
怯えるユーリアとは対照的に、アルフはこちらに歩みを進める死の宣教師に威嚇に似た低い声を発する。
だが、死の宣教師は動じない。
「へェ、アタシらの事を知ってるんですかァ? 只の盗人ってワケじゃなさそうですねェ」
そうつぶやきながら死の宣教師が壁に刺さった剣に手をかけ、深々と突き刺さったそれをたやすく抜き取る。
ちょうど月明かりの影になり、表情は見えないが、その気の抜けた声からは想像出来ないほどのピリピリとした狂気が死の宣教師から放たれている。
「近づくなと言っているだろッ! 死の宣教師ッ!」
アルフはそう叫び右腕を振りかぶると、そのまま拳を壁に打ち付けた。そのすさまじい衝撃にビリビリと空気が揺れ、足元を流れる下水に波紋が起こる。一瞬の間を置き、拳を叩きつけた壁が割れいくつかの破片が溢れた。
それ以上近づくと、お前の頭がこうなるぞ。
アルフは無言でそう警告を発する。
「すいませェん、下がるわけには行かないんですよねェ。アンタ達が盗んだその魔術書、渡すわけには行かないんですよォ」
くるくると細長い剣をおもちゃの様に回しながら、つまらなそうに死の宣教師がそう言葉を零す。
その脱力したようなやる気のない空気が逆に恐怖を与える。
もっと隠れて下さい。そう言いたげにアルフがユーリアを左腕の影に隠す。
「僕達もこれを返すわけにはいかないんです」
「困りましたねェ。こちらとしてもそれを渡すわけには行かなァい。でも、アンタ達も返す気は無ァい」
ハァ、と死の宣教師が深い溜息を付き、体からすべての力を抜いたようにうなだれる。面倒くさい。その姿がそう語っている。
と、次の瞬間ーー
「……ッ!!」
ゆらりと動いた死の宣教師が瞬時に間合いを詰める。
「機」を外されたーー
アルフが気がついた時にはすでに死の宣教師の絶対殺傷範囲にアルフは立ち入っていた。バックステップで間合いを取ろうとするアルフの首元に白銀の切っ先が伸びる。がーー
「……あれェ?」
死の宣教師が更に気の抜けた声を零した。
彼の目に映っていたのは、宙を舞うアルフの首……ではなく、彼の剣を受け止めている、アルフの首。人の物とは思えない、血が通ってない薄墨色の首。
裂けたフードから覗くアルフの体は、無機質で、温かみが無い、まるで美しい彫刻のような薄墨色の石灰岩で創られた人外の身体だった。
ーー泥人形。
命なきものに生命を吹き込む「生命付与」の魔術で生み出された岩石の塊、泥人形の体が、死の宣教師の剣を受けその衝撃を逸らしていた。
「へぇ、アンタ、その体……」
「退けッ!」
状況の把握に遅れた死の宣教師の体をアルフの腕が襲う。たとえ最強の暗殺者といえども、自分の拳が芯を捉えてしまえば、無傷では居られないはず。
だが、加減することなく、放ったアルフの左拳は空を切り、再度壁面に穴を穿った。
「怖いですねェ」
「……ッ!」
わずかに身を捻り紙一重でアルフの拳を躱した死の宣教師の表情が月明かりに照らされる。
頬がこけ、それが月明かりのせいなのか青白く、人形の様な死の宣教師の顔。だが、その目だけは血に飢えた獣の様にギラついている。
何だ。何か胸騒ぎがする。
「……ユーリア! 逃げて下さいッ!」
何かを感じたアルフが咄嗟に叫んだ。
この不気味な死の宣教師一人だけでも危険だけど、もう一人、居る。
別の「何か」がこの場所にーー
「逃がさない」
女の声がアルフの耳に入る。
目の前に突如現れたのは、女。男と同じ、黒いローブを着た女。黒い艶やかな髪の間から覗く鋭い眼光が秘めているのは、何処か高貴な雰囲気を纏った殺意だ。
「なッ!」
一体どこから現れたのか、アルフにもユーリアにも判らなかった。死の宣教師の男ように、闇の中から現れたわけでもない。
瞬きする刹那の時間で、その女は忽然と姿を表していた。
「魔術書を返してもらうわよ」
するりと女のか細く長い腕がアルフの懐に伸びる。
渡す訳にはいかない。
アルフの脳裏に浮かんだのはそれだけだった。
考えるより先にアルフの身体は動いていた。右腕でユーリアを優しく抱きかかえ、壁面にめり込んだ左拳を目の前の女を叩きつけようと振り上げる。
そして、渾身の力で振り下ろした拳が女の頭部を捕らえる、と思ったその時。
「させませェん」
ギラリ、と死の宣教師の剣が煌めいた。
そして次の瞬間、先ほどは傷すら付けられなかったアルフの腕が宙を舞う。
だが、上腕部分から斬り裂かれたアルフに動揺は無かった。
「ユーリア、ごめんなさい」
「……えっ?」
ユーリアを抱えたまま、低く屈んだアルフが渾身の力で跳躍する。
ただの跳躍ではない。その両足が地面にめり込む程の強力な脚力で放たれたアルフの身体は、梯子の方へと飛び、鉄で出来た梯子をひしゃげさせながら軌道を変え、そのまま月明かりの方へと舞い上がる。
「なんと」
一瞬の出来事。逃げられた。
まさかあの状況から逃げ押せるなどと思っていなかった死の宣教師はつい感嘆の声をあげてしまう。
「やりますねェ」
粉塵と舞い上がった汚水の湿った空気を押しのけるように再度死の宣教師の声が響く。
女は微動だにせず、ひしゃげた梯子をじっと見つめたままだった。
「追いますかァ?」
死の宣教師も女と同じ方向を見つめたまま、つぶやく。
背後から、アルフ達を追いかけていた男達の足音が近づいてきている。
「……不安要素は残せないわロンド。『客』が来ることになっている」
「客、ですかァ?」
パシャパシャと走ってくる足音が近づく。
「そう。『ジン・バルクルム』が来るわ」
その名前に死の宣教師、ロンドの頬がぴくりと動いた。
「……協会魔術院の総裁」
「司教様より警戒を怠るな、とのお言葉よ」
「なるほど。ついに動くわけですねェ」
足音に紛れこませるように、息を殺したようなロンドの笑い声が低く響く。
「それと、後ろの者達の処理を」
女の言葉にロンドは冷めた視線を返す。言葉を返さずとも判る、暗殺者の目。
その表情に満足したのか、女はロンドに一瞥すると、現れた時と同じようにまたもや忽然と姿を消した。足元に飛び散った汚水を揺らすこと無く、女がいなくなったという現実だけがそこに佇む。
「……了解しましたァ、ボス」
ロンドがまた、くるくると白銀の剣をおもちゃのように弄びながら、小さく独りごちた時と、闇の中から、黒いベストを着た数名の男達が彼の前に現れたのは同時だった。