第27話 想い出になる前に
精神魔術書をリンが発現してから、ララの夢の中に入るのはそう難しいことではなかった。
リンは幾つもの手順をカミラから教わり、発現に少々手間がかかっていたが、ヘスはただじっとララの側に居ただけだった。
「いくわよ」
リンの声と共に訪れる、激しい睡魔のような靄。ぐるりと天地がひっくり返ったかと思った次の瞬間、ヘスとリンは森の中に立っていた。
夢の中、と事前に教えられなければ疑いようのない、現実のような光景。足を踏みしめれば、枯れ葉のかすれる音と土の感触がする。大きく息を吸込めば、優しい木の香りが鼻腔をくすぐる。
紛れも無い現実。だけど、これはララの夢の中だ。
そう改めて己に言い聞かせたヘスが、森の先に見える小さな家に視線を送った。
こんな森の中に似つかわしくない家。バージェスの村で見た記憶がある。
「ララの家……?」
あれは、ララの古魔術書店。その二階部分がポツリとそこにあった。
きっとあの中にララが居る。必ず助ける。ヘスがそう思った時だった。
「ううっ……」
強烈な頭痛がヘスを襲う。
意識が遠退き、思わずその場にうずくまってしまう。
「ちょっと、どうしたの!?」
「痛い……」
頭が痛い。背中が疼く。それに、視界が赤く脈打っている。
だんだんひどくなっている気がする。
これは……傷のせいじゃ無い。
「大丈夫? 肩を……」
リンが苦しそうなヘスの肩を持ち、起き上がらせようと触れた。
その瞬間、ヘスの身体に、まるで血管が燃え上がった様な痛みが走った。
その痛みが全身を駆け巡る。
「うわぁぁぁァッ!」
思わずヘスはリンを払いのけた。
突き飛ばされたリンが驚きの眼差しをヘスに送る。一体なにが起きたのかリンにも全く分からなかった。
「な、何……?」
「い、今のは……」
今の痛みはなんだ。俺の身体はどうしちまったんだ。脈打つ視界を押さえつけるために、ヘスは睨みつける様な目線をリンに送った。だが変わらず、視界が警告アラームのように脈打つ。
その凶暴な目にリンに嫌な予感が走った。見覚えのある目。
「貴方、その目……」
ランドルマン。ランドルマンの刺すような目とヘスのそれが重なる。
この症状。ひょっとしてヘスは……。
「……ララの元に急ごう」
意識が飛んでしまいそうになる。何故か怒りがじりじりと沸き上がってくる。
だがそれを気力でヘスは押さえつける。すぐそこにララが居るんだ。
ララが目覚めなくなって、改めて思った。
俺はララが好きだ。
ララが居ない世界なんてあり得ない。
だから、向こうの世界に一緒に戻って、想いを伝える。断られたって構わない。
もう一度、笑顔で会いたいんだ。
すがりつくようにヘスが森の中に佇む家の扉にもたれかかる。
リンはただ、ヘスを見つめるしか無かった。
予感は当っている。リンはヘスの後ろ姿を見て確信した。ボロボロになったシャツの隙間から見えるヘスの背中。そこに見えるのは、黒い痣。
黒い羽の痣。最初の魔女の血に反応して憎しみを滾らせる漆黒の羽。
ヘスは、クルセイダーの血をーー
「ララッ!」
怒りに任せるようにヘスがドアを叩く。壊してしまうのではないかと思うほど強く、切ないノック。
「ちょっと、やめなさい! 無理やり開いちゃ駄目だって、カミラが言っていたでしょう!?」
リンはそう言うしか無かった。だけどヘスの身体を抑えることは出来ない。
一歩も動けない。
「ララッ! 俺だッ! 帰ろう! 皆が待っているぞ」
ドン、とヘスの拳がドアを叩く。
「トトも、ガーランドさんも、スピアーズのおっさんも、皆お前を待ってるぞ……ッ!」
もう一度ドン、とヘスの拳がドアを叩く。
だが、返事は無い。
「バージェスの村に帰ろう。オルガおばさんも俺の母ちゃんもお前を待ってる」
と、ドアのノブが少し動いた。ララだ。
思わずドアの向こうのララの鼓動を確かめるようにヘスがドアに耳を押し付ける。
薄いドア一枚向こうに感じる、ララの存在。
「ララッ……俺は……」
聞こえているはず。ドアの向こうに居るララに、俺の声が。
「お前が何者でも、何であっても関係ない。俺はお前を守る……ッ」
「……ヘス……」
ドアの向こうで小さく声がした。ララの声だ。
「ヘス、あなたは……クルセイダーなの?」
「なんだって? クル……?」
聞いたことのない名前にヘスは思わず聞き返す。
だが、その言葉に息を飲んだのはリンだった。
どうして、ララはその事を知っているのか。だけど、間違い無い。ヘスは間違い無く、クルセイダーの血を引いている。
「……リンさん、そこに居る? ヘスは……クルセイダーなの?」
「なんだ!? クルセイダーって……ッ!」
ヘスは再度聞き返すが、ララの返事は無い。
「……おい、クルセイダーってなんなんだッ!」
ヘスはリンに答えを求める。この痛みと疼きが関係あるのか。
だけど、リンは何も答えられなかった。
答えるのが怖かった。
「……リンさん。答えて」
震える小さな声が扉の向こうからリンの心を射る。
「お願い。教えて。リンさん」
こんな残酷な事って。
リンの瞳から溢れる涙が一筋、頬を伝った。
「ごめんなさい、ララ。彼は……ヘスはクルセイダーの血を引いているわ」
扉の向こうから息を飲む声が聞こえた。
言うべきじゃ無かったかもしれない。知らない方が良かった事かも知れない。だけど。
「ありがとう……お姉ちゃん」
「ララ……ッ!」
小さなララの声。涙に霞んでいる小さな声。
「ララ、俺は……俺は、お前が……」
何かを察したヘスが再度扉にすがりつく。
大きくヘスの視界が脈打つ。裂ける様に背中が痛い。
ヘスにも無意識で理解出来た。
これは、ララに。この痛みは、ララにーー
もう、時間は無い。
「俺はお前が好きだ。お前が居ない世界なんて考えられない……一緒に帰ろう。バージェスの村に」
「ヘス……」
向こうに戻って伝えるつもりだったその言葉をヘスは口にした。
弱々しいララの声が聴こえる。
視界が脈打つ。
そして滲んだ。
「……覚えてる? トント祭。それに魔術書を探して回ったの」
小さく聞こえるララの声。震えているララの声。
何を。想い出なんか。
「ヘスの家で作ったフィッシュパイ。美味しかったよね。ビビの街で食べたピロシキ、美味しかったよね」
ヘスはドアのノブを握った。冷たい金具を通じてつながる、ララとヘスの想い。
「楽しい想い出ばっかり。私の想い出」
「ララ、やめろ……」
「ヘス、ごめんね。私……」
思わずヘスはノブを回した。だが、ぴくりとも動かない。
だけど、小さく震えている。
「……戻れない。ヘスを失うなんて耐えられない」
「俺は居なくならない! ずっと一緒だ!」
「ララッ! 駄目! 戻ってきて!」
ヘスの叫び声と共に、リンの声も森に哀しく木霊した。
「想い出になる前に、私も伝えたい。私も、ヘスの事好きだよ。……大好き……」
「……ララッ! 駄目だ、開けろッ!」
開けてくれ。駄目だ。
「ごめんね、ヘス」
「ララァァァァッ!! 駄目だァァッ!」
扉のノブが軽くなった。
それと同時に落ち着いていく、ヘスの目の鼓動。赤く燃えるような疼きが次第に落ち着いていく。
それが意味するもの。
「……ッ!」
辺りが突然、闇に落ちた。
暖炉の火を消した後の闇夜のように。ヘスは泣き叫んだが、声は、聞こえない。
もう一度見たかったララの笑顔が、一瞬見えた気がした。