第26話 血の真実
ララは一人座っていた。見えるのはひたすらに深い黒。
星一つない漆黒の空に、平衡感覚すらおかしくなってくるような地面。ただ、うっすらと分かる足元の草土の輪郭がララの心を現し世にとどめている。そんな気さえするほどの深い闇。
「私は……」
何故こんなところに居るのだろう。ふとそう思ったララは喉を震わせた。
何か大事な事があった気がしたけれど、なんだったっけ。
「……もう、いいや」
胸がジュク、と鈍い疼きを発した。虚脱感がララを支配する。
このまま、ここで一人で居ても良いかな。
そんな気さえしてしまう。
「そう、もういいのよ」
返ってくるはずのない返事に思わずララは、はっと身震いした。
「……誰?」
ララが思わず問いかける。
先ほどまで痺れたように感覚を失っていた「心」が動き出した気がした。そしてにじみ出てくるのは恐怖。闇の中から何かが自分の身体を引きこもうと腕を伸ばしている気がした。
「……ッ!」
悲鳴にならない声がのどの奥から吐出された。この場から逃げようと身体を動かすが、泥の中に沈んでいるように身動きが取れない。闇がまとわり付いてくるーー
「やめてッ! どいてッ!」
ララは思いきり叫んだ。闇の中もがき、両手両足でそれを払いのける。
と、いつの間にそこにあったのか、ぼんやりと揺れる光がララの目に映った。優しく揺れる小さな光。今にも消えそうな儚い光。
わらにもすがる思いでララはその光を目指し、身体を動かす。闇がララの肩を掴み、引きずり戻そうとするが必死に払いのけ、ララは進む。
あと少しで届く。その光に手を伸ばしたその時。
「あっ……!」
光の中から小さな手が差し伸べられた。だがその手の先の光は命を終える花のように次第に萎んでいく。
「待って……ッ!」
必死に両手を伸ばし、ララはその小さな手を握った。冷たく小さい手だ。
闇がまとわりつくようにララの身体を抑える。まるで「行かないで」と言いたげに。
「こっちにおいで」
ララの耳に冷たい声が聞こえた。さらに闇がまとわりつく。
ぐるぐると必死にララを留めるように身体を覆い尽くした闇は、首を覆い、そしてララの視界を闇に落とした。
***
目を覚ましたララが目にしたのは懐かしい風景だった。
ゆらゆらと揺れるカーテンから差し込む優しい陽の光。そして古びたベッドに暖炉。
ここは、バージェスの私の家?
「あれっ!? あれっ!?」
藁と真菰の掛け布団を勢い良くはねのけ、ララが飛び起きる。もう一度目をこすり、いつも置いているベッド横のサイドテーブルから眼鏡を取り、もう一度辺りを見渡す。
やっぱり私の部屋だ。だけど……
「……トト?」
いつも掛け布団の上で寝ているはずのトトが居ない。勢い良く掛け布団と飛ばしたので、もし居れば「テメェふっざけんなよ!」と怒りをあらわにするはずだ。
トトが居ない。辺りをもう一度見渡し、ララはある場所で視線を止めた。カーテンが揺れる窓。
その向こうに見える景色の何かがおかしい。
ゆっくりとベッドから降りたララは、恐る恐る窓に進む。
そしてララの目に映った景色ーー
「……ッ!」
ララは言葉を失った。いつもであればオルガおばさまの家と遠くに見える山々が見えるはず。だが、ララの前にあるのは、鬱蒼とした木々とその向こうに見える木組みのコテージ。
これは、語らう森? カミラさんのコテージ?
「これは貴女の夢の中よ」
背後から突然かけられた声にララは身を竦めた。
そして、ゆっくりと振り向いたララの前に居たのはーー
「……私?」
鏡を見ているかのような錯覚に陥る。だけど、いつも左右逆に見ているから、違和感がある。でも確かに目の前に居るのは、私。
「私は貴女の中のもう一人の貴女よ」
「……えっ?」
困惑するララに、もう一人のララが笑みを浮かべた。冷たい笑み。
思わずララの背筋に冷たいものが走った。
「貴女の中に眠っているもう一人の貴女。貴女はランドルマンの精神魔術『暗示感応夢』を受けて、夢の中に閉じ込められてしまったの」
「夢の、中?」
「うん、さっきまで貴女が居た、あの闇の牢獄。でもそのおかげで私はこうして貴女の前に出ることができたんだけどね」
その言葉にララの脳裏にさきほどのまとわりつく闇の記憶が蘇った。ここは不思議な場所だけれど、さっきよりも落ち着く感じがする。
「もう少しで貴女は『暗示感応夢』に取り込まれるところだったの」
「貴女が……助けてくれた?」
「うん」
もう一人のララが静かに頷く。
「ありがとう、と、言っていいのかな? あなたに」
変な感じ。
だけど、助けてくれたのであれば、早くこの夢から出ないと。
思い出した。皆のところに早く戻らないと。
お母さんに会いに行かないと。
「とにかく、ありがとう。私、早く向こうに戻らないと」
「……戻ってどうするの?」
「えっ?」
もう一人のララが眉を潜めた。
「戻っても、待っているのは残酷な現実だよ?」
「……どういう事?」
残酷な現実? 何のことを言っているのかしら。
「歴史は繰り返されるのよ、ララ。それはもう逃れようの無い現実なの」
「……意味が判らない」
得体の知れない恐怖がララを襲った。それは意味の分からないその言葉なのか、それとも、嘲笑するようなその笑みなのかは判らない。
「貴女は現実を知って心を痛めた。知らない方が幸せな事は沢山あるのよ」
ふふふ、ともう一人のララが冷めた笑みを浮かべた。
ララには判った。私が知らない事を、私の中のもう一人の私は、知っている。
「あなたは何を知っているの?」
「……私と一緒に居よう?」
もう一人のララが歩み寄り、手を差し伸べた。
思わずララは窓際に後ずさる。
「私と一緒に居れば、苦しむことも、悲しむこともないよ」
ね? ともう一人のララは更に手を突き出す。
知らないほうが良かった現実。確かに、知らないほうが幸せだったかもしれない色々な事を私は知ってしまった。リンの家族の事。私の中にある、呪われた力の事。
思わずその手を握ろうとしたその時だった。
「ララッ!」
けたたましいドアを叩く音と共に部屋に響いたのは、ヘスの声。ノックというよりもドアを殴りつけているような音だ。
「ちょっと、やめなさい! 無理やり開いちゃ駄目だって、カミラが言っていたでしょう!?」
ヘスの後を追うように聞こえてきたのはリンの声。
その二人の声に思わずララは頬が緩む。
懐かしい声。暖かい声。
「あらら。来ちゃった」
そう零したのは、もう一人のララ。残念そうに肩をすくめ、呆れた様な表情を浮かべている。
「……私、戻る。向こうに」
ララが決意したかのようにそう呟いた。ヘスとリンの声を聞いて、霧が晴れるようにララの脳裏にその言葉が浮かんでいた。
「貴女は、知りたいのね。現実を」
「……ドアを開けるね」
ララがドアのノブに手をかけた。この薄いドアの向こうにリンが居る。ヘスが、居る。
ヘスのところに帰りたい。会いたい。
「開ける前に一ついいかな?」
ノブを握る手に力が入ったその時、もう一人のララが静かに囁いた。
「私の話を聞いて、それでも帰りたいと思ったのであれば、そのドアを開けて」
「……話?」
「貴女とヘスにとって大切で重要な事」
その言葉に思わずララは振り向く。窓から差し込む光で輝いているように見えるもう一人のララの方を。
「私と……ヘスの事?」
「そう。ずっと昔から決まっている運命」
ゆっくりともう一人のララが歩き出す。
「あの祠、覚えてる?」
「最初の魔女の歴史が刻まれていた祠?」
「そう。あそこに書かれていた歴史はね、半分ウソなの」
「嘘?」
どういう事だろう。ララが小さく首をかしげる。
「『始まりの厄災』が原因で、最初の魔女は人々に迫害された。だけど最初の魔女は人々を恨まなかった。どうしてかは知ってるでしょ?」
「彼女の前に現れた一人の男性?」
「そう。最初の魔女、ジーナの前に現れた男性、オーウェンが彼女を愛し、そして人々から守った」
だけど、クルセイダーの魔女狩りによって、その男性は殺された。
壁面にはそう記されていた。
「壁面にはこう書かれていたでしょ。『ジーナが愛したオーウェンは、彼の妹達によって殺されてしまった』って」
そして、悲しみ、絶望した最初の魔女は本当の魔女になった。
だけど……
「……それは違う?」
「うん。違う」
ニコリともう一人のララが笑う。
「彼を殺したのは、最初の魔女ジーナ本人なの」
「……えっ?」
その言葉の意味はララには判らなかった。
なぜ、最愛の男性を最初の魔女が殺す必要が有るの?
「何故ジーナがオーウェンを殺す必要がある、そう思っているでしょ」
「……」
「そうよね。お互い愛し合っていたんだもん。殺しあう必要は微塵も無い。だけど、彼らの『血』が許さなかった。『運命』が許さなかった」
ララの顔から血の気が音を立てて引いていった。
血。
まさか。
「ジーナが愛したオーウェンもまた、クルセイダーの力に目覚めてしまったの。魔女の血を絶やす狩人の血。そしてその悲劇が最初の魔女の血にかけられた呪い。クルセイダーが最初の魔女の血にかけた、呪いのタイムリープ」
まって。
嫌。
「言ったでしょう。『歴史は繰り返される。それはもう逃れようの無い現実』って」
嘘よ。絶対ウソ。
止めて。
お願い、
ソレイジョウ、
イワナイデ。
「ララ、ヘスはね。クルセイダーの血を引いているの」
知らない方が幸せだった真実。
容赦無い残酷な真実。それは自分の中にあった現実。
ララの中で、何かが、崩れた。